住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、夢中になったファッション雑誌の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「わあ、『mc Sister』だ。うそでしょ、どうやって入手したんですか? 懐かしい! これは(村上)里佳子さんでしょ、あ、(今井)美樹さんだ。このヘアスタイルのコーナーに出ているのが“有森さん”ですね。美樹さんの妹分としてかわいがられたんですが、あんまり背が高くなかったので、巻頭カラーの華やかなページにはなかなか出させてもらえなくて、後ろ姿とか、地味なページが多かったんですよ(笑)」

芸能界へ入るきっかけともなったファッション誌『mc Sister』のバックナンバーをゆっくりとめくりながら振り返るのは、女優の有森也実さん(54)だ。

「幼いころは、言葉で表現するのが上手ではなくて、言いたいことを我慢してしまうタイプ。そんな私が自己表現できたのはファッションとバレエのおかげなんです」

バレエを始めたのは母親の影響が大きかった。

「母は学校で舞踊部に入っていたそうですが、時代的にも経済的にもバレエを習うことができなかったから、娘には習わせたかったのでしょう。発表会の『眠れる森の美女』では、私は花のワルツを踊り、母は貴族役として出演しました」

バレエとともにファッションも、母と娘を強く結びつけたという。

「私の服は、ほとんど母が作ってくれていました。私も既製品より、母の作る服が大好きでした。母は昔、ベース(米軍基地)に勤めていたので、日本で普通には手に入らないような色合いの布とか、すごくおしゃれなボタンとかを使って、外国の映画に出てくるようなお洋服を作ってくれて」

有森さんがイメージをスケッチなどで伝え、一緒に布を買いに行き、作業に入る。

「何回も仮縫いするんですけど、途中で『ここのギャザーをもっと増やして』とか私も意見を言いながら、できあがっていく過程を見るのも楽しかったです」

引っ込み思案だった有森さんだが、母の作る服で徐々に自己表現の場を得て、小学校でも明るく過ごせるようになったという。

■「あなたみたいな子にはコム・デ・ギャルソンは似合わない」

「でも中学に上がると、制服になったこともあり、またなじめなくなってしまって……」

当時は管理教育や、それに反発した校内暴力などが社会問題となっていた。

「私の学校には『3年B組金八先生』(’79~’11年・TBS系)の“金八さん”のような先生もいなくて。私自身、スカートの丈や靴下の折り方などの厳しい校則に『おかしいです!』って、毅然と声を上げられるようなタイプでもありませんでしたし。しかもバレエ優先の毎日で、部活にも入っていなかったから、学校で友達があまり作れなくて……。物おじしてしまう子どもに逆戻りしてしまいました」

自己表現の場となっていたバレエにすら、壁を感じていた。

「努力だけでなく、才能も必要なので、年齢を重ねるうちに“私にはかなわない”と限界を感じるように。東京バレエ団の元プリマドンナで、現在は芸術監督をしている斎藤友佳理ちゃんが当時、同じ教室に通っていたので、なおさらですよね。このまま高校に進学してからも続けるのは難しいと思ったし、どうやって生きていけばいいのか、悩みました」

自信を失いそうなときでも、ファッションへの興味と情熱は持ち続けていた。

「本屋さんに行って、いつも見るのは『Olive』や『anan』などのファッション誌。とくに『装苑』には洋服のパターンがついていたので、それを見せて、相変わらず母に洋服を作ってもらっていました」

世界で一着の母の手作りは、有森さんにとって、自慢でもあったがーー。

「中学2~3年くらいにDCブランドがブームになって、私も憧れるようになったんです。ピンクハウスや、キャトル・セゾンのようなガーリーな感じの服は、母も理解できるので作ってくれるのですが、コム・デ・ギャルソンやワイズのように、黒が基調で、裾がずるずる長かったり、左右アシンメトリーだったりする斬新な服は、母にとっては奇々怪々。

作ってもらうよう頼んでも『あなたみたいな子が着ても、似合わない』と言われてしまって(笑)」

■午前中はずっと洗濯板の練習…『キネマの天地』の舞台裏

さまざまなファッションに目移りしながら興味を深めていったころ、書店で手に取ったのが『mc Sister』だったという。

「トラッド系のファッションにも興味が湧きましたが、そればかりじゃなく、グルメや映画の情報なども満載で、読み応えがあったんですね。それで中3のとき、“どういうふうに作られているのかな”と気になって、1回だけでいいから撮影現場を見たいっていうノリで、モデル募集に応募したんです」

物おじする性格だった有森さんとしては、かなり勇気のいることだったであろう。

「写真と履歴書を送ると、一次審査に来てくださいと連絡があり、当時、新橋にあった婦人画報社に行ったのですが、キレイなお姉さんばかりで、気後れしました」

しばらくすると「読者が登場するページを作るから」と連絡が。

「ふだんの姿と、プロのスタイリストやヘアメークの手の入った姿を比べる、ビフォーアフターのような企画。私はふだんの姿として、母の作ってくれたツーピースに茶色のサンダルを合わせたのですが、それがけっこうダサかったみたいで。企画的には成功したんじゃないでしょうか(笑)」

これを機に専属モデルとなり、モデル事務所にも所属。高校入学後には、振り袖のカタログモデルなどの仕事も入るようになった。

「初めて出演したテレビCMは『タケダ漢方便秘薬』。結婚式場の『平安閣』のモデルのお仕事もあり、16歳くらいでウエディングドレスを着たりもしました。でもけっしてモデル向きの体形ではなかったから、事務所は芸能のお仕事を多く入れてくれるようになったんです」

テレビドラマで女優として活動を始め、’86年には『星空のむこうの国』で映画デビュー。同年8月公開の『キネマの天地』でもヒロイン役に挑戦した。

「ドラマに何本か出ただけの素人だった私に、山田(洋次)監督も頭を抱えたんじゃないでしょうか。タライと洗濯板を使うシーンも、午前中いっぱい練習をして、さまになってきたら撮影が始まるという感じ。スタッフから『素人がスターになっていくサクセスストーリーだから大丈夫だよ』と慰められましたが……」

同作品でブルーリボン賞新人賞、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。『東京ラブストーリー』(’91年・フジテレビ系)などトレンディドラマにも出演し、女優として飛躍を遂げた。

ファッションでしか自己表現することができなかった有森さんの、才能が開花するきっかけを与えてくれたのが『mc Sister』だったのだ。

【PROFILE】

有森也実

’67年、神奈川県横浜市生まれ。’82年、雑誌『mc Sister』の専属モデルに。’86年の映画『キネマの天地』のヒロイン役で日本アカデミー賞など各賞を受賞し、’91年に出演した『東京ラブストーリー』(フジテレビ系)でも注目を集める。映画『天上の花』今冬、公開予定

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