2019年に再結成し、2022年12月のぴあアリーナMM公演をもって再び解散したNUMBER GIRL。そのラストライヴを収録したライヴ盤『NUMBER GIRL 無常の日』がリリースされた。
今年4月、すでに映像作品であるBlu-rayが発売されているわけだが、映像だけでなく、ライヴアルバムを出すというのが何ともNUMBER GIRLらしい。前回の解散前にも2作品を出しているし、解散後も『OMOIDE IN MY HEAD 2 記録シリーズ1』『〃 2』なども発表しており、ライヴアルバムにも彼らならではのこだわりがあることは間違いなかろう。そんな中から今回は1999年に発表された『シブヤROCKTRANSFORMED状態』を聴いてみた。

MCを隠さない潔さ

“2019年に再結成したNUMBER GIRLはふたたび解散します。再結成において大きな目的のひとつであったライジングサンロックフェスティバルへの出演を果たし、これを区切りとして各自の音楽活動に戻ります(中略)。私は稼ぎてえ、と切望しておりました。
ひとりの取り分として結局1LDK築20年の中古マンションの購入価格くらいになっただろうか。計算しておらんがいずれにせよ私としてはこの目的を全くもって果たせていない。目的とは金銭のことである。これはくやしい。いや、プライスレスのヨロコビがあったではないか。そういうことだ。
そういうことなのだ(中略)。また稼ぎてえと思ったら、何度でも時を超えて我々は集まり、福岡市博多区からやってまいります”

上記は、2022年12月11日のNUMBER GIRLの最終公演『NUMBER GIRL 無常の日』に際して、2022年8月13日にNUMBER GIRL公式サイトで発表された向井秀徳からのコメントの抜粋である。再結成の目的を“稼ぎてえ、と切望”としたこともさることながら、その目的を“全くもって果たせていない”と言っているのが潔い。また、目的を果たせなかったものの、“プライスレスのヨロコビがあった”としながら、“また稼ぎてえと思ったら”再々結成すると言い切っているのは清々しさを感じるほどだ。

思えばNUMBER GIRLは初期からこの“潔さ”を持ったバンドだった。彼らの初のライヴアルバム『シブヤROCKTRANSFORMED状態』も随分と潔い。
ライブシリーズ『Distortional Discharger』最終日(1999年10月1日)の渋谷CLUB QUATTRO公演。その日そこにあった音をそのままパッケージしたかのような、“ライブ盤とはかくあるべし”とでも言いたげなアルバムなのである。まず、渋谷公演だけというのが潔い。こうしたライヴ盤を制作する場合、数カ所でライヴ録音して、そこからチョイスするという方法がしばしば見受けられる。ライヴはまさしく生ものだけに現場で何が起こるか分からない。最悪の場合、音が録れないとか、あとで音が録れてないということも考えられるし(ちなみに【ライヴアルバム傑作選 Vol.1】で紹介した『JUST A BEAT SHOW』は、一度機材トラブルで録音に失敗し、再度録り直したものだそうな…)、録れていたにしてもそのクオリティがどうかという問題もあろう。
その意味では一夜限りのライヴ収録というのは、コスト面などの関係もあったのだろうが、潔い行為ではあったと思う。今調べたら、ツアー『Distortional Discharger』はこの渋谷公演以外に福岡、大阪、名古屋でライヴを行なっているので、録る機会は他にもあった。

個人的に最も潔さを感じるのは、本作に収録されたMC。とりわけ、ファンの方ならよくご存知のM5「SAMURAI」前の、所謂噛みながらの曲紹介にそれを強く感じる。ある意味であそこは本作を象徴しているのではないかとすら思う。本来なら、おそらくは“それは素晴らしいことかもしれませんね”と言うべきだったところ、向井秀徳ははっきりと言えてない。
バラエティ番組ならひな壇の芸人に勢いよく突っ込まれるくらいのレベルである。向井秀徳のMCあってこそのNUMBER GIRLのライヴであることを承知で述べるが、極端な話、そのMCがなかったからと言って、アルバム自体が成立しないわけではないし、“ここは別に削っても良かったのでは…?”と思う人がいてもおかしくはないと考える。M5そのものを収録しない手もあったかもしれない。ちなみに、もし筆者ならM5ごと未収録にすると思う。何故なら、この“これだけはおさえたい邦楽名盤列伝!”の過去ログを全部削除したいと考えているからである。誤字脱字は修正できるのでそれはともかくとして、文章力の稚拙さや、思い込みからの事実誤認はできれば人目に晒したくないものだ。
すべてをつまびらかにするというのは簡単にできることではない。なかなか向井秀徳のようにはなれないものである。

ライヴ盤ならではの狂気の音像

そんなMCのこともあってか(?)、「SAMURAI」はオリジナルアルバムには収録されていないものの、ファンには馴染み深いナンバー。オリジナル音源(というか、スタジオ収録音源)は、2016年に1stアルバム『SCHOOL GIRL DISTORTIONAL ADDICT』、2nd『SAPPUKEI』、3rd『NUM-HEAVYMETALLIC』がアナログ盤としてリリースされた際に、この3タイトルの同時購入者向けの特典である7インチ盤に収められた。それにもかかわらず、2002年のNUMBER GIRL解散後にリリースされたベストアルバム『OMOIDE IN MY HEAD 1 ~BEST & B-SIDES~』(2005年)には、この『シブヤROCKTRANSFORMED状態』の音源が収録されている。これもおもしろい。未発表音源をベストアルバムに収録することもできたはずだが、そうはならなかった。たぶん、そうしなかったのだろう。ファンにとってはM5こそが自分たちの「SAMURAI」という想いが強かったことも関係しているかもしれない。この機会に7インチ盤のバージョンを聴いてみたが、こちらも決して悪くはない。むしろ音がクリアでシャープな印象もある。これはこれで十分にカッコいいと思うが、M5の粗さこそがこのバンドらしさのようにも思う。NUMBER GIRL直撃世代ではない筆者ですら、そう感じる。M5に続く、M6「裸足の季節」も、ベスト盤にはスタジオ音源である『SCHOOL GIRL~』版ではなく、本作のテイクを収録。M5からM6までほぼ途切れることなく演奏されているためかと考えられる。今聴いてもこれは切り離すのはいろんな意味で困難ではある。それも本作のライヴアルバムとしての優秀さを物語っているように思う。

そもそも『シブヤROCKTRANSFORMED状態』の音像は、粗いというか、ライヴ録音ならでは…と言うべき音像だ。“籠っている”という言い方は少し違うかもしれないけれど、オリジナルアルバムなどでは各パートの音が個別かつ直線的に鳴っているのに対して、本作ではバンドの音がより一塊になっているように思う。例えば、M7「Young Girl 17 Sexually Knowing」。途中、《空の色はUFOを見た》のあと、歌に重なる田渕ひさ子の単音弾きのリフレインは、『SCHOOL GIRL~』版のほうがほんのわずか後ろにあるように感じる。それは、『SCHOOL GIRL~』版での左から聴こえる向井秀徳のギターの音のクリアさにも関係しているのかもしれないけれど、音が散漫…とまでは行かないまでも、少しばかり離れているような気もする。その点では、本作のM7のほうがより音がまとまっているように思う。特に《赤の中へずっと》以降のバンドサウンドの密集具合はカオティックさに拍車をかけているようでもある。

その点では、M9「狂って候」も相当にいい。イントロはギターのアルペジオで始まるものの、アヒト・イナザワの“鋭角!”のカウントから始まるバンドサウンドがそれを引き裂く。そこから聴いているこちら側にも息継ぎをさせないような演奏が続いていく。構成、展開自体はM9も『SCHOOL GIRL~』版もそう変わらないが、テンションはまるで違うように感じる。本作を聴いたあととなっては、(こう言っちゃ失礼かもしれないが)後者はややお行儀がいい印象すら受ける。一方でM9はまさにタイトル通り。アヒトのドラミングがかかり気味にグイグイと進み、他のメンバーは誰ひとりそれに置いていかれぬように弦楽器をかき鳴らす。そのアンサンブルに当てられたかのように、端から『SCHOOL GIRL~』版以上の暴れっぷりを見せている向井秀徳のボーカルはもはや狂気の沙汰と言っていいだろう。素晴らしいテイクである。

その日の演奏をそのまま収録

向井秀徳のギター。その弾き方やコード感が独特なこともまた有名な話だろう。本作ではその辺を再確認できる音源のようにも感じる。例えば、M8「透明少女」。スタジオ音源である『SCHOOL GIRL~』版も、左から聴こえてくるギターは微妙に不協和音じゃないかと感じるほどに、ほんのわずかに気持ち悪さを覚えるのだが(この“気持ち悪さ”は誉め言葉)、本作のテイクは、これまたほんのわずかではあるが、確実に弾き方が違うように思う。何と言うか、本作のほうがリズミカルで、弾むようにストロークしているように聴こえる。コードそのものが合っているとか合っていないとか、そういうことじゃなく、(大袈裟に言えば)ストローク毎に震わせる弦が異なっているような気がする。筆者はギターを弾けないでその辺の詳しいことはよく分からないのだけど、最初のストロークでは6本ある弦を全部鳴らして、次のストロークでは高いほうの弦を強め、またその次は低いほうの弦をほとんど鳴らさない…といった具合ではなかろうか。すべての弦を同じ強さで震わせるのが上手いギターと言うのであれば、決して上手い演奏ではないかもしれない。それでも、躍動感、テンションの高まりは確実に感じられる。“俺はヤヨイちゃんが好きよ。ヤヨイちゃんに捧げます!”の曲紹介で始まるM11「日常に生きる少女」にもその辺りを感じる。続くM12「我起立一個人」では、田渕ひさ子のギターにも、そうしたNUMBER GIRL特有のアンサンブルを聴くことができるように思う。とりわけ2番のアルペジオ。ポップな中に微妙な違和感を覚える旋律そのものは、スタジオ音源である『SCHOOL GIRL BYE BYE』版とはほぼ変わらないようだが、本作はエッジーになっているようにも思う。中尾憲太郎のベースラインが重要なナンバーでもあり、彼の堅実な仕事っぷりをはっきりと確認できるところでもある。

ここまで持って回ったように“微妙”とか“ほんのわずか”とか“少しばかり”といった形容を多用してきたが、本作は、古今東西のライヴ盤でたまに見かける劇的なアレンジの変化はほとんど見受けられないと言っていい。Deep Purple『Live in Japan』(1972年)での「Smoke on the Water」の超有名なギターリフがオリジナルと変わっているとか、戸川純『裏玉姫』(1984年)で『玉姫様』収録の「蛹化の女」がパンクアレンジの「パンク蛹化の女」になっているとか(共に古くて申し訳ない)、そういう明確に分かる変化は『シブヤROCKTRANSFORMED状態』にはない。イントロやアウトロにスタジオ盤にない要素が足されている楽曲もあるにはあるが、楽曲本編ではそれが見られない。そこにもNUMBER GIRLのバンドとしてのスタンスを垣間見ることができるようにも思う。個人的にはあえてそういうことをしていないのではないかと推測する。

楽曲はそれをレコーディングした時、あるいは最初に演奏した時が生まれたてであり、そこから成長していくものだ…というような話をよく聞く。とりわけライブアーティストがそういうことを言っているように思う。何度も演奏することで楽曲のディテールが変化していくということだろう。だが、どうもNUMBER GIRLの場合、少なくとも『シブヤROCKTRANSFORMED状態』においては、そういうことでもないように思う。分かりやすくアレンジを変えずとも楽曲とは演奏毎に異なるもので、場所も日付も異なればテンションが変わるのも当然で、それがそのまま演奏に反映される。勝手な想像でしかないけれど、その場でしかできない演奏、その時間でしかあり得ない演奏がライヴであり、ライヴアルバムはそれを余すところなく閉じ込めたものという想いがあったのではなかろうか。だとすると、冒頭で述べた、一般的には所謂噛んだと言われるMCをそのまま収録したことにも合点が行くように思う。新聞をあしらった本作のジャケットと歌詞カードである。これもまた後日そこで起こったことを客観的に報じるということに準えたのではなかろうか。

TEXT:帆苅智之

アルバム『シブヤROCKTRANSFORMED状態』

1999年発表作品

<収録曲>
1.EIGHT BEATER
2.IGGY POP FANCLUB
3.タッチ
4.桜のダンス
5.SAMURAI
6.裸足の季節
7.Young Girl 17 Sexually Knowing
8.透明少女
9.狂って候
10.DESTRUCTION BABY
11.日常に生きる少女
12.我起立一個人
13.SUPER YOUNG
14.OMOIDE IN MY HEAD