小中学生の学力低下が明らかになった今、子どもを伸ばす教育法とは何か。サッカーの三笘薫を指導した筑波大学サッカー部の小井土正亮監督など、有名選手を指導したコーチに取材をした島沢優子さんは「大人はこれをやれ、辛抱強くやれと指示しがち。
すると子どもは自分から必死に頑張る機会を得られず、大事なものを奪ってしまう」という――。
※本稿は、島沢優子『叱らない時代の指導術 主体性を伸ばすスポーツ現場の実践』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。
■筑波大蹴球部の小井土監督が重視する「力」
筑波大蹴球部では、年度初めにミッション、ビジョン、アクションをベースとする組織のあり方を全員で話し合い、チームのフィロソフィー(哲学)とバリュー(存在価値)を自分たちの言葉で表現する。こうして小井土正亮監督が丁寧に整備した環境は、三笘薫にとって向き合うべき課題を言語化するトレーニングになったに違いない(第1回参照)。
「自分を客観視し、それを言語化し、課題を修正するために必要なアクションを定義づけて実行する。そのサイクルをまわす力が飛び抜けていましたね」
三笘のその力を小井土は「自分を更新し続けるスキル」「自分を高めていくスキル」と表現する。
「それを身につけるプロセスを僕は見てきたわけです。だから27歳(取材当時)になった三笘も、今のプレミアリーグでの課題に対して、1年後、2年後にこうなりたいからこれをするという努力をしていると思います」
そもそもサッカーは、味方と連動しながら2手先、3手先を想像するスポーツだ。蹴球部のなかの自分、日本および世界のサッカー界における自分。それらを「空間認知」する視野を持たなくてはならなかった。
「自分の人生という空間を見るスキルは(大学の)4年間で養われたんでしょう。壁にぶち当たらなければ、もしかしたら彼自身何も考えなかったかもしれません」
■ハードな自主練をする三笘を止めようと…
小井土が語ったように、試合に出られないという逆境が、三笘に成長し続けるスキルを与えたとも言える。
もがいて、あがいて、何とかしたいと自ら行動を起こしたからこそ道は拓(ひら)けた。三笘はピンチをチャンスに変えたのだ。
小井土は三笘に何ら指示を与えなかった。ああしろこうしろといった命令をしないどころか、自主練を止めようとした。
三笘は1時間半の全体練習の後、必ずと言っていいほどドリブル1対1の自主練に取り組んだ。試合前日だろうが、雨が降ろうが、寒かろうがやる。ほかの選手が終了後に地面に座り込むようなハードトレーニングの後でもやり続けた。
■「頑張りたいと思える環境を用意しているか」
同級生で4年時にキャプテンになった山川(やまかわ)哲史(てつし)(現ヴィッセル神戸)がいつも付き合った。次に練習するBチームにグラウンドを譲らなくてはならないので20分程度ではあるが、小井土が「もう切り上げろ」と止めても、三笘は山川を抜きにかかるのをやめなかった。
「本当にね、我を忘れてやるわけです。それもある意味必要なんですね。それが一番エネルギーになる。
そのエネルギーがチームに宿ったときに勝てる。僕ら指導者がやれよ、頑張れと、ある意味煽(あお)ってやらせるのは簡単だと思います。でも、選手が頑張りたいと思える環境を用意しているかどうか。そこが重要なんです」
言葉ではなく、頑張りたくなる環境をつくる。小井土によると「頑張る」には2種類あるという。
ひとつは「頑張ったらすごく上手くなったから、もっと頑張りたいという、報酬を得た結果湧いてくる」意欲。もうひとつは「俺ここで頑張らないと、この先ねえんだっていう危機感から生まれる」必死さとも言えるもの。その両方を持った者が最も伸びる。
それなのに、これをやれ、あれを辛抱強くやれと、私たち大人は指示しがちだ。そうすると子どもは自分から必死に頑張る機会を得られない。つまり、与えることで、大事なものを奪ってしまうのだ。
目をつり上げて山川に挑みかかる背中を見守りながら、小井土は「この子は何もしないほうが伸びる」と確信に近いものを感じていた。

■2014年、母校の蹴球部ヘッドコーチに就任
小井土は筑波大大学院に通いながらJリーグの水戸ホーリーホックで1年間プレー。6試合に出場した。現役引退後は筑波大の先輩にあたる長谷川健太監督のもとで清水エスパルスのアシスタントコーチを務めるなど指導経験を積んだ。2014年、筑波大学蹴球部ヘッドコーチに。シーズン途中から肩書は暫定監督に替わった。
当時は部員150人。部員が多い割に、指導にあたるのは小井土と2名の大学院生コーチのみ。Aチーム以外は4年生が指揮を執る状況で組織としては脆弱だった。
「選手や大学院生に小井土は何をするんだろうと見られている。そう意識して常に張り詰めていた。1年目は、自分が引っ張っていかなければとまさに気負っていました」
部には小井土の在籍以前から自主自律の伝統が貫かれている。何か決める際は都度学生の意見を仰いだものの「なるほどそういうことがあるか」と口では同調しながら、「自分のなかにある答えと(学生が)言っていることをうまくすり合わせていく感じだった」と述懐する。
選手やチームを自分の枠にはめようとしていた。
■まさかの大学リーグ2部落ちという試練
子どものときから自由に育てられた。父親は岐阜大学教育学部名誉教授の小井土由光(よしみつ)。火山の研究者で地質学が専門だ。サッカーの練習や大会時は黙って送り迎えをし、母親とともに無条件に応援してくれた。岐阜県立各務原(かがみはら)高校時代に全国大会ベスト8に入り筑波大のスポーツ推薦を受験した際も、小井土がやることに一度も口を挟まなかった。
そんな育ち方をした小井土は、選手の主体性に任せたかった。しかし……、カリスマ的リーダーが評価される空気が残る当時は、迷いを吹っ切れなかった。
「選手たちの本当の意思、本当のエネルギーを引っ張り出せなかった」と悔いる。
関東学生リーグでまさかの2部落ちを喫した。前身の東京高等師範学校、東京教育大学から数えても戦後初。関東大学リーグの優勝回数は1位の早稲田大学(27回)に次ぐ2位(16回)で、唯一2部降格経験を持たなかった名門校の歴史を変えてしまった。
最悪のスタートだった。折りしもその2年後、2016年は創部120年にあたる。小井土は何ら語らないが、想像を絶するプレッシャーだったはずだ。
ところが、小井土は開き直った。
「いろんなものを変えても、今なら誰からも文句を言われない。自分自身の価値観も含めすべてを大きく変えなければ、このままズルズルと下の下まで落ちる」
強い危機感があった。晴れて正式に監督となり、2015年度が始動する際のミーティングで部員に「みんなでやろう」と呼びかけた。
「俺も一生懸命やる。だからもう一度、みんなでつくっていく組織にしよう。俺の知ってる蹴球部はそういう組織だった」
■キャプテンの早川とトレーニング内容を相談
コン、コン。スタッフミーティングをしていた部屋に、ノックの音が響いた。ドアを開けると、キャプテンになった早川(はやかわ)史哉(ふみや)が立っていた。

「トレーニングの打ち合わせに、一緒に参加させてくれませんか」
早川の反応が嬉しかった。小井土は快(こころよ)く招き入れた。もともと賢い選手ではあったが、じっくり話すと早川の頭の回転の速さ、仲間の好不調にいち早く気づく感性や能力は際立っていた。サッカーの戦術理解も鋭いため、早川がミーティングに入ることでトレーニングのオーガナイズがしやすくなった。小井土の研究室にある本を「これ、貸してください」と持ち帰っては感想を言ってくれる。学ぶ意識が高かった。小井土が「俺はこう思う」と伝えると、「僕はこう思っています」と違う意見も臆せず口にした。早川は丸々1年間、ミーティングに参加し続けた。
その年から、セルフマネージメントシートの取り組みを始めた。
「みんなの決意も知りたいし、コミュニケーションも取りたい」と伝えた。一人ひとりの意識が明らかに変わっていく様子を実感できた。
■選手と対等になることでエネルギーが出る
「早川が部員たちに説明したりして、いたるところで助けてくれた。チームをつくっていく仲間として彼と一緒にやれたのは大きかった」
筑波大蹴球部は1年で1部に復帰した。小井土が選手と対等な関係性を結ぶことで、チームにエネルギーが生まれた。指導者として変われたからこそ、彼らの成長を邪魔しないで済んだ。これは三笘に対しても言えることだろう。
昇格を決めた日。試合に勝利した後、早川はユニフォームのまま応援スタンドに歩み寄った。
「筑波大は、日本の大学サッカーを牽引する存在になります」
澄み渡った空に響く声、その後ろ姿は、小井土の目に焼き付いている。胸の中で「早川に救われたなあ」とつぶやいた。
ところが2016年4月、アルビレックス新潟で順調に試合に出ていた早川が急性白血病を発症。同年のインカレ(全日本大学選手権)は「早川史哉と共に」と書いた横断幕を掲げて戦い優勝した。そして2019年10月5日。早川はJ2鹿児島ユナイテッドFC戦で1287日ぶりの先発復帰を遂げた。小井土は朗報を聞き、体中にエネルギーが湧いてくるのを感じた。
「早川のやつ、卒業しても、僕に力をくれました」
■筑波大蹴球部が選手の自主性で伸びた理由
それにしても、筑波大蹴球部のエネルギーは凄まじい。関東大学リーグで準優勝した2024年度のフィロソフィーは「よい選手、よいチーム、よい指導者」「強くあり続ける、高みを目指し続ける」。バリューは「現状維持は衰退」。そしてビジョンは「大学サッカーを牽引し続ける」。ここに200人の部員全員がフォーカスする。学生たちが電話営業をしてスポンサーを集め、グラウンドはクラウドファンディングによる資金も加えて改修した。
このような活力の源を探ると、蹴球部の大きな変化に気づかされた。
2025年5月現在47歳の小井土が学生だったころは部員数140~160人中、体育専門学群の学生が大半を占めていた。他学群の学生は多くても毎年全学年で3人程度だった。ところが十数年前から他学群の学生が徐々に増え始め、小井土が着任した2014年度で3割に。2024年度は部員187人中、90人が他学群と約半数を占めた。
小井土によると「筑波大でサッカーをしたい、サッカーで成長したいという学生が入ってくる」。体育専門学群以外の、実技入試がない学群から蹴球部に入ってくるのだ。
■目標は「サッカー×専門領域で飯を食う」
この動きは、2021年度に「総合学域群」という選択肢ができたことで後押しされているという。体育専門学群と芸術学群への編入はできないが、医学部などの別の学群へも編入可能だ。小井土が「肌感として、将来サッカーにかかわる仕事をしたい子が増えているようだ」と語るように、情報系や理工系はスポーツアナリストや分析システムに、経済系はスポーツビジネスに興味を持っているそうだ。
サッカー×専門領域で飯を食う。そんな夢の助走期間を蹴球部で過ごすのだ。小井土は「さまざまな学生がいて、サッカーが上手いやつが偉いという価値観ではない。そこがうちの部のいいところ。彼らが将来、日本サッカー界に必要とされる人材になってくれれば」と期待を寄せる。その多様性をエネルギーに変えるつもりだ。
小井土が筑波で監督を務めて11年目の今。選手に任せることがチームのデフォルトになった。その背景には、競技力のみが評価軸にならない多様性の流入があったのだ。

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島沢 優子(しまざわ・ゆうこ)

ジャーナリスト

筑波大学4年時に全日本大学女子バスケットボール選手権優勝。卒業後、英国留学などを経て日刊スポーツ新聞社東京本社へ。1998年よりフリー。スポーツや教育などをフィールドに執筆。2023年5月に上梓した『オシムの遺産 彼らに授けたもうひとつの言葉』(竹書房)は2024サッカー本大賞特別賞。ほかに『スポーツ毒親 暴力・性虐待になぜわが子を差し出すのか』(文藝春秋)、『部活があぶない』(講談社現代新書)など。調査報道も多く「東洋経済オンラインアワード2020」MVP受賞。沖縄県部活動改革推進委員、日本スポーツハラスメントZERO協会アドバイザー。

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(ジャーナリスト 島沢 優子)
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