連日の猛暑が続いていた今夏、東京・外苑前にあるGAGAでは、映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(9月20日公開)のメディア取材が行われていた。映画のポスターが貼られた会議室で待っていると、4~5人のスタッフとともに、ろう者の女優・忍足亜希子さん(54)が現れた。
その日は複数のメディアが交代で写真撮影をするとあって、撮影スタッフや映画関係者など十数人が見守るなか、堂々とポーズをとる忍足さんには、余裕と貫禄が漂っていた。とはいえ、部屋に入るときの照れくさそうな笑顔は、四半世紀前と変わらない。当時も本誌の撮影担当だった菊池カメラマンが、覚えていた手話で「アイ・ラヴ・ユー」と挨拶をすると、忍足さんも笑みを浮かべて「お久しぶりです」と手話で返してくれた。
忍足さんが本誌でエッセイ連載を始めたのは’99年10月。主演映画『アイ・ラヴ・ユー』でデビューしたころで当時29歳だった。エッセイは、ろうの世界のさまざまな出来事や家族との飾らない日常、日本初のろうの映画女優として注目を集めるなかでの戸惑いや葛藤まで率直に綴って好評だった。’01年3月には『愛、聞こえますか?』(光文社)にまとめて出版。その後、『アイ・ラヴ・フレンズ』(’01年)『アイ・ラヴ・ピース』(’03年)と立て続けに映画の主演を務め、草彅剛(50)主演作『黄泉がえり』(’03年)などの映画やドラマ、舞台にも出演し、忍足さんは女優の道を着実に歩んできた。
今作『ぼくが生きてる、ふたつの世界』では、吉沢亮(30)の母親役を好演。吉沢演じるコーダの青年・五十嵐大の心の軌跡が、母と息子の物語のなかでリアルに、繊細に、描かれている。
コーダとは、聞こえない、または聞こえにくい親を持つ聴者の子ども(CODA=Children of Deaf Adults)のこと。コーダの息子役・吉沢と、ろうの母親役・忍足さんとの手話のやりとりはとても自然で、本当の親子に見えた。
「吉沢さんは、手話が初めてだったそうです。撮影が始まる1カ月前に、ろう者の役者だけ集まって、手話演技の練習をしたとき、吉沢さんも参加され、手話を習得されました。手話を一から覚えて、手話で感情を表現するのですごく大変だったと思うんですが、撮影を重ねるにつれ、吉沢さんの手話に感情が入っていきました。グサッと胸にささる手話もありました」
忍足さんの手話は、表情豊かに全身を使い、蝶が舞うような動きで表現する。夫役の今井彰人(33)も、ろう者の俳優だ。呉美保監督(47)は、ろうの登場人物は、ろうの俳優が演じることを大前提に、キャスティングをしていた。
「私がデビューしたころは、ろう者の役も大抵は聴者が演じていましたが、最近はろう者を起用することが増えてきました。昨年は、『silent』(フジテレビ系)や『星降る夜に』(テレビ朝日系)、『デフ・ヴォイス』(NHK)など、ドラマに多くのろう者が出演しています。ろう者が出演する環境ができてうれしく思っています」
ろう者の俳優がほとんどいない時代から、道を切り開いてきた忍足さん。デビューから25年、彼女の軌跡をたどる──。
■私はろうなんだと気づいたのは小学生になってから。孤独を感じ、ある行動に…
’70年6月10日、忍足さんは北海道千歳市で生まれた。
「何度も名前を呼んでいるのに返事がなくて病院に連れていったら、耳が聞こえていないとわかったそうです。家からはろう学校に通うのが難しかったので、4歳のときに家族で横浜に引っ越しました」
1年遅れでろう学校の幼稚部に入学したため、先生と2人きりでの発声の特訓があり、わけもわからずつらかった。
「弟が両親としゃべっているのは知っていました。最初は『ママ』とか『パパ』くらいですが、そのうち弟のほうが言葉をたくさん覚えて、両親とペラペラしゃべるようになると、私だけ違うと思うようになりました」
補聴器も頭の痛くなる機械でしかない。音は補聴器をつけると飛び込んでくる不快な刺激だった。なぜ、家族のなかで自分だけ不快な機械をつけねばならないのか。自分は何者なのか。そんな不安に幼い心は押し潰されそうだった。
「私はろうなんだと気づいたのは小学生になってから。学校に行けば、ろうの友達がいっぱいいて安心感があるけれど、家に帰ると聴者の世界。
当時のろう教育は、口話中心で、相手の口の動きを読んで、言葉を理解し、声を出して話す教育だった。手話によるコミュニケーョンは禁止。社会で聴者と同じに見えることが何より重視されたのだ。
忍足家は、ろうを障害として扱わなかった。「聞こえない人ではなく、人と違うだけ」という教育方針で、父は娘が気後れしないようにと、どんどん外へ連れ出した。家族で、海にも山にも行ったし、キャンプもした。海外にも連れていってくれた。
両親の深い愛情に包まれて、忍足さんの不安は解消していったが、将来の夢は、ろう学校の教師にことごとく否定されてしまった。
「父は航空機の仕事をしていたので、私は母のおなかにいたころから飛行機に乗っていて、客室乗務員のキビキビした態度や優しい心遣いに憧れていました。でも、ろう学校では『無理だよ。
目的もないまま短大に進学し、流されるままに銀行に就職した。
「それでも今があるのは『アイ・ラヴ・ユー』のオーディションに行ったおかげなんです」
何の希望も持てぬまま、無為な日々を送っていた彼女に訪れた大きな転機。この一大チャンスを忍足さんは逃すことなく、自らの力で果敢につかみ取っていく。貯金を目的に銀行員として働き、5年がたった26歳のときだった。知人から、「ノッポさんがやってるNHKの“手話歌”って興味ある?」と、紹介され、急遽、番組に出演することになった。ノッポさんの番組は幼いころからずっと見ていた。セリフのないパントマイムだから、ろう者が見てもわかる。
「そのノッポさんと共演できることが楽しかったし、スタッフさんもいい人ばかり。こういう世界もいいなぁと、初めて思ったんです」
『アイ・ラヴ・ユー』のオーディションを知ったのは、番組出演後、銀行を退職してから1~2年たったころだ。
「友人が熱心に勧めてくれたんです。当時の映画やドラマのろう者の役って、寂しくて孤独というイメージ。もっとリアルなろう者を知ってほしくて応募しました」
手話は短大に入って覚えたが、演技経験はもちろんゼロだ。
「まさか受かるとは思っていなくて。でも、合格すると、ろう者初の主演ということで、責任を強く感じました。よし、これは女優として頑張らねば! と思いました」
(取材:栃沢 穣/文:川上典子)
【後編】「違う世界も面白い」日本人初ろうの映画主演女優・忍足亜希子語る“にぎやかな家庭生活”「聴者の夫とは一度破局」「娘は言葉より手話を先に覚えてくれた」へ続く