住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代から憧れている人の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「ダイアナさんは、世界でさまざまな慈善活動をされており、地雷撤去現場でのヘルメット姿の写真からは“ロイヤルファミリーである前に、地球上の一人の人間なのだ”というスタンスが感じられました。環境問題に関心があり、地球サミットなどにも参加した私も、大きく影響を受けました」

こう語るのは、早見優さん(55)。ダイアナ元妃が結婚する’81年、生活拠点だったハワイで、芸能界入りするチャンスが訪れたという。

「日系百貨店に母と買い物に行ったとき、エレベーターで『ハワイでモデルをやらないか』とスカウトされたんです」

早見さんの写真は海を渡り、当時、松田聖子が所属していた芸能事務所の社長の元へ。

「すぐにコンタクトがあって『うちの事務所には聖子ちゃんもいるんだよ』と説得されたんです。でも、当時のハワイでは、日本の番組の放送は限られていて、5年くらい前のドラマがやっと見られたくらい。

デビューしたての聖子さんやたのきんトリオさんのことは知らなかったんです」

そんな状況にもかかわらず、スカウトされて2カ月後には単身で来日、3カ月後には『ヤンヤン歌うスタジオ』(’77~’87年・テレビ東京ほか)のミニドラマのコーナーに、マッチの妹役で出演した。

「もう、わけがわからないまま、流れに身を任せるしかありませんでした」

学校に通いながらレッスンを受け『急いで!初恋』(’82年)で歌手デビュー。同期は中森明菜堀ちえみ松本伊代三田寛子などそうそうたる顔ぶれだ。

「周りの大人のなかには『ライバルなんだから、あんまり仲よくするもんじゃない』という人もいましたが、みんな仲よし。というのも、『夜のヒットスタジオ』(’68~’90年・フジテレビ系)、『カックラキン大放送!!』(’75~’86年・日本テレビ系)、『8時だョ!全員集合』(’69~’85年・TBS系)や、アイドル雑誌の撮影など、いろんなお仕事の現場で、毎日のように同期と顔を合わせますからね。楽屋も大部屋で、鏡の向こうには明菜ちゃんがいて、横には(石川)秀美ちゃんがいるという感じでした」

■生放送で起こった、忘れられないハプニング

大きな転機は、コカ・コーラのCMソングに抜擢された『夏色のナンシー』(’83年)だ。

「5枚目のシングルで、はじめてオリコンランキングにチャートインして、一気に仕事が増えました」

新曲のプロモーションで中国地方へ行ったときには、事前に準備していたサインでは間に合わないほどの人が集まった。

「2時間くらい、ずっと握手していたのを覚えています。その後、タクシーで移動しているとき、ラジオで『夏色のナンシー』が流れ、年配の運転手さんから『これ、あんたの曲だろ。ヒットするんじゃないの』と声をかけられたんです。ファンばかりでなく、幅広く知ってもらえるようになったのが、うれしかったです」

“売れて忙しくなる”一方で、芸能界の厳しさを思い知ることにもなる。

「『夏色のナンシー』が売れてからは、雑誌の取材でも『今回はカラーページだよ』と待遇ががらりと変わって、うれしい半面、子どもながらにショックでもありました」

ちょうどその時期、今でも忘れられないハプニングがあった。

「『夏色のナンシー』で、何週か続けて『ザ・ベストテン』(’78~’89年・TBS系)に出演したときのこと。私の前にYMOさんとサザンオールスターズさんが登場する予定だったんです」

その2組とも中継の予定だったが、うまくスタジオとつながらず、急きょ、早見さんの出番が回ってきたという。

「楽屋のモニターを見て、聖子さんが『あれ、中継、飛んでるよ。このあと優ちゃんじゃない?』といち早く気づいてくれたんです。それで、背中のファスナーを聖子さんに上げてもらったりしながら、急いで衣装を着たのですが、司会の黒柳徹子さんの最初の呼びかけには全然間に合わず……。鏡張りのドアが3回くらい空で回って、ようやくスタジオに出られたんですが、それからも、すでに歌い終わってソファに座っていたちえみちゃんが、外れていた私のサンダルのストラップをつけてくれたり、黒柳さんには『あなた、口紅つけなくても大丈夫なの?』って聞かれたり、大慌てで、歌はボロボロでした」

そんな生放送でのハプニングも、貴重な経験の一つとして、次々に仕事をこなしていった。

「1日の睡眠時間は4時間。ご飯を食べる時間もないから、マネージャーさんが気を利かせて、雑誌の取材場所を喫茶店にしてくれたりするんです。それで、ピラフを注文してみるんですが、取材を受けながらでは食べられないじゃないですか。けっきょく、話をしながら口に運びやすく、しかもおなかもいっぱいになるクリームソーダばかりを頼んでいました」

■白血病で亡くなった本田美奈子.さんとの交友

大学に入学し、バブル景気が絶頂期へと向かうさなかの’86年、ダイアナ妃(当時)が来日。“ダイアナ・フィーバー”が巻き起こった。

「ダイアナさんのヘアスタイルやファッションが、雑誌でも大きく取り上げられましたよね。

私、29歳のときに結婚したのですが、その直前に、ある番組でイギリスに行くことになり、ダイアナさんのウエディングドレスをデザインしたエリザベス・エマニュエルさんを取材するチャンスをもらえて。『じつは私、もうすぐ結婚式を挙げるんです』と伝えると、『じゃあ、私がデザインするわよ』と、素敵なドレスを作ってくださったんです」

なにより感銘を受けたのは、がんやエイズ施設の支援など、ダイアナ元妃の慈善活動。

その思いは、白血病を患い、38歳という若さでこの世を去った、本田美奈子.さんのチャリティ団体「LIVE FOR LIFE」への協力にも通じているという。

「長い間、この団体のイベントで司会を務めています。美奈子ちゃんとは『レ・ミゼラブル』(’97年)で、約3年間、一緒に地方公演をまわっていたんです。楽屋はいつも隣同士で、よく美奈子ちゃんの楽屋に、差し入れのお菓子を食べに遊びに行きました」

’21年11月、本田さんが生前に残していた「地球へ」という散文をベースに、半崎美子さんが作詞・作曲。

その英訳と歌を、環境問題に関心が高く、本田さんと交流があった早見さんが担当することに。

「海外にいる長女、次女にもリモートで参加してもらったのは、次世代につないでいかなければならない環境問題がテーマだからです」

未来の子どもたちや地球環境のためにーー。ダイアナ元妃や本田美奈子.さんの思いを、早見さんは今後も伝えていくという。