私たちの体内に潜む大腸菌が、直接触れることなく周囲の物体を回転させることは以前から知られていた。だがなぜそれが起きるのかは解明されていなかった。
オーストリアの研究チームは、大腸菌の鞭毛(べんもう)が泳ぐときに生み出す流体のねじり力が、どんな形状の物体でも回転させることを発見した。
細菌が狭い空間に入り込むだけで起きるこの現象は、医療や環境分野への応用が期待されている。
この研究成果は『Nature Physics[https://www.nature.com/articles/s41567-026-03189-4]』誌(2026年3月27日付)に掲載された。
大腸菌と鞭毛が生み出す特殊な環境
大腸菌は、遺伝子研究の世界で古くから使われてきた代表的なモデル生物だ。
細胞の構造が比較的単純で増殖が速く、遺伝子の操作もしやすいため、分子生物学や医薬品開発の分野で広く活用されてきた。
そして今、大腸菌がまったく別の分野でも脚光を浴びている。
鞭毛(べんもう)を使って液体の中を泳ぎ回るその運動能力が、物理学者たちの目に留まったのだ。
大腸菌は人間を含む哺乳類の大腸に棲みつく常在菌で、そのほとんどは無害だ。
ただし無数に存在する株の中には病原性を持つものがあり、それが食中毒や感染症を引き起こす原因となる。
大腸菌の体には鞭毛と呼ばれる細長い尻尾のような構造が備わっており、水中でこの鞭毛をプロペラのように高速回転させることで前進する。
鞭毛の長さは大腸菌の体長(約2μm、髪の毛の太さの約50分の1)の数倍にも達する。
このとき体本体と鞭毛は互いに逆方向に回転するという特徴があり、この逆回転こそが今回の発見の核心となる。
オーストリア科学技術研究所(ISTA)のジェレミー・パラッチ博士率いる研究グループは、大腸菌を水の中に大量に放つと「アクティブ・バス」と呼ばれる特殊な環境が生まれることに着目した。
アクティブ・バスとは、生きた細菌など自ら動く粒子が液体の中を泳ぎ回ることで、通常の液体とはまったく異なるエネルギーを持つ状態になった環境のことだ。
この環境は鍛冶師が金属加工に必要とする2000℃の炉に相当するエネルギーを生み出すほどの力を持つとされ、微小な物体を動かしたりゲル状の粒子の塊を形成したりする。
大腸菌が小さな円盤を時計回りに回転させる
パラッチ博士らのチームはすでに大腸菌が、物体の周りを回転する性質を持つことを確認している。
大腸菌を満たしたアクティブバスの中に、接触すると互いにくっつく性質を持つ微小なビーズ状の粒子を入れると、大腸菌の動きに押されて粒子が集まりゲル状の塊を形成し、時計回りに回転することを2023年、学術誌『Nature Physics[https://ista.ac.at/en/news/bacteria-as-blacksmiths/]』で報告した。
回転の方向は大腸菌の鞭毛の回転方向と一致していたが、なぜ回転が起きるのかはわかっていなかった。
研究チームはもともと、塊の形が左右非対称だから回転するのではないかと考えていた。
2010年に発表された先行研究[https://www.pnas.org/doi/10.1073/pnas.0913015107]で、細菌が非対称な形のギアに作用するとそのギアが回転するという現象が確認されていたからだ。
しかし塊の形はランダムに変化するため正確な測定が難しく、仮説を確かめることができなかった。
そこでISTAのダニエル・グローバー氏は、3Dナノプリンターを使って、ホッケーのパックを模した滑らかで完全に対称な形の微小な円盤を精密に作製した。
3Dナノプリンターは、通常の3Dプリンターをはるかに上回る精度で、髪の毛よりも細かいスケールの立体構造を作れる装置だ。
この円盤を大腸菌が満たすアクティブバスに入れたところ、完全に対称な形の円盤が、時計回りに回り始めたのだ。
「対称な形の物体は回転しない」という従来の仮説はここで完全に否定された。
さらに実験を重ねると、中心に向かって4つの区画が伸びた少し複雑な形の円盤は、単純な形の円盤よりも速く回転することも判明した。
区画の中に入り込んだ大腸菌が水かきのように働き、回転を増幅させたためだ。
また開口部のない1区画だけの円盤は、大腸菌が1匹泳ぎ抜けただけで回転を始めた。壁への物理的な接触がなくても回転が起きたことは、まったく新しい現象の存在を示していた。
大腸菌は体と鞭毛のひねりで触れずに円盤を回転させていた
では、大腸菌が円盤に触れることなく回転させられるのはなぜか。
大腸菌の体本体と鞭毛が逆方向に回転することで、周囲の液体が同時にねじられる。液体がねじられると、円盤の下の狭い空間の上壁に対して引っ張る力が生まれる。
ジャムの瓶の蓋をひねるとき、蓋の中心はほとんど動かないが端のほうに力が集中して蓋が回る。
大腸菌が円盤の下を泳ぐときも、これに似た現象が起きている。
円盤の中心部では複数の回転力が打ち消し合って安定しているが、空間内の異なる地点で力が加わるため、全体として一方向の回転力が生まれ、円盤がくるくると回り続けるのだ。
数学的なモデルを使った計算もこの観察結果と一致した。
グローバー氏によると、大腸菌の体と鞭毛が逆方向に回転することで固体表面の近くに時計回りの円運動が生じることは、流体力学の分野ではよく知られた現象だという。
研究チームはこの動きを逆手に取り、円盤の下の微小な空間に大腸菌を閉じ込めることで、非接触のまま円盤を回し続ける装置を実現させた。
医療と環境への応用に期待
大腸菌が物体を回転させる現象が物体の形状に左右されず、細菌が狭い空間に閉じ込められさえすれば自然に起きるという事実は注目に値する。
自然界では、細菌が狭い空間に入り込む場面は珍しくない。バイオフィルムがその代表例だ。
バイオフィルムとは、細菌が表面に付着して形成する薄い膜状の集合体で、内部に抗生物質が届きにくくなるため、細菌の薬剤耐性と深く関わっている。
また土壌の中でも、細菌は無数の細かい隙間に入り込み、生態系のバランスを保つ重要な役割を担っている。
こうした場所でも同じ現象が起きている可能性があることを、今回の研究は示唆している。
パラッチ博士は、この効果はこれまで見過ごされてきたと指摘したうえで、医療や持続可能性の取り組みに役立てられる可能性があるという。
大腸菌はこれまでも、人類に数々の恩恵をもたらしてきた。
遺伝子組み換え技術によって糖尿病患者に欠かせないインスリンを大量生産できるようになったのも、大腸菌の働きあってのことだ。
複雑な数学問題を解くバイオコンピューターへの応用研究も進んでいる。
そして今回、鞭毛が生み出す流体のねじり力で物体を回すという新たな能力が解明されたことで、さらなる貢献をしてくれるかもしれない。
References: Microbial hockey[https://www.eurekalert.org/news-releases/1122598] / The hydrodynamic torque dipole from rotary bacterial flagella powers symmetric discs[https://www.nature.com/articles/s41567-026-03189-4]











