【前編】91歳、現役介護看護師 74年間さすり続けた掌のぬくもりより続く

ここは、京都府木津川市の山あいにある「山城ぬくもりの里」。特別養護老人ホームやケアハウスも併設する総合福祉施設だ。

デイサービスの談話室での光景は、一見、どこにでもある介護の現場のようだが、ほかの施設と大きく違うのは、介護職で同施設の顧問も務める細井恵美子さんさんが91歳で、利用者たちが80代や70代など、介護者より年下ということだ。

「今日の5人の方たちは、全員が認知症を患っていらっしゃいます。私は17歳で看護師になって74年になりますが、看護や介護の現場でずっと大切にしてきたのは会話。それは、認知症の方を相手にしたときも同じです。

私、病棟勤務のころから、ナースステーションにいるより現場が好きな、おしゃべりな婦長さんで有名やったんです(笑)。

この年やし、こんな小さな体ですから、体力では若いスタッフにかないませんが、会話なら年寄りの私でも自由にできるでしょう」

なるほど、細井さんが利用者と目の高さが同じになるまで腰をかがめ、まずは「○○さん」と呼びかけると、それまで無表情だった相手も自然に笑顔になるのだった。

■学生時代はずっと戦争と共に。看護婦養成所で引き揚げてきた元日本兵を看護

「満州事変の年に生まれて、小1で父が日中戦争で召集され、14歳で終戦して、翌年に看護学校を卒業。だから、私の学生時代は、ずっと戦争と共にあったんです」

1931年(昭和6年)4月18日、京都は丹後の農村に生まれた細井さん。両親と兄、祖父母との生活だったが、大黒柱の父親は出征しており、生活は苦しかった。

「本も勉強も好きでしたが、それよりも田畑や牛飼いの手伝いが先やった。放課後は、新聞配達もして家計を支えました」

「看護師になるとは思ってもいなかった。

担任の先生は師範学校への進学を勧めてくれましたが、帰還していた父が『女は早く手に職をつけろ』と、看護師学校を決めてきたんです」

養成所のあった舞鶴は、日本有数の旧ソ連などからの引揚げ港だった。

「シベリアの抑留生活で両手をなくした元兵隊さんは、心身共にクタクタに疲れ切っていて、この人は帰郷後にどんな生活をするんやろう、と思ったり。一方、相変わらず軍服のまま威張り散らす人もいて、私は戦争というものが根っから嫌いになりました」

17歳で養成所を出ると、そのまま舞鶴病院の防疫班などに勤務。結婚は19歳で、2年後には長男が生まれた。

しかし、船員だった夫は、新婚当初から、ほとんど家庭を顧みなかったという。

「舞鶴病院のあとの丹後中央病院のころは、准看護学校で教務の仕事に就いて自立もでき、夜勤もなかったので、息子が小2のとき離婚しました」

■退院間近の高齢男性の飛び降り自殺が契機に 国内でも先駆けとなる訪問看護を開始

当時から先進的な医療に取り組んでいた京都南病院へ移ったのは36歳のときで、総婦長に抜てきされる。

ここで、大きな転機となる出来事が起きる。入院患者の自殺だった。

「よくお話をする患者さんの一人で、退院間近の高齢の男性でした。その日、ご家族の面会が終わったあと、寂しそうに打ち明けてくれたんです。

『さっき、おじいちゃんの部屋はもう孫の勉強部屋になっている、と告げられた』と。 退院しても、実家に自分の居場所はないと悲観したんでしょうね。

その後、3階の病室の窓から飛び降りはりました。私は、男性の話を聞かされたとき、『家に帰るのも、いろいろ大変ですね』としか言えませんでした」

深い後悔に襲われた細井さんは、こんなことを考え始める。

「患者さんが、退院しても、ご自宅で家族と共に潤いある生活を続けられるようケアをすることが大事。そのために何ができるやろうか」

こうして細井さんの提案で、訪問看護がスタートする。国内でも先駆けとなる取り組みだった。

「自宅で療養する患者さん宅を訪ねて、おむつを替えたり、パート勤務の奥さんが作っていったおにぎりを食べさせたり。

当初は無料で、やがて車代の500円だけいただきましたが、なかには、『なんで看護婦にお金を払わんといけんのや』と言うご家族もいらして」

しかし、3週間もすると家族の対応もガラリと変わり、そして、こんな言葉をかけられるように。

「お医者の先生より、看護婦さんが来たほうが、よっぽどええわ」

そうした声に後押しされ、細井さんたちのグループは、当時の厚生省へも何度も出向いた。

「まだまだ訪問看護や老人施設に対するバックアップは足りませんでしたから、もっと体制を整えてほしいと談判しました」

そして、’86年には老人保健施設の制度がスタートする。

「すでに始まっていた高齢化社会で、どんな介護が求められるかを考え、リハビリや医療ケアをより充実させて高齢者の在宅復帰を促す施設を目指しました」

聴診器を首から下げた看護師の姿も今では一般的だが、これも細井さんが先駆けとなった。

「京都南病院に、男か女かや、医者か看護師かといった分け隔てのない考えの循環器系の医師がいらして、その先生が『ICUや透析の患者さんに対するときは、看護婦も聴診器で患者の体調を的確に見極める必要がある』と認めてくれたんです」 その後、前述のとおり、60歳で定年退職したあとも、老人福祉施設の設立に関わったり、社会復帰のためのイベントを企画したりしながら、看護から介護の現場へと活動の足場を移していった。

現在の山城ぬくもりの里の設立には準備段階から関わり、’01年4月にオープンしたときには、初代施設長に就任。

こうした活動に対して、’12年には京都ヒューマン賞を、翌年には京都府看護功労賞知事賞を受賞している。

■突然声を張り上げた認知症の女性に寄り添い、ソファに並んで、背中をさすって話を

「勤務は朝の10時から17時30分まで。お昼を食べるときを除いて、私、ほとんど休まんのです。自分で言うのもなんやけど、よう仕事してますよ(笑)」

80歳まで施設長を務め、現在は顧問として月・水・金の週3日の勤務。6時間半をかけて各施設を回り、利用者への声かけの「ラウンド」を続ける。

「まあ、かっこよく横文字でラウンドなんて言いますけど(笑)、私は、もう70年以上、ただ現場が好きやから回っているだけ」

その仕事ぶりに密着した日も、濃紺の制服姿の細井さんは、ほとんど立ちっぱなし、動きっぱなしだった。

そんなときだった、静まり返っていた部屋に、突然、大きな声が轟いた。

「こんな変な色のついたもんは飲めん!」

湯呑みを前に、一人の女性利用者が声を張り上げていた。認知症の一つの症状で、突然怒りだすことがあるというのは、事前に聞かされていた。

続いて、女性はブツブツ言いながら談話室を出ていく。あわてて追いかけようとするスタッフを制して、細井さんが隣に寄り添う。

「ちょっと、玄関のソファでおしゃべりしよか」

やがて、ソファに並んで腰掛けた二人。細井さんが、女性の背中をさすりながら、

「ゆうべは眠れたんかな?」
「ぜんぜん眠れへん」
「それは、しんどいなぁ。部屋で横になってもいいんやで」
「いや、話、してたい」
「はい、じゃ、そうしよう。ほら、見てごらん。山の緑も、もうじき紅葉の季節やね」
「うん」

ようやく女性が落ち着いた絶妙のタイミングで、大谷さんがお盆に熱いお茶を2つ持って現れた。そのまま、ガラス戸越しに山を眺めての世間話は20分近く続いた。

細井さんは、

「認知症では、幻覚や幻聴もありますから、私たちには見えなくても、この方にはなにか見えているのかな、と想像します。終戦後の舞鶴の病院のころから、認知症ではありませんが、同じような光景を何度も体験してきました。

驚いたり戸惑ったりする前に、相手を理解しようとすることが大切です。もっと言えば、今の女性の怒りの態度も、今日は朝から大雨でしたから、ついバタバタしてしまっていた私たちスタッフの感情が鏡になって彼女に表れたかな、と思ったりもするんです」

■91歳と80歳 長い人生の機微を刻んだしわくちゃの手が重ねられて

気づけば、時刻は11時30分前。早くも昼食の介助が始まるという時間になっていた。

先ほどの認知症の女性が落ち着いたのを見届け、談話室に戻った細井さんは、冒頭で、薬を飲んだあと再び黙り込んだままだった車いすのチエさんの隣へ。

「今日のお昼はなんやろうね。それにしても、朝から雨で冷えるな」

その両手をさすりながら、語りかける。するとチエさんが、

「あったかい手」

今日、初めて言葉を発したのだった。細井さんもうれしそう。

「そやけど、心の冷たい人のほうが手があったかい、って言うな」
「そんなことあらへん」
「そうか。チエさん。ありがとう」

91歳と80歳。長い人生の機微を刻んだしわくちゃの手が、もう一つのしわくちゃの手をギュウとやさしく握り返した。

(※文中の施設利用者の方はすべて仮名です)