医療サービスは病院に行かなければ受けることができない。そんな常識が医療 MaaS (Mobility as a Service)によって変わるかもしれない。

通院からリモート環境での診療へ。「医療×ICT×モビリティ」の可能性を事業本部 事業推進部所属の加藤卓己課長代理に伺った。

【ビジョナリー・加藤卓己】

  • 「最期を自分の家で迎えたい」という高齢者の気持ちに寄り添いたい
  • テスト運行までは全てが順調だった。しかし…
  • 「ICT×モビリティ」で行動変容を起こしたい

「最期を自分の家で迎えたい」という高齢者の気持ちに寄り添いたい

MaaSがもたらす医療のパラダイムシフト!医療×ICT×モビリティの可能性を追求

90歳になる私の祖母は、15年ほど前に地元の北海道から父が住む北関東に移ってきました。
当初は父たちと一緒の新しい環境に喜んでいましたが、転居後2~3年で「故郷の北海道に帰りたい」と何かにつけて言うようになりました。

そんな祖母を見ながら「人は年を重ねれば重ねるほど生まれ育った故郷への愛着が強くなるんだな」と改めて思うようになりました。

「施設に行きたくない、最期は自分の家で迎えたい」と言う一人暮らしの高齢者の方は多いと聞きます。

そういった方々の願いを叶え、かつご家族の負担も軽減できる仕組みが、医療とモビリティを組み合わせればできるんじゃないか。
その思いを持って現在医療MaaSの推進に取り組んでいます。そのアイデアが生まれたのは2019年の「MONETサミット」にさかのぼります。

伊那市、フィリップス・ジャパンとヘルスケアモビリティの開発に着手

「MONETサミット」は2019年3月に開催された、MONET Technologiesの戦略や将来の展望などを自治体や企業に向けて発表した催しである。

そこでは医療機器メーカーのフィリップス・ジャパンが目指すヘルスケアモビリティの模型が展示されていた。それに目を留めたのが長野県伊那市である。

MaaSがもたらす医療のパラダイムシフト!医療×ICT×モビリティの可能性を追求
「MONETサミット」で展示されていたヘルスケアモビリティの模型(提供:株式会社フィリップス・ジャパン)

松本市、長野市に続き、長野県で3番目に大きな面積を有する伊那市は、山梨県静岡県に県境を接し、町の中央を流れる天竜川を挟んで赤石山脈、木曽山脈がそびえる人口約6万5千人の町。


医療機関が少なく、高齢化が進む中山間地域における医療体制の整備を目下の課題としていた。

ヘルスケアモビリティの可能性を感じた伊那市は、2019年5月にMONET Technologiesと連携協定を結び、その後伊那市とMONET Technologies、フィリップス・ジャパンの3者は共同で移動診療車の設計・運用に向けた開発に取り組んでいくことになった。

MaaSがもたらす医療のパラダイムシフト!医療×ICT×モビリティの可能性を追求
「MONETサミット」の様子(提供:MONET Technologies)

 

すべてがゼロべースから

現在伊那市を走っている「INAヘルスモビリティ」は、トヨタ自動車のハイエースを基に作られた移動診療車だ。
ディスプレイ、簡易ベッド、心電図モニター、血糖値測定器、血圧測定器、パルスオキシメーター、AED、そして患者の心音をリモートで医師が直接聴診できる遠隔聴診器などが搭載されている。

元になったモックアップのヘルスケアモビリティは、「車の中でこんな診療ができるのでは?」というアイデアを具現化したものにすぎない。
それを公道を走る実際の車両として実現させるためにはどうしたらよいのか。保安基準から登録方法など前例にするものがなく、全て自分たちで考えなければならなかった。

特に頭を悩ませたのが、効率よく業務を進めるための運用設計だった。看護師と患者が車両の中でどのような動きをするのか、どういった手順で何を行っていけば効率のよい診療に結びつくのか。遠隔地にいる医師の外来診療と両立させるためにはどんなフローをつくったらよいのか。

全てがゼロベースであり、連携協定を結んだ2019年5月からテスト運行を実施する翌年1月までの8ヶ月間は、文字通りの目の回る忙しさだったという。

MaaSがもたらす医療のパラダイムシフト!医療×ICT×モビリティの可能性を追求
INAヘルスモビリティ内部(提供:MONET Technologies)

テスト運行までは全てが順調だった。
しかし…

MaaSがもたらす医療のパラダイムシフト!医療×ICT×モビリティの可能性を追求

ゼロベースからの設計でしたが、徐々に形になっていきました。実証実験に入る前の最終確認として、2020年1月に実際に医師・看護師に対応いただきテスト運行を行うことになりましたが、その前日は「はたしてこれで動くのだろうか?」と不安で眠れませんでした。

テスト運行は、運転手、看護師、私たちMONET Technologiesの社員、そして伊那市職員の方……総勢6~7人が立ち会って行いました。

結果は全く順調でした。事象は全て予想した範囲内のもので、病院の医師からも「これぐらいスムーズなら外来と十分両立できる」とお墨付きをいただきました。

医師はモニター画面を通して患者さんを診察しますが、画面からだけでは判断が難しい顔色、唇の色からの酸素不足などの情報を現地で看護師がリアルに確認できるため、より正確な診察が可能になります。

看護師さんと息のあった連携ができれば、外来診察の合間にリモート診察が行えます。これなら実証実験まですぐに進めるだろうとこの時には思っていました。ですが、ちょうどこの頃に新型コロナウイルス感染症の流行が始まってしまったんです。

高性能かつ誰もが扱えるシステム設計を

「INAヘルスモビリティ」はMONET Technologiesが初めて手がけた医療専用車ということで、できる限り多くの作業が行えるように多くの機能が盛り込まれていた。ただ、コロナ禍でMONET側の社員が伊那市を離れざるを得なくなってしまい、その高性能さが逆に仇となってしまったのだ。

ビデオ会議などPCツールを問題なく使いこなせるユーザーを想定して設計されたシステムは、医療のプロではあるが、デジタルには不慣れな看護師たちにとっては操作が難しかった。

本来なら社員が横について指導すれば問題ないことだが、コロナ禍では東京からリモートで操作方法を説明するのが精一杯。結局、看護師たちがシステムを使いこなせるまでには数ヶ月がかかった。

その経験を踏まえ、「運用システムは現場の看護師たちが簡単に扱えるレベルのものでなければならない」と加藤氏たちはシステムの改良を心に誓ったのだった。

7つの医療機関がシェアする「移動診療車 INAヘルスモビリティ」

「INAヘルスモビリティ」は2022年3月現在、伊那市で慢性疾患の高齢者患者を中心に診察する地域の移動診療所として運用されている。定期運行日は毎週火、水曜日だが、申し込みがあれば他の曜日も運行する。
平日に仕事を持つ患者の家族が診察に付き添いたいケースも多く、土曜日の申し込みが多いという。

導入から現在までの約1年間のべ利用患者数は230人を超えた。現在、7つの医療機関が利用しており、それまで医師が往診に費やしていた時間を診療時間にあてている。また、頻繁に診察することができなかった遠方の患者を、月に1度以上のペースで診察することもできるようになった。

市が所有する医療設備としてシェア利用できる移動診療車の存在価値は高い。また、変化のない日々を送っている地区の患者たちにとっては、非日常を感じられるアミューズメント的存在として、移動診療車の訪問日を心待ちにしている患者も多いそうだ。

MaaSがもたらす医療のパラダイムシフト!医療×ICT×モビリティの可能性を追求
INAヘルスモビリティ(提供:MONET Technologies)

「ICT×モビリティ」で行動変容を起こしたい

MaaSがもたらす医療のパラダイムシフト!医療×ICT×モビリティの可能性を追求

現代社会では医療サービスへのアクセシビリティは低くなっています。

どこか調子が悪いと思っても、仕事は休めないし、病院は待ち時間が長いし、面倒。

なかなか気軽に受診できる環境ではありません。オンライン診療の普及に伴い、病状によっては病院まで出かけなくても、医師の診察が受けられる世の中に変化してきています。
ただ、オンライン診療でも可能な限り医療の質を落とすことなく行うためには、さまざまな機器や看護師が患者側にいる必要があるとも感じています。

また、検査などでどうしても病院に行く必要が生じた場合には、そこからスマホ1つで病院への移動の手段までを予約・確保できるシステムをつくっていきたいですね。
「病院までの車を呼びますか、それともオンライン診療の車を配車しますか?」といった選択肢を提示して、患者の状況に合わせて移動手段や車両の予約を指1本でできるような環境が理想です。

ボタンを押すだけで、適切な治療へのドアがどんどん開いていくようにすれば、医療サービスへのアクセシビリティは格段に向上し、早期発見・早期治療が可能になります。「ICT×モビリティ」で医療サービスへの行動変容を起こしていきたいですね。

医療サービスだけでなく移動方法までセットに

健康を維持していくためには、病気の早期発見、早期治療が欠かせない。少しでも不調を感じた時に気軽に体調チェックができるAIなどを使った初期医療サービス、そして次段階として検査・治療が必要な人がスムーズに処置を受けられる仕組みが求められている。

2015年度の国土交通省「全国都市交通特性調査」によれば、65歳以上の高齢者の約25%が、休みなしで500メートル以上歩くことが困難とされている。
地方に限らず、都市部に住む高齢者であっても自宅から500メートル以内に医療機関がある環境は少なく、医療サービスへのアクセシビリティは低い。

高齢者の健康維持のためには、医療サービスだけでなく移動方法までセットにして考えていかなければならない時代に入っている。

地域に住み続けるために

生産活動が可能な高齢者なら、自分が生まれ育った地域、故郷で最期まで住み続けられる。そのためには医療サービスへのアクセシビリティを向上させていくことが必要だ。

病気が初期段階ですぐに適切な治療を受けられれば、健康を取り戻せる可能性は高い。「可能な限り早期に受診し健康な状態を維持してもらえるよう、医療MaaSの仕組みをアップデートしていきたい」と加藤氏は言う。
医療×モビリティの可能性を追求するMONET Technologiesの今後にこれからも目が離せない。

※2022年3月23日取材時点の情報です

インタビュー、撮影(人物):林 文乃

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