81歳の今も、元気に声楽の指導を続ける三部安紀子さん。夫とともにオペラの本場、イタリア、ドイツで15年の声楽家としてのキャリアを経て、札幌に「みべ音楽院」を設立。
今年で40周年を迎える。ドイツでは、地元の人にイタリアの発声法を教えてもいたという三部さん、そのエネルギーに満ち溢れた80年間をたどる――。
■「休肝日なんて、そんなムダなことはしません」
札幌市中心部の一角、サーモンピンクの5階建てビルが目指す場所だった。「みべ音楽院」の文字が掲げられたビルの4階に住むのが、音楽院の院長であり、声楽家の三部安紀子さんだ。81歳の今でも5階にある音楽院で生徒たちを指導する傍ら、さまざまな団体の役職も務めている。
三部さんの語り口は少し早口で、先へ先へと思いが進む。
「私は1944年生まれですから、81歳です。身体はどこも悪くありませんし、薬も健康食品も、何も飲んでいません。食いしん坊なので、3食全部、自分で作ります。お客さまがいらしても、外に行くより、家で食べようという感じです」
1日の仕事を終えた楽しみは、若い頃から変わらず、晩酌だ。
「それも、赤ワインなの。どんなときでも、1人で、ちゃんと晩酌をします。
休肝日なんてないですよ。そんなムダなことはしません。赤ワインを毎晩1本飲んでいたのですが、最近、『先生、いい加減にしてください』って言われたので、控えめにしています。さすがに半分だと少ないので、ちょっとだけ控えめにしようと我慢しています。でも私、いまだに健康診断の数値は血圧から何から何まで完璧で、悪いところが何もないの。薬は何一つ飲んでいませんし、サプリメントも摂っていないです。3食ともきちっと作って食べています」
ワインのお供は肉料理やパスタ、グラタンなど、ヨーロッパで覚えた料理が多いが、和食とのミックスも得意だ。好物は、チーズ。「お米より、チーズ。チーズがあれば、全然、いいの」と。
■「ずっと、音楽だけで生きてきた」
ワインを1本空けても、二日酔いになったことは一度もない。朝はパッと目覚め、すぐに身体が動く。
生徒さん同様、一体どこからそのエネルギーとバイタリティが湧いてくるのだろうと思わずにいられない。
「本当は、今日、お時間があれば、私の手料理でしたのに」
「時間があれば」と言うのは、明日、東京へ行く予定があり、その準備に追われているためだった。
「明日は二期会の会議です。全国に7つある二期会の役員が集まるので、7人分の資料を用意しないといけないの。パソコンで、データを作って。だから、今日は本当にごめんなさい」
二期会とは1952年に結成された声楽家の任意団体で、2005年からは「財団法人東京二期会」に、現在は「公益財団法人東京二期会」と改名。北海道二期会は昨年創立60周年を迎え、三部さんは北海道二期会の理事長を23年間務めた。現在は芸術監督だが今回は代理で出席せざるをえないのだという。81歳になった今でも、さまざまな業務のスケジュールに追われている。
いろいろな業務に明け暮れる身だが、三部さんの根ざすところは一貫して変わらない。
「私は、声楽家です。ずっと、音楽。
音楽だけで、生きてきました」
■音大生となって全国の小、中、高校に演奏旅行の毎日
音楽人生の始まりは、5歳のとき。琴と三味線の師匠である母親のもとで琴を始め、音楽大学への進学を決めた高校2年までやり続けた。父は医者で、父の身内は医者が多かったが、声楽家として大成した、変わり種の叔父もいた。
「小学校の担任が作曲家だったり、中学校は歌の専門家だったりと、恵まれていた環境だったと思います。高校は、コーラス部で歌っていました。邦楽はずっとやっていたのですが、和物の世界の大変さを感じていたので、母の跡を継がないと決めて、高校2年で進路を歌に定めました。受験のための曲だけを勉強して、武蔵野音楽大学に入りました。そこで、出会ったのが主人です。彼はバリトン、私はメゾソプラノ、同じ門下生でした」
音大生となったものの、演奏旅行のために全国へ駆り出される日々を過ごす。
「全国の小学校、中学校、高校などの体育館で歌うんです。着替えは体育館の裏とか、汚いところでも平気でした。1日に3回、演奏することもあって、着換え、移動が大変でした。
マネージャーが同伴で、いろいろなところに連れられて、曲目も毎回、違って。当時はコピー機なんてないですから、譜面は全て、手書きで写譜。それこそ、寝ないでやりました。100曲以上の譜面を写譜して、演奏に挑んで」
全国行脚に明け暮れる日々を、三部さんは一向に苦労と思ってはいない。むしろ、「ラッキーだった」と振り返る。自分を強くした体験だったし、声楽家として生きる原点はここにあったのだと。ましてや、各パート4人で構成された演奏会のメンバーに、後に夫となる男性、三部勲さんもいたのだから。
■3週間のヨーロッパ旅行の後、待っていたもの
一介の音大生に、思いもしないチャンスが舞い込んだのは1966年、大学4年のときだった。講義を受けていた教授から、突然、声をかけられた。
「キミ、外国、行かない? ヨーロッパを6カ国か7カ国ほど回るんだけど、全国から大御所の先生ばかり連れていくので、お金の計算ができる若い子が欲しいのよ」
1ドル360円の時代。海外旅行は極めて高額であり、しかもヨーロッパに3週間も滞在するのだ。唐突な娘からの相談を、父は即座に快諾した。
「女は嫁に行ったら動けなくなるから、今のうちに行って来なさい」と、100万円もの大金をポンと出してくれた。若いときに医者としてドイツに留学していた経験もその決断にはあったのだろう。
昼間は街並みをバスで観光し、夜は毎晩、コンサートホールで生のオペラを鑑賞する。しかもヨーロッパ各国、個性も劇場も雰囲気も異なる、貴重な異文化体験をたっぷり味わうこととなった。
帰国後に待っていたのは、思いもかけぬプロポーズ。バリトンの名手のロマンチックな結婚の申し込みに、断る理由は一つもなかった。勲さんは4年生大学を出た後、音大に入ったので同じ門下生とはいえ、4学年年上だった。ここから、同志である夫婦として、二人三脚で歩む人生が始まった。
■「海外で、一から勉強しよう」
「結婚して東京に住んだのですが、自分が出演するコンサートのチケットにノルマがあって、何百枚と売らないといけない。主人が『これだけチケットで出費するんだったら、海外で一から勉強しよう』と言い出して。もちろん、オッケーですよ」
勲さんは、三部さんが廻ったヨーロッパの国々の中で、勉強するとしたらどの国がよいかを聞いた。三部さんには、揺るがない確信があった。
この目で、見て来たのだ。
「あなた、それはローマよ。世界的な音楽院、サンタ・チェチーリアよ!」
結婚して2年後の1969年、夫婦でローマに渡り、サンタ・チェチーリアを受験し、合格。2人はローマで、2年間の留学生活を送る。生活の支えは、三部家からの仕送りだった。
「ローマには、2年半の滞在でした。卒業もしたし、一旦、日本に帰ろうとなったときに悪阻(つわり)が始まって、妊娠7カ月で帰国し、札幌で娘を産みました。28歳の時です」
娘には、惣永(なみえ)という名を付けた。
勲さんは東京の劇場でオペラなどに出ていたが、ヨーロッパに必ず戻るという強い意志があり、それは三部さんも同じだった。
「主人は、本当にオペラが好きなの。『ヨーロッパの劇場だったら、日本と違って、親子で生活できるぐらいの収入を稼ぐことはできる。ドイツの劇場に行きたい』って主人が言いました。当時、西ドイツには70の劇場があったんです。その劇団員になるための準備として、ドイツ語の習得もあるし、まずは、お隣りオーストリアのウィーンに住もうということになりました。ウィーンと言えば、シュターツオーパーです」
「シュターツオーパー」とは、ウィーン国立歌劇場のこと。
「ここでは毎晩のようにオペラを観賞することが出来ました。立ち見でも何でも、とにかくオペラが観たいんです。感動したのは、最上階。そこにはスコア(譜面)の勉強ができるように豆電球のある席があって、譜面を見ながら鑑賞できるの。全てが日本と違っていました。料金も安いし、近くに住んで、夫と交代で子どもを見ながら、劇場に通いました」
■ドイツとウィーンとの別居生活
その後、夫の勲さんはオーデションを受けてドイツの劇場に入ることになった。娘はウィーンの小学校に入ったこともあり、ドイツのヴュルツブルグとウィーンと別居生活を夫婦は選ぶ。三部さんは異国の地で単身、子育てをすることになった。
当時、何より大変だったのは、日本からの来客の多さだった。三部さんのおおらかさゆえ、アパートはあっという間に、後輩や教授たちにとって、慣れない異国で唯一頼れる場所となっていく。
「ローマのときからとにかく来客が多くて、お客さんのご飯作りが本当に大変でした。三部家からの仕送りだけなので、いつも貧乏で、一番安い市場に行って、買い溜めをしての繰り返し。小麦粉が安いから小麦粉をこねて茶筒で抜いて、餃子の皮を何百枚と作りました。中の具を変えれば、いろいろな料理ができるから、若い人に食べさせました。そういうことがあったから、日本に帰ってから、みんなに大事にされて、重宝がられているんだと思いますね」
■ドイツ人にイタリアの発声法の指導
別居から10カ月後、やっと親子三人住む住居が見つかり、娘とドイツのヴュルツブルグへ移住。ロマンス街道出発点の街での暮らしが始まった。
「主人が、『俺が子どもを見ているから、今日はお前が行け』と言ってくれたりしたので、声楽のレッスンはきちんとできました。主人が私の時間を大事に作ってくれたので、音楽を継続できたわけです」
自宅には勲さんの劇場の友人も、よく遊びに来た。そのドイツ人たちにまさか、歌唱法を指導することになるとは……。
「『ベルカント』という、イタリアの発声法があるんです。伝統的な歌唱法で、低音から高音まで気持ちよく、伸びやかに歌える技術で、劇場のドイツ人が『そのイタリアの手法を教えてくれ』って言うんです。主婦をして、子育てをして、そして、教えてもいました。大変でしたけど、教えるのは好きだったし、合唱の方をソリストになるようアドバイスしたりと、私なりにとても充実した時間でした」
初めて知った、教えることの喜び。ここに、今に至る指導者としての道も生まれたわけだ。
■娘の担任が「ドイツ人より文章もうまい、優秀だ」と驚く
母親として特に気を配ったのは、学齢期になった惣永さんの教育だった。
「ウィーンにいるときもそうだったのですが、周囲には、両親が日本人でありながら、日本語の読み書きもできない子どもがいっぱいいたのです。日本語もできなくて、外国語も完璧じゃなかったら、悲劇じゃないですか。親の都合で一緒に連れて行ったのですから、親の責任は重大。ドイツ語は私も勉強をして子どもに教えて、日本語はNHKの通信教育をさせました。それこそ、お尻を叩いてでも厳しく。担任の先生が、『ドイツ人より文章もうまいし、優秀だ』って驚くほどでした。そしていつの間にか現地の学校で、一番になっていたんですよ」
ドイツには、8年住んだ。ローマ、ウィーンと、ヨーロッパでの生活はトータルで15年に及んだ。20代半ばから、30代はほぼ異国での生活となった。
帰国を決めたのは、夫・勲さんの意思だった。
「やっぱり男たるもの、故郷に帰るべきで、元気なうちに、やりたいことがある。後輩たちのために、自分たちがここまで築き上げてきたものをパイプとなり手取り足取り、教えたい」
妻としてもちろん、異論はなかった。一家が帰国したのは1985年、三部さん、41歳の時だ。翌年、三部さんの故郷・札幌に「みべ音楽院」を創設、日本の地において、夫婦で新たなスタートを切ったのだ。
後編へつづく)

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黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)

ノンフィクション作家

福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)、『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)などがある。

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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)
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