9月5日に行われた東京パラリンピックの閉会式。プロジェクションマッピングを使用するなど様々な趣向が凝らされたスタイリッシュなショーは大きな話題となり、熱狂のまま東京五輪は幕を下ろした。

その閉会式の総合演出を務めたのが小橋賢児氏(42)だ。元俳優である小橋氏の“仕事ぶり”はネットを中心に騒然となり、Twitterでは《あの小橋賢児なんや!すごい転身、すごい活躍やないか!》《小橋賢児さんの演出とはびっくり!素晴らしいです!!》との賞賛がいまだ後を絶たない。

さかのぼること’88年、若干8歳で芸能界デビューを果たした小橋氏。’94年のドラマ『人間・失格~たとえばぼくが死んだら』や’98年の『青の時代』(ともにTBS系)といった話題作に出演。さらに’01年放送の連続テレビ小説『ちゅらさん』(NHK総合)では主要キャストに大抜擢となった。

しかし’07年、芸能生活20周年を目前にして突如活動を休止。当時、彼は27歳だった。

「小橋さんは人気作品への出演が続いたことで“人に見られている”という意識が強くなり、次第に芸能活動に疲れを感じるように。休止によって一旦リセットし、アメリカ留学や放浪の旅を経験しました。

そののち『俳優業以外で再スタートを切ろう』と決意しましたが、何にチャレンジしても軌道には乗らず。貯金も底をつき、最終的には心と身体を壊してしまうことに。実家に戻ってほぼ寝たきりの生活を送っていたこともあるそうです」(テレビ局関係者)

そんな小橋氏に、30歳を目前にして転機が訪れる。

彼はネットインタビューで、こう話している。

「いまの自分につながっているのは、30歳になるときに自分でプロデュースして友だちと開催したパーティですね。30歳直前に病気にかかって動けなくなってしまって、誕生日を目指して自分の体を治そうと思っていたんです。そこでゼロになったことで、子どものころのときのようにワクワクする気持ちを取り戻せた」(『HILLS LIFE DAILY』’20.08.13)

■「想定外のことばかり起こるのは旅と同じ」

三十路を機に再起を図った小橋氏はその後、映画やイベントを製作。’14年には、アメリカで出会った音楽フェスティバル『ULTRA MUSIC FESTIVAL』の日本版『ULTRA JAPAN』でクリエイティブディレクターを務めることとなった。同イベントは開催6年目となる’19年に累計動員数50万人を達成。彼の手腕によって、社会現象と呼べるほどの盛況を見せている。

現在、小橋氏はイベント事業などに携わる『The Human Miracle 株式会社』の代表取締役兼クリエイティブディレクターという肩書きを持つ。新型コロナの影響を受け降板することとなったが、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会主催の『東京2020 NIPPONフェスティバル』のクリエイティブディレクターにも就任していた。

そして、迎えたパラリンピックの閉会式。どん底で奮起した30歳から12年で、一躍“ときの人”となった。

「小橋さんは東京五輪が’20年に開催されることを楽しみにしていました。

五輪を通して世界中から人が集まることで、日本人は多様な生き方や文化を一気に知ることができると考えていたためです」(スポーツ紙記者)

東京五輪を‘20年に開催することはできなかった。悔しい気持ちのいっぽうで、小橋氏は学ぶこともあったようだ。

「小橋さんは『想定外のことばかり起こるのは旅と同じ』といい、不安のなかでも臨機応変に自分を変化させていくことの大切さに気づいたといいます。旅を経て新たなステージに立つことができた、彼らしい“気づき”と言えるでしょう。そう学んだ後のパラリンピック閉会式は、いっそう感慨深いものがあったはずです」(前出・スポーツ紙記者)

挫折を乗り越えて華麗なる転身。コロナ禍でも偉業を成し遂げたいま、小橋氏は一際輝いている――。

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