電車の「終着駅」には一体何があるのか。ライター・鼠入昌史さんの新刊『ナゾの終着駅』(文春新書)より、2024年まで大阪メトロ御堂筋線の終着駅として多くの新幹線ユーザーが目にしてきた千里中央駅の様子を紹介する――。

■新幹線ユーザーにとってナゾの駅
以前、千里中央駅にやってきたときは、終着駅だった。
新大阪駅で新幹線を降りて、地下鉄の御堂筋線に乗り継ぐ。だいたいの場合は大阪の中心部、梅田やなんば、天王寺方面に向かう電車に乗るのだが、千里中央駅はそれとは反対の終着の駅。だから、大阪の人はもとより新幹線でたまに大阪にくるような人にとっても、千里中央という駅は気になる駅のひとつとしてすり込まれているに違いない。
千里中央駅、近くに住まいや職場があるわけでもない限り、まず訪れる機会はないだろう。全新幹線ユーザーにとってのナゾの駅。千里中央駅は、そう位置づけられる駅だった。
ここでいくらか細かい話をしておくと、地下鉄御堂筋線は江坂~なかもず間を結ぶ。途中には新大阪や梅田はもちろん、淀屋橋に心斎橋、なんば、天王寺といった大阪を代表する町が目白押しという、押しも押されもせぬ市内交通の大動脈だ。
■1970年の大阪万博に合わせて開設した路線
そんな御堂筋線が北に伸びて、江坂駅以北は北大阪急行という別路線になる。1970年に千里丘陵で開かれた大阪万博に合わせ、来場者輸送のために建設されたのがはじまりだ。当時から御堂筋線の電車はすべて北大阪急行に直通しているから、実質的には御堂筋線の一部といっていい。
万博終了後に現在の位置に千里中央駅が開業して以来、半世紀以上にわたって御堂筋線の終着駅であり続けてきた、というわけだ。
ところが、2024年の春に北大阪急行が箕面萱野駅まで延伸。それまで千里中央駅発着だった電車はすべて箕面萱野行きになって、新大阪駅で千里中央駅の名を見ることはなくなってしまった。
だから、「ナゾの終着駅」という本稿の趣旨からすれば行くべき駅は箕面萱野駅、ということになる。ただ、箕面萱野駅は新しすぎる。終着駅に期待しがちな寂しさや郷愁といった要素はまだ持ち合わせていない。
御堂筋線ユーザーにとって、まだ千里中央駅が終着駅のような感覚なのではなかろうか。だから、まずは千里中央駅からはじめようと思う。それにいちおう、大阪モノレールの彩都線、朝夕は千里中央駅を終着とする列車が走っていますしね。
■上品な雰囲気漂う吹き抜けのターミナル
千里中央駅は新大阪駅からたったの15分。新御堂筋をまっすぐ北に向かって走る。
ずっと新御堂筋を行き交うクルマと仲良く並んで走って、千里中央駅の手前で地下に潜り、大阪中央環状線・中国自動車道と新御堂筋が交差するインターチェンジの下を抜けると駅に着く。
地下のホームの真上は改札フロアまでどーんと吹き抜け。ホームを見下ろすように通路があって、どことなくおしゃれな雰囲気だ。これが大阪、北摂のターミナルということか。
千里中央駅は「せんちゅうパル」という商業施設に包まれている。改札口を出て上っていくと、南北に細長いせんちゅうパルのだいたい真ん中に出る。吹き抜けのエスカレーターまであって、外のペデストリアンデッキに出てみると正面には阪急百貨店が鎮座していた。
せんちゅうパル自体もまるで神殿のようなデザインで、やはり千里中央は上品さを感じさせる駅なのである。
■2分も歩けばのどかな住宅地が広がる
ペデストリアンデッキから駅の周りを見上げてみると、背の高いビルがいくつも取り囲んでいる。タワマンなのか、それともオフィスビルなのか。駅のすぐ北にはヤマダデンキ。その周りは緑の多い住宅地だ。
一見するといかにも古い昭和の団地があったり、比較的真新しく見えるマンションがあったり。
小さな子どもを連れたお母さんが歩いていたり、お年寄りが集まって歩いていたり、商業施設と背の高いビルに囲まれた駅から2分も歩けばのどかな住宅地が広がっている。
千里中央駅には御堂筋線(北大阪急行)に加えて大阪モノレールも乗り入れている。モノレールの千里中央駅に向かっては、せんちゅうパルの中を抜けて南に歩いていけばいいと案内されている。
言われたとおりに歩くと、ほどなくせんちゅうパルの外に出て、広々としたデッキの上を進むことになる……のだが、そこで目に入ったのは巨大にして存在感はバツグンなのに、まったくひとけがなくて閉鎖されている廃墟状態の建物であった。
千里中央の駅前に広がるこの建物、2019年まで営業していた千里セルシーという商業施設だ。開業したのは千里中央駅から遅れること2年後の1972年。以来、半世紀にわたって千里中央の町のシンボルのひとつだった。
■かつての新人アイドルの聖地は廃墟となった
ピーク時には120ものテナントが入っていて、他にもボウリング場にプール、サウナ、映画館。中央のセルシー広場ではアイドルなどのコンサートイベントもたびたび行われていたという。
千里セルシーでイベントをやったアイドルや歌手はまさに錚々たる面々で、古くは堀ちえみ、光GENJI、比較的新しいところではモーニング娘。、三代目 J SOUL BROTHERSも千里セルシーでパフォーマンスを披露している。
2011年2月にAKB48のユニット・渡り廊下走り隊7がやってきたときには7000人が集まり、2013年にはEXILEが1日1万枚ものCDを売り上げた。
何でもこの千里セルシーのステージでイベントをすると“売れる”というちょっとした都市伝説のようなものもあったというから、駆け出しのアーティストやアイドルにとっての聖地だったのだろう。
しかし、いまの千里セルシーはすっかり廃墟になった。閉鎖されたのだから当たり前なのだが、せんちゅうパルのデッキから見下ろすひとけのないステージはなかなかに切ない。120もあったテナントは末期には60店舗にまで減り、最後は老朽化を理由に閉鎖されてしまった。
■大阪市の人口が100万人増加した1950年代
千里中央には他にもせんちゅうパルに阪急百貨店があり、加えていまや廃墟と化した千里セルシー。北摂のターミナルらしく、いくつもの商業施設が駅を取り囲む。これはいったいなぜなのだろうか。
古い航空写真や地図を見れば一目瞭然、1960年代はじめごろの千里中央駅付近はほとんど何もない丘陵地であった。雑木林がほとんどで、筍や果樹が特産だったという。開発がはじまるまでは、大阪府のモデル果樹筍産地に指定されているくらいだった。
だが、1958年に千里ニュータウンの開発が決定する。
戦争直後の混乱期を抜けて、朝鮮戦争の特需景気がはじまると大阪の人口が爆増。
大阪市は1950年代の10年間で約100万人も人口が増えている。とうぜん住宅不足が社会問題化し、戦前までは田園地帯だった周辺都市が続々と都市化してゆく。
しかし、10年で100万人も増えた人口を吸収するのにはとうてい間に合わない。そこで雑木林に覆われていた千里丘陵を大規模なニュータウンに改造することが決まった。開発当初の計画では千里ニュータウンは1150ヘクタールの敷地に15万人が暮らす町。もちろん交通機関の整備も重要なテーマで、そのひとつが地下鉄御堂筋線の延伸であった。
■ニュータウンの中心として開業した駅
ただし、千里ニュータウンが1962年にまちびらきをした時点では御堂筋線の延伸は果たせておらず、まず先行して阪急千里線が延伸、加えて路線バスによってニュータウンの交通を担っていた。
そうして開発が進む最中の1965年に千里丘陵は万博の開催場所に決定。御堂筋線の延伸は、1970年の万博開催に合わせて進められることになったのだ。
かくして1970年、千里ニュータウンの中心として千里中央駅が開業する。北大阪急行は万博へのアクセスを最初の役割にしていたから、千里中央駅は仮の駅舎。大阪中央環状線に沿って万博会場(いまの万博記念公園)まで線路を延ばしていた。

万博期間中、北大阪急行は実に4148万1175人もの来場客輸送をしたという。とりわけ閉幕間際の9月5日には、終電出発後にも駅周辺や会場内に約15万人のお客が残ってしまうほどの混雑ぶりだったとか。とにかく北大阪急行は、開業するやいなや万博によって大いに面目を施したのである。
■最盛期には13万人が住んでいた
万博閉幕後、千里中央駅は現在の場所に移って本格的に終着駅となり、現在のせんちゅうパルや阪急百貨店なども開業。遅れて1972年には千里セルシーも誕生し、名実ともに千里ニュータウンの中核になっていく。
すでに1964年に開業していた東海道新幹線の新大阪駅と15分という利便性もまた、千里中央にとって大きな強みだったのだろう。計画の15万人には及ばなかったが、1975年にはニュータウンの住民が約13万人に達する。その中心の千里中央、いくつ商業施設があっても、余ることはない。千里セルシーも、そうした中で歴史を刻んできたのだ。
■50年でニュータウンは「オールドタウン」に
千里ニュータウンに入居したひとたちは、多くがいわゆる核家族であった。ニュータウンというと近所づきあいに乏しい無機質な町というイメージを抱く人もいるかもしれないが、時代は昭和。団地の中で同じ階段を共有する人たち同士で旅行に行くほど親密な関係性を築いていたという。
最初はフロなし住宅も多かったが、1970年代以降増改築が行われてフロもできた。全戸水洗トイレも特徴のひとつで、家の近くには日常利用に便利なスーパーもあって、千里中央に行けばレジャータウン。緑地も多く、当時の住環境としては実に恵まれていた。
ただ、それが祟った……というと言葉が悪いが、住環境の良さは住民が長く定着する結果をもたらした。住民の入れ替わりがほとんどなく、新陳代謝が進まなかったということだ。そうして1980年代から住民の高齢化という課題が浮上し、いつしか“オールドタウン”などと呼ばれるようになってしまう。
千里中央駅の周りを歩いていると、実に古めかしい昔ながらの団地群があるかと思えば、すっかり装いを改めた真新しいマンションのような建物も見える。うまく建て替えに踏み切れたところと、そうでないところ。日本中の団地が抱えているコントラストを、千里中央も抱えている。
そうした時代の変化は、駅を取り囲む商業施設にも影響を及ぼす。かつて万博の会場で、2009年までエキスポランドとして営業していた一帯が再開発。2015年にららぽーとEXPOCITYとしてオープンした(2022年にリニューアル)。
ららぽーとという家族でクルマで遊びに行ける施設ができれば、そちらに人が流れるのもとうぜんのこと。50年の歴史を刻む千里中央と比べれば、若い人たちにとってもEXPOCITYのほうがいいにきまっている。
こういった事情もあって、千里セルシーが“新しい町のレジャーセンター”だった時代は過去のものになった。老朽化なりなんなり、閉鎖された理由は別にあろうが、いまの千里中央駅前の千里セルシーは、そういったニュータウンの栄枯盛衰を象徴しているのかもしれない。
千里中央は、いわば“落日のターミナル”といっていい。2024年、北大阪急行が延伸して終着駅ではなくなったのも、まるでそうした状況を象徴しているかのようなできごとでもあった。
■対照的に賑わう“本当の終着駅”
では、新しく生まれた終着駅、箕面萱野駅はどうなのか。
箕面萱野駅は、「みのおキューズモール」という大型商業施設に直結している高架の終着駅だ。すぐ北には北摂の山々が迫って見えて、箕面の中心市街地(阪急箕面線箕面駅付近)をはじめとする各方面への路線バスも分かれている。
みのおキューズモールは、千里セルシーの廃墟化とは裏腹に、まったく多くの客で賑わっている。実は開業は2003年とちょっと古いのだが、駅の開業によってさらに集客力をアップさせた。映画館も入っているような、北摂一帯でも最大規模の商業施設だ。
箕面萱野駅まで足を延ばし、みのおキューズモールの賑わいの中に身を置くと、どうしても考えずにはいられない。千里セルシーも、1972年の開業時、千里ニュータウンが最も活気に満ちていた時期には、いまのみのおキューズモールに勝るとも劣らない賑わいだったのではないか、と。
時代の変化は、ときに残酷である。いつしか箕面萱野駅も大きく姿を変える日がやってくるのかどうか。それはまだ、遠い未来の物語である。

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鼠入 昌史(そいり・まさし)

ライター

1981年、東京都生まれ。文春オンラインの「ナゾの駅」シリーズはじめ、週刊誌・月刊誌・ニュースサイトなどに様々なジャンルの記事を書きつつ、鉄道関係の取材・執筆も行っている。阪神タイガースファンだが好きな私鉄は西武鉄道。著書に『トイレと鉄道』(交通新聞社)、『それからどうなった? あのころ輝いた場所の「今」を歩く』(理工図書)、『鉄道の歴史を変えた街45』(イカロス出版)など。

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(ライター 鼠入 昌史)
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