1947年に中華民国海軍に引き渡された雪風は翌年5月に丹陽と改称。
黄さんは日本統治時代末期の1943年生まれ。農学校を卒業し、義務兵役の配属先を決めるくじで海軍を引いた。当時、海軍と空軍の兵役期間は3年で、陸軍の2年より長く、農家にとっては「運が悪かった」が、食料事情が悪かった農村で、隣村出身者が海軍入隊後にふくよかになったのを見て「海軍も悪くないだろう」と思ったと語る。
1963年10月に入隊。現在の南部・高雄市にある左営基地の海軍士官学校での4カ月間の入隊訓練では、砲弾や銃弾の管理を担う分隊に配属され、毎日午前に4時間の専門カリキュラムと午後に2時間の行進訓練などを受けた。「訓練は畑仕事より楽だった」。軍隊での食事も農村家庭より良かった。
丹陽に乗り込んだのは64年3月。翌日には艦内での持ち場も決まらぬまま中国・福建省に近い金門に向けて出港した。当時、国軍は金門から中国沿岸にフロッグマンを送り込んでおり、彼らが乗った小型艇の撤収を援護する任務に当たった。
攻撃が終わると、3台のボイラー全てを稼働して高速で中国沿岸に向かい、撤収する小型艇の援護に当たったが、中国側から4発の砲撃を受けた。数発が丹陽の近くに着弾し、水しぶきが上がった。小型艇は2隻出撃していたが、1隻しか撤収できず、1隻は中国側に捉えられた。小型艇から帰還した隊員は「みんなひどく泣いていた」。このことは今でも忘れることができない。
黄さんは丹陽で艦内に6カ所ある弾薬庫の管理に当たった。主砲や副砲、対空砲の砲弾や軽兵器用弾薬、銃弾などが分けて保管されており、上官からは重要な任務だと言い聞かされた。また毎日午後には弾薬庫の室温を確認して、34度以上の場合は副艦長に報告し、場合によっては散水して温度を下げる必要があった。勤務中1度だけ34度を超えたが、艦長は「一日超えたくらいは問題ない」として散水は行わなかったと振り返る。
また丹陽がもともと旧日本海軍の駆逐艦だったことは知っていたが、上官などが雪風時代の戦歴を語ることはなく、艦内でも日本語の表示などを見たことはなかったという。
作戦時には砲弾や弾薬を運んで火器に装填した。左営港を母港に、台湾海峡の離島、澎湖の馬公や北部・基隆、金門、南シナ海の南沙(スプラトリー)諸島にも足を運んだ。だが中国・福建省に近い馬祖にだけは行った記憶がない。
台湾海峡の防衛に大きな役割を果たした丹陽だが、60年代には海軍の主力艦は米国製駆逐艦に取って代わられたと黄さん。その後ボイラーの一つが壊れて速度が低下。65年10月以降は出港することはなかったとされる。
空軍航空技術学院の金智教授の著書によれば、1953年当時、海軍の四つの艦隊が所有した軍艦39隻のうち、日本の賠償艦は丹陽を含めて11隻あった。
国家発展委員会档案管理局の資料によると、丹陽の退役後には日本側が外交ルートを通じて船体の譲渡を求めたが、国防部(国防省)は練習艦にするとして応じず、保存は実現しなかった。その後解体され、舵輪といかりが日本に引き渡され、スクリューと船鐘が台湾に残されている。
(呉書緯/編集:齊藤啓介)