“楽しいし、どうにかなるだろう”と 今だに悪ふざけを続けている

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。第28回目は“今もプロ意識はない”と言いながらも、結成40周年を迎えた筋肉少女帯が登場。
結成時からのオリジナルメンバーである大槻ケンヂ(Vo)と内田雄一郎(Ba)が、デビュー時の心境やバンドにとってのキーパーソンを語る。

筋肉少女帯

キンニクショウジョタイ:1982年に中学の同級生だった大槻と内田を中心に結成。インディーズでの活動を経て、88年にメジャーデビュー。不条理で幻想的な詩世界と、卓越した演奏力が高次に融合する独自の世界は、日本ロック史上に際立った異彩を放ち、その名を残すことになる。98年に活動凍結。各ソロ活動を経て、06年に大槻、内田、橘高、本城の4人で活動を再開し、大型イベントへの出演他、精力的なライヴ活動を展開。
16年10月には『再結成10周年 パーフェクトベスト+2』を、17年10月にはカバー、セルフカバー曲なしの全曲書き下ろしのオリジナルアルバム『Future!』をリリース。18年6月にはメジャーデビュー30周年イヤーに突入し、さまざまな作品のリリースやライヴを行なっている。今年2022年には、筋肉少女帯Debut 35thカウントダウン・シリーズライヴを各地で展開、11月には結成40周年記念CD+DVD「いくぢなし(ナゴムver.サイズ)」をリリース。来年のメジャーデビュー35周年アニバーサリーに向けて精力的な活動を展開中。

自分たちがプロになるなんて 思わなかった

──大槻さんと内田さんは中学からの同級生ですが、おふたりが仲良くなったきっかけなど、バンドを組むまでにはどんな流れがあったのでしょうか?

大槻
「最初はふたりで漫画を描いていたんですよね。でも、当時は今みたいにSNSがなかったので、ノートに書くだけで誰も読んでくれなかったから、“聴いてもらえるバンドのほうがいいんじゃないか?”って話になったんじゃなかったっけ?」

内田
「漫画も描いていたし、うちでお誕生日会をやっていたような子供の時代の話なので、そんな感じで何人かでふざけていたら、バンドが始まったという感覚ですね。
誰も楽器はできないけど、“何か面白いことをやろうよ”と始まっていきました。で、高校に入ってからはオーケン(大槻の愛称)とふたりで“もうちょっと本格的にやってみようよ”ってことで、“筋肉少女帯”という名前が出てきたわけです。」

──1982年に結成された筋肉少女帯は、もともと“筋肉少年少女帯”という名前だったそうですが、この由来は何ですか?

大槻
「ちょうど少年隊が出てきた頃だったんですよ。“少年隊”というネーミングは強烈で、インパクトのある言葉だったんですよね。それと、“筋肉”っていうのは…何て言ったらいいのかな?(笑) 80年代サブカルチャーみたいな、デザイン、アートワーク、言語の中で不思議な名前をということで、ロック的じゃない言葉をつなぎ合わせて目立ちたかったんですよね。で、言葉尻だけをとってロック的じゃない言葉を探したら、“筋肉少女帯”に行き着いたと。」

──筋肉少年少女帯の初ライヴのことは覚えていますか?

大槻
「新宿JAMでしたね。」

内田
「それがケラさん(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)のやっていた伝染病というバンドの解散ライヴであり、有頂天のデビューライヴという。」

大槻
「そこに出してもらったので、有頂天とデビューが一緒でした。高校2年になる春休みだったかな? その時は僕がベースヴォーカルでね。」

内田
「僕はキーボードとサイドギターを弾いていて、2回目からはベースになりましたね。」

──そのステージではどんなお気持ちでしたか?

大槻
「高揚感がありましたね。
あと、意外にウケたよね? “変な奴らが出てきた!?”って。楽しかったですよ。」

内田
「変なことをやったのは成功したかね?(笑)」

──その当時はバンドを遊ぶような感覚でやっていらっしゃったと?

大槻
「もちろん! プロになるなんて思わなかったよね。渋谷の屋根裏っていうライヴハウスに出ることと、YAMAHAのロックコンテストの関東甲信越大会に出られれば、筋肉少女帯はバンドとしてアガりだと思っていましたから(笑)。そうしたら、ケラさんの紹介で決まった次のライヴが屋根裏だったんだよな。」

内田
「そうそう。」

パロディーをやるつもりが 王道になっちゃった

──しかし、その後は1988年にミニアルバム『仏陀L』でメジャーデビューし、1990年2月には単独で日本武道館公演を行なったりと、かなり目まぐるしい数年間を過ごしたのではないかと。

大槻
「今考えるとあっと言う間なんだよね。すごいんですよ(笑)。
まだデビューした時は学生気分で、プロでやっていくなんていう意識が全然なかったです。だって、武道館をやった時もなかったよね?」

内田
「うん。調子に乗ってふざけていたら、“あれ? やべぇな”って感じだった。」

大槻
「プロ意識は全然芽生えなかったし…今もないというか(笑)。」

内田
「基本ないです!」

大槻
「僕個人の場合はそこでタレントのお仕事も始めて、それはかっちりとしていたんですよ。“遅刻はしちゃいけないんだな”とか、“迂闊なことは言ってはいけないんだ”ということを、ちょっと知るようになりました。でも、ロックでプロ意識を持つことはあんまりなかったな。」

──夢に見ていたことが叶ったのではなく、バンドが話題になることで予想外の展開が続いていったわけですが、おふたりは“そんなつもりではないので辞めます!”という気持ちになることはなかったのですか?

内田
「将来のことを堅実に考えることができない人間だったので、“まぁ、楽しいし、どうにかなるだろう”と今だに悪ふざけを続けています。」

大槻
「もう“動き出したジェットコースターは止まらない”という感じで、“辞めます!”なんて言う余裕はなかったな。」

──ミュージシャンとしてのプロ意識はなくとも、デビューをしたら仕事としてどんどん曲を作っていくことになりますが、その当時の曲作りに向かうモチベーションは何だったのでしょうか?

大槻
「まだ自分らが本来どんな曲をやるバンドなのか分からなかったので、暗中模索でワクワクしていましたよ。」

内田
「“いついつまでに何曲作らなくちゃいけない”というのが苦手で苦労しましたけどね。今はそうでもないけど、自分がやりたいと思った時だったり、“おもしれー”と思えた時にしか曲ができないのは、本当プロ意識がないよね(笑)。」

──しかし、結成40周年記念CD+DVD「いくぢなし(ナゴムver. サイズ)」(2022年11月発表)で30年以上前の楽曲をリメイクし、若い頃の自分たちとコラボをするという発想は、若い頃と今の筋肉少女帯が違うものだからこそできることだと思います。
どんなところが違うと思いますか?

大槻
「もう30年以上経ったら別人。地平がつながっていると思えないよね。だから、今振り返ってみると、“こんな人たちがいたんだ!?”って新鮮に感じます。」

──私は学生の頃にネットで「釈迦」「日本印度化計画」を聴いて筋肉少女帯を知ったので、奇抜なイメージが強かったのですが、大人になってアルバム『ザ・シサ』を聴いた時には音楽的にも“人が変わったように違う!”と衝撃でした。

大槻
「ネットっていうのは過去のものが一気に観られるから驚きますよね。僕以外のメンバーは音楽的にちゃんとしていったというか、ミュージシャンになっていく過程を僕は側で見ていたので、そこがやっぱり面白いな。」

内田
「子供の頃はスタジアムロックみたいなものって“カッコ良いけど、おかしいね”というのがあったんですよ。Queenフレディ・マーキュリーが象徴していますけど、笑っちゃうじゃないですか。
そういう王道のロックを笑っちゃうような、バカにしたものをやろうっていう感覚があって、僕らはパロディーをやろうとしていたのに、今では王道になっちゃったという。」

大槻
「ポストロックだったはずが、ロックとして見られるようになったよね。ある意味でパロディーみたいな、王道を俯瞰で見て面白がるようなことをやっていたんだけど、意外にお客様はロックショーとしてストレートに楽しんでくださる人が多くて、“そうなのか!? 我々がパロディーでやっていたようなものを普通に求めているんだな”と、お客さんに合わせていわゆるロックバンドを演ずるように変化していったというのはありますね。」

内田
「ミイラ取りがミイラになりましたね。」

デビューするよりも 継続することが難しい

──遊ぶような感覚でバンドを始め、“お客さんも一緒に笑ってくれるんじゃないか?”と思っていたのが、ロックバンドとして盛り上がっていく反応が意外だったと。予想外の反響を受け、もともとやろうとしていたことから変わっていくことに戸惑いませんでしたか?

大槻
「戸惑いも含めて初めての体験で、それが楽しかったです。」

内田
「バンドブームが過ぎた頃、それまでたくさんいたロックバンドが解散したりしていなくなっちゃったんで、“こりゃあ大袈裟なロックをやっている筋少が頑張んなきゃな”とか思って王道ロックをちょっと意識したかな?」

──今でもあまりプロ意識がないとおっしゃっていても、“バンドを続けていこう”と心に決めた時はあったのでしょうか?

大槻
「ありがたいことにリスナーのニーズが止まらないと分かったあたりからです。再結成後かな?」

内田
「一大決心してバンドをやるとかいう感じじゃなくて、面白そうだから続けていたら今に至ってしまったわけで。でも、デビューするよりも継続することのほうが難しい。ブームの時は急に規模が大きくなって、かかわる人たちもどんどん増えてきて、トラブルが起きれば火消しにまわったり…“あぁ、音楽以外のバンド維持行動もたくさんあったなぁ”と今思い出した(笑)。」

──今の筋肉少女帯と、若い頃の筋肉少女帯で、変わっていないことを挙げるとした何がありますか?

内田
「いくじなし(笑)。」

大槻
「リスナー、オーディエンスに対するサービス精神だと思います。」

──最後に、筋肉少女帯にとってのキーパーソンをおうかがいします。冒頭でお名前が出てきたケラさんとはデビューライヴ以外にも、83年に空手バカボンを結成したり、のちに筋肉少女帯はケラさんが立ち上げたナゴムレコードから自主制作シングル「高木ブー伝説」をリリースして話題となりますが。

内田
「うん。キーパーソンですよ。先輩なんですけど、上下関係がない先輩で、つき合いやすくて、それもナゴムのカラーになったんだろうね。空手バカボンはすぐにソノシートを作ってくれたのに、ケラさんはハードロックが嫌いだと言って、なかなか筋少のレコードは出してくれなくて。しばらくしてパンクの要素を取り入れてきた頃、“筋少も出してあげるよ”という感じだったなぁ。」

大槻
「ひとり挙げるとしたらケラさんです。バイタリティーのある先輩で、ケラさんと会ったことで筋肉少女帯は生まれたので。」

──他にも思い浮かぶ方がいらっしゃいますか?

大槻
「個人的には橘高文彦くんです。彼がいなかったら今の筋少のサウンドスタイルはできていないと思う。ライヴ映像作品の編集も長いこと彼が中心にやっているしね。近年の筋少のライヴDVDはみんなかな? 橘高文彦作品色が濃い。あと、初代ドラマーの鈴木直人くん。小学校の同級生だったんですが、今思うと彼からロックやジャズやいろんな文化を教えてもらった。彼は高校くらいで筋少を辞めてしまって、今は音信不通です。元気かな?」

内田
「筋少は高校生バンドだった頃からメンバーの入れ替わりが激しくて、大勢の“ex筋肉少女帯”がいまして。デビュー後もメンバーチェンジをしているし、何人もゲスト参加してもらって、もう故人の方もいます。それら全ての人々がキーパーソンでありましょう。」

取材:千々和香苗