「私は、隣にいるゲンさんの代理人で市川といいます。今日、ここに来たのは、今まさに彼の命に関わる状況があるからです。
12月初旬、大阪市にある韓国領事館。窓口のパーティションぎりぎりに詰め寄り、担当者の目をまっすぐに見ながら熱い口調で話すのは、市川真由美さん(54)。奈良市のNPO「無戸籍の人を支援する会」代表だ。
担当者は、市川さんの迫力に気おされたわけではないだろうが、その後、丁寧に仮パスポートの申請について説明してくれた。
傍らで不安そうにしていたゲンさん(60代・仮名)の来し方について、市川さんが話してくれた。
「ゲンさんは、12歳のとき、韓国から船底に入れられて日本に連れてこられ、強制労働させられました。その後はまじめに働きながら成人し、やがて日本人女性と暮らすようになり、2人で居酒屋を始めて繁盛させます。ですから、ご自分が韓国籍というのはわかってますが、ここ日本では半世紀以上も無戸籍状態、いわば“存在しない人”でした」
ゲンさん自身にも聞いた。彼が市川さんに連絡を取ったきっかけは、このコロナ禍だったという。
「15年前に妻を亡くして細々と暮らしていましたが、コロナ禍になっても、私には予防接種の通知は届きません。高齢で糖尿病の持病もあるので、まさに死活問題でした。
領事館での最初の交渉を無事に終え安堵したのか、ようやく笑顔を見せてくれた。
貧困やDVなど親の事情で出生届が受理されずに、戸籍のないまま育ち「無戸籍」となった人は、法務省が把握するだけで842人いるが(21年調べ)、実際には1万人以上ともいわれる。
保険証をもらえない、進学できない、免許が取れないなど生活の支障に加え、婚姻届が受理されず、子供が生まれても出生届を出せないという“負の連鎖”も生み出している深刻な社会問題だ。
大阪から帰りの電車を乗り継ぎながら、市川さんが話す。
「ゲンさんは、ずっと日本で暮らしていたという証拠となる写真などがあって、助かった部分もあります。ふだんの無戸籍支援の活動では、役所の窓口で『うちではわかりません』『管轄ではないので○○課へ行って』など無視やたらい回しは日常なんです……すいません、ちょっと小休止」
突然、階段の前で立ち止まる。
「20年前に娘を産んだときに子宮頸がんがわかり、子宮を全摘出し歩行困難になって、両足に医療用の弾性ストッキングを装着してるんです。だから階段の上り下りが不自由で。でも、私がしんどいからって、支援に行かないという選択肢はないんです。だって、人の命がかかっていることだから」
その思いを一層強くする出来事が昨年9月にあった。大阪府高石市の推定78歳の女性の餓死事件だ。
「私、事件後、現地にも行きました。大阪と奈良の距離でしょう。もし、母子が私のことを知っていたら、餓死というむごい死に方ではなく、違う人生もあったんじゃないかと思ったんです」
これが、マスコミにも出て活動をもっと知ってもらおうと思うきっかけとなったと話す。
「はっきり言って、しつこい私は役所の嫌われもんですが、簡単に諦めるわけにはいかんのです。明日も相談者と一緒に窓口へ行き、なるべく上品に座って(笑)、ジーッと担当者の顔を見て、やる気になってもらえるのを待ちます」
最後は関西人らしくジョークにして笑わせるが、一人の主婦が、無報酬で、法律用語も飛び交う困難な支援活動をするようになった背景には何があったのだろうか。
■母は2度代わった。3人目の母の愛で、人の痛みに寄り添う力を得た
市川さんは1967年(昭和42年)8月22日、山口県小野田市で生まれた。父親は外国航路の機関士で、ほとんど不在だったという。
「母はアルコール依存症で、私は幼稚園から自分でご飯を炊いてました。虐待もすさまじく、5歳で母が自殺したときは、正直、悲しいよりホッとしてました。生母の死をきっかけに、島根県出雲市の父方の実家に引き取られます。
19歳のときに名古屋で一人暮らしを始め、ファッション系の専門学校へ進学。卒業後、奈良市で結婚し、長男長女にも恵まれた。そして10年1月に、夫婦でイベント会社「いち屋」を始めた。
奈良市内の事務所には、所狭しと、町内の祭りで使われるようなグッズが山積みになっていた。
「イベントも、日本中がコロナで軒並み中止とか延期になったでしょう。うちの商売も大打撃です。それもあり、今年から新たに学生食堂の運営も始めたんです」
毎日、ランチの時間帯には、奈良佐保短期大学(奈良市)で“学食のおばちゃん”となって働く。
「月曜から金曜まで、早朝から午後2時ごろまで学食での仕事。その間も、夫婦で行ったり来たりでイベント会社も動いてます。となると、私が無戸籍支援の活動ができるのは、本来は週末なんです。
そうは言いながら、彼女は睡眠時間を削って深夜に仕込みをするなどして、手弁当での活動を続ける。その頑張りのもとは何だろう。
「私に人の痛みをくみ取る力があるとすれば、やっぱり少女時代の体験やろうか。2人の母からの虐待に学校でのひどいいじめ。でも私は両親の愛情は薄かったけれど、ずっと見守ってくれる祖父母や今の母がいた、だから大人になれた。じゃあ、無戸籍の人には誰がいるのと考えたら、今の日本にはいないんですね。そう思うと、もう体が動いていたんです。とはいえ、最初は、私にとっても無戸籍の人というのは、テレビの特集で見るだけの遠い存在でした。まさか、当事者が、あれほど身近にいたなんて」
■ある無戸籍だった女性の切ない姿が目に焼き付き、たらい回しにされても諦めない
いち屋を始めて5年ほどしたころのこと。ちょうどマイナンバー制度も始まっており、従業員らに住民票の提出を求めた。
「住民票はどうなった?」
「市役所で『ない』と言われたんです」
「そんなわけないでしょ」
思わず、詰問調になる市川さんだった。
「ふだんのまじめな仕事ぶりから、嘘をつくコじゃない。それで一緒に市役所に行くと、本当に戸籍がなかったんです。驚きました。彼女の母親は、『出生届を出すのが面倒くさかった』としか言ってくれないと。恐らく、複雑な家庭の事情があったんでしょうね。普通に生活してきた人が、1枚の書類が取れないだけで、この世にいないものとされる。その理不尽にふれ、ほっとけなくなって。その後は、弟さんにも協力してもらい、アルバム写真など、彼女がたしかに一緒に育ってきたという証拠集めから始めました」
市役所の戸籍課や奈良地方法務局と交渉を繰り返し、1年半かけて戸籍を取得することができた。
「ラッキーだったのは、このときの行政の担当者がみなさん“いい人”で、交渉がスムーズに進んだこと。これが厳しい対応だったら『二度と来るか』で、今の私はいなかったかも(笑)」
しかし、本格的に無戸籍者支援に乗り出すまでには、まだ2年の歳月が必要だった。
「ひとたび関わったら、その人の人生がかかっていることで、『ごめん、できなかった』ではすまされない問題だと、その責任の重さを感じました。そのうちに、あのバイトの女のコが戸籍を得て、銀行口座もカードも作れて無事に社会に旅立つんです。その姿を見て、やっぱり私は知らん顔はできひん、と思って。だから、あの2年間は、私にとっての助走期間だと思っています」
16年7月、「無戸籍の人を支援する会」を立ち上げた。
「無戸籍とわかり、行政を訪ねても、法テラスを紹介されたり、高額な弁護士費用を支払う結果となり、泣き寝入りすることになるケースがほとんど。行政側も『前例がないから法務局へ行って』と言いますが、しかし法務局でさえ無戸籍者をどう扱っていいかわからず、そこで支援が途絶えるのが現状なんです」
だから市川さんは、彼らの生きてきた証拠を集め、行政や裁判所と交渉する役目を引き受けた。
「無戸籍問題では、夫のDVや、離婚後300日以内に生まれた子は前夫の戸籍に入る“離婚後300日規定”問題なども絡んできますが、逆に言えば、これらは理由が明確で、役所や弁護士さんが関わることにより、ある程度は解決策も見えてきます。私のところに来るのは、もっともっと複雑で、自分が誰の子かわからなかったり、経済的にも切羽詰まっているケースが多いです」
こうして、無戸籍者の駆込み寺的存在となり、18年秋にはNPO法人に。当初は年間30件ほどだった問い合わせも、最近は毎日1~2件のペースで携帯が鳴る。
「やはり、マイナンバー制度が大きい。無戸籍でも、かろうじてバイトなどをしていた人まで、マイナンバー提出を求められるようになり、職を辞すしかなく、路頭に迷う人が急増しています。
彼らの多くは身を潜めて生活していたりで社会や学校との接点がなく、まずどこに出向いていいか、どう相談していいかわからない。たとえ勇気を振り絞って窓口まで行っても、『役所の人が醸しだす迷惑そうなムードに耐えきれなくて帰ってきました』という人ばかり。一方、私は、どんなにイヤな態度をとられても、人ごとだから耐えられるんですよ」
自嘲気味に言うが、そこには市川さんの強い使命感がある。
「活動のきっかけをくれたバイトの女のコの成人式での姿が忘れられません。無戸籍の彼女には招待状も来ず、でもみんなと祝いたくて会場には行くんです。心配でこっそり見に行った私は、会場前の庭で、晴れ着の女のコがたくさんいるなか、普段着の彼女が1人だけポツンと待っている姿を目撃して、もう切なくて、切なくて」
今でも、この話をすると涙ぐんでしまう。
「二度と、あんな思いをする人を出したくない」
その一心で、今日も市川さんは日本中の相談者のもとへと駆けつけていく。