5月27日に『徹子の部屋』(テレビ朝日系)が放送10000回を達成した。この数字は「同一司会者によるテレビトーク番組最多放送のギネス世界記録」にも認定され、この報告に徹子は「小学校を退学になったような人間がギネスをいただけるなんて思ったら、校長先生に見せたいと思って。
森光子や森繁久弥といった人びとがこの世を去ってしまったいま、徹子は数少ないテレビの歴史を知る"生き証人"というべき人物である。しかも、いまなおバリバリの現役......だが、徹子の人生には隠された謎も多い。
その最たるものが、徹子には隠し子がいるのではないか?という噂だ。昔から芸能界では都市伝説化していたというこの噂、じつはいまはなきスキャンダル雑誌「噂の眞相」が過去にも追跡を行っている。
その記事は、1998年2月号に掲載されているのだが、徹子には24歳も歳の離れた末弟がおり、その末弟こそが徹子の隠し子ではないか?というのだ。
たしかに、徹子の母親が末弟を産んだのは47歳と超高齢期出産。しかも、いまのように高齢期出産がめずらしくない時代ならまだしも、当時は1950年代。記者が訝しがるのも無理もない。
さらに、この末弟は当時、某航空会社(記事では実名)の社員で、社内では「彼は黒柳徹子の隠し子ではないか」というのは「有名な話」だったと航空会社の関係者が証言。ほかにも末弟をよく知る複数の人物による、"自宅のリビングに所狭しと徹子の写真が飾ってあったこと"や、"隠し子説を本人に冗談めかして同僚がぶつけた際に、末弟が否定もせず肯定もせず真顔で「ノーコメント」と答えたこと"などが語られている。
しかも、「噂の眞相」は当の本人である末弟にも疑惑を直接ぶつけている。
このように、彼が隠し子なのかどうかの真偽は不明なのだが、気になるのはここで徹子の相手だと囁かれた男性についてだ。当記事によると、その人物は劇作家の飯沢匡氏。飯沢氏は94年に85歳で亡くなっているが、記事では"出会いから死去するまでの約40年間、ふたりの関係はつづいた"としている。そして、ふたりが出会って関係を深めた時期と末弟の誕生が符号する──というのだ。
じつは、先日発売されたばかりの徹子の著書『トットひとり』(新潮社)には、この飯沢氏との出会いが綴られている。しかも、それはとても感動的な物語として......。
そもそも徹子は、NHK専属のテレビ女優第一号。同書によれば、この募集には6000人以上が受験したが、徹子は演技の素人で筆記試験も25問中5問しかできなかった。だが、「テレビジョンという新しい世界の俳優は、あなたみたいな何もできない、何も知らない、言い換えると、無色透明な人が向いているかもしれない」という評価を受けて採用されるのだ。
しかし、いざ現場に出ると、徹子は「目立つ」「普通じゃない」と罵られた。
時は1954年、『ヤン坊ニン坊トン坊』というラジオドラマの制作にあたり、大がかりなオーディションが開かれた。脚本を担当した飯沢氏が「大人の女性で子供の声を出せる人がいる筈だ」と主張し、オーディションを行うことになったのだ。ここで徹子はトン坊役に見事、合格。が、これまでのことを考えると、合格しても降ろされるのではないかと徹子は心配になった。そこで、徹子は初対面の飯沢氏に、挨拶もしないまま気持ちを訴えた。
「私、日本語も喋り方も歌い方もヘンだとみんなに言われています。個性も引っこめます。勉強して、ちゃんとやりますから」
すると、飯沢氏はこう返したという。
「直しちゃいけません。
この飯沢氏の言葉は、徹子の胸に深く突き刺さった。〈こんな言葉は、NHKの誰一人、それまで言ってくれたことがなかった〉と述べ、そのときのうれしさをこう綴っている。
〈私はその後、何度も何度も、飯沢先生の言葉を思い出した。いくら呑気者で元気な私でも、「邪魔」とか「帰ってもいいや」とかばかり言われ続けていたら、まともなことを、何ひとつできない大人になっていたかもしれなかった〉
徹子はこのラジオドラマをきっかけに評判となり、「NHK三人娘」として売り出され、仕事も増えた。いまなおテレビを彩る黒柳徹子という個性と才能を見出した人物、その人こそが飯沢氏なのだ。まわりからはみ出し者扱いされてきたなかで、こんなふうに自分を認められたら......たしかに、恋に落ちても不思議はないのかもしれない。
また、同書によると、徹子はそのころ3度のお見合いをしている。最後の1人とは結婚も考えた。だが、〈ふと、「自分の結婚式の帰り道で、出会いがしらみたいに、『あ、この人がいい!』みたいな男性に出会っちゃったらどうしよう?」と疑問を持ったのがキッカケで、私は考え込んでしまった〉といい、結局、破談になったという。この文章には、徹子の恋愛・結婚観がよくあらわれているのではないだろうか。
ちなみに同書には、当時の徹子の写真がおさめられているのだが、番組収録中、徹子はなぜかマイクの上に鼻を乗せている。いわく、「疲れて頭が重くなり、(中略)少しでも楽になろうとしてる」らしい。写真のなかの徹子は、いまでいうと能年玲奈のような透明感と無垢さにあふれていて、とてもキュートだ。もしかすると、このとき人には話せない恋愛を彼女は秘めていたのかもしれない──そう考えると、胸に込み上げるものがある。いまでは年齢も性別も超えたようなひとつのキャラクターとして徹子を捉えがちだが、彼女にもひとりの女性としての人生が当然あり、青春の輝きや悲しい別れを刻み込みながら、きょうまでテレビの第一線に立ちつづけているのだ。
じつは徹子は38歳のとき、1年間に渡って休業し、ニューヨークで暮らしている。そのときのことを、徹子は同書にこのように書いている。
〈ニューヨークで得たものや失ったもの、見たもの感じたもの、希望や絶望、などはとても書き尽くすことはできない。
女が一人で生きていくのって大変。この本の徹子の言葉からは、テレビで生きてきた彼女の、テレビでは見せない素顔が見え隠れする。
(大方 草)