■収容所でも靴を脱ぐ「日本人の習慣」を尊重する
ことわっておくが、アメリカの捕虜収容所といってもいろいろあり、時と所によって現実にはかなりの相異があったようだから、私のいた所の事情がすべてに通じるとは言い切れない。収容所を動かしている人間によって、捕虜生活の雰囲気が相当左右されることも事実である。日本語が出来、日本人をよく理解している人が多かったという点ではここは他に優っていたと今も思っている。
私が柵へ入ってゆくと、柵長が走って来て、日本の軍隊式に大げさな敬礼をするというようなことが、入所早々の柵では演じられた。みんなに一つのテントに集まってもらう。テントには床板があったが、もちろん靴のまま上がるようにこさえてあるものだ。
ところが日本の捕虜は、ほとんどが靴を脱いで上がり、いつも雑巾がけして光らせていた。家の中はこうしないと落ち着けないらしい。そのかわり靴をはくのは勢い突っかけになるので変形するのが早かった。
こういう“日本家屋”へ私の同僚の多くは靴のまま怪しむことなく入って行ったが、私は日本人の習慣を尊重した。といって、いちいち編上靴を脱いでもいられないので、床の端に腰をおろすのが常だった。
■まず人間味から入ってゆく
私は日本の捕虜に接する根本的な態度をこういうふうに決めていた。
何よりもまず人間味から入ってゆく。彼らはアメリカ人から見れば、てんでまともな人間として扱われて来なかったのだ。日本とアメリカと、政治上の立場、戦争での敵対関係、習慣――相反することはいくらあろうと、人情はそれらを超えて滲透する。
私は元来は情報係将校だった。だから情報任務はやらなければならなかった。いやな仕事だと思うこともあった。しかし、戦争を早く終結さすために積極的に情報を取るべきだと考えていた。
■日本人捕虜には脅迫めいたことはしなかった
ジュネーヴの捕虜条約によると、捕虜は姓名と軍籍番号、階級のほかは何も喋る必要はないことになっている。しかし、条約が出来てからでも、西洋では情報を取るために現実に脅迫に似たことがあったという噂を聞いている。
だが、日本の捕虜に関しては、少なくとも私のいた収容所では絶対にそういうことはなかったと断言していい。情報官の人柄によっては、威厳を示し、少しは抑えなければ駄目だという傾向の人もいた。ドイツ人やイタリア人の場合はそれでよかった。
私の考えでは、日本人は抑えられることには馴れている。だから抑えられながら、表面抑えられたと見せて逃げ廻る術を心得ている。抑えないで人間扱いすると勝手が違うので、ある意味では陸に上がった河童のように抵抗力を失う。
逆説的に言うと、殴られた方が精神的には楽だったかも知れない。捕虜を不名誉と卑下していた者が、虐待を受けたことによって、自分を合理化する理由を見つけるだろう。
■難しい日本語で話されると歯が立たない
アメリカでは捕虜になった場合の心得を軍隊で教育した。B-29としての搭乗員が出発する時は、日本に墜ちたら、ここまでは言ってよろしいと教えた。全然喋らないことは命に関わるという配慮からそうしたのだ。
ところが、日本の軍隊ではそれどころではない。だから、情報官の合理的な質問に対しては全く歯が立たない。一つの事実を総合的に積み重ねてゆくと、一致点と穴とが現れる。
人間味から入るというもう一つの理由は、日本語だ。アメリカ人で独、伊、仏語を完全にマスターし、同国人と区別なくこなせる人は大して珍しくない。しかし、日本語を、日本人同様に読み、書き、喋る人は、まずないと言っていいのじゃないかと思っている。
私の喋るのを聞いて、日本人よりもうまい、などとよくお世辞を言う人があるが、どうして、どうして。喋ることだけでも1、2時間話していれば、ケツを割る。ボキャブラリーも多いし、ニュアンスの複雑さは奇怪なくらいで、10年や20年で追いつけるものではない。
だから日本の捕虜がわれわれをごまかそうと思えばいくらでも出来た。ちょっと難しい熟語を並べると分からない。その場では分かったような顔をして引き下がり、帰って字引と首っ引きになっても、的確に掴めるわけはない。そうかといって、ソレハナンノイミデスカ、などと聞けば、ますます迷路へ引きずり込まれるだけだ。
■日本の軍国教育に憎悪を覚えた
私は、分からんから手伝ってくれと捕虜に言った。相手が私を信用し、収容所の運び方に好意を持って素直になってくれなければ、情報集めは極めて困難だった。
私が情報について接した捕虜は、全部正直に言ってくれたと思っている。これには二つのタイプがあった。その一つは、何もかも正直に答えたから殺してくれと言う者。恩義に感じて、充分の礼をした、だが、日本人としては一番悪いことをしたと言うのである。
私はいつも言った。
「あなたを殺していいとは東條〔英機〕さんでも言わなかった。そんな権利がぼくにあるものか。今更あなたを殺したって、アメリカのためになるわけでもない。武器も凶器も取り上げられたあなたはもうぼくの敵ではない。ただ人間なんだ」
こういうタイプは、あくまで捕虜になる意志がなく、全くの不可抗力で捕まり、途中で逃げようとした者に多い。
■武士道はいつしか玉砕を賛美する「犬死の奨励」になった
武士道とは死ぬことと見つけたり――日本の古い武士道の聖典はそう謳っていると聞く。それは昔の一騎討ち時代のことだ。西洋にもそういう時代があった。その騎士道は、それよりももっと根底の深い、意味のより大きなものに包容された。日本の武士道も同じでなければならないのに、犬死の奨励にすり替えられ、堕落してしまった。
玉砕主義は、日本では戦国時代の末期に始まった風習だと聞く。捕虜になっても殺されるので、止むなく自決することになったという。だから日本の武士道は必ずしも玉砕を讃美し、金科玉条としていたわけではあるまい。
日露戦争で5000人ぐらいの日本捕虜が出たという文書がれっきとしてあるのに、太平洋戦争当時の日本人は信用しなかった。日露戦争から40年間に、特に最近の10年間に猛烈な玉砕熱を吹き込んだものと見える。
私も日本の小学校で同じ教育を受けたが、当時(昭和6年)まではそんなにひどくはなかったようだ。それに私は、その後別の教育も受けたから“玉砕”党にはならなかった。
■「ここでは皆さんを人間として扱う」
もう一つのタイプは、国へは帰れない、どこかの国――まずアメリカで、風来坊で暮らすほかないから、その世話を頼む。ボーイにしてくれと言う者だ。アメリカの市民権は貰えないものかと訊く者が相当いた。
戦争が終われば捕虜は本国へ送還される規則だし、市民権は法律が許さないと教えると、非常に不安がった。捕虜条約の存在ぐらいは知っていても、その内容を心得ている者は皆無だった。
このタイプは、捕虜になるとき、自分の判断で行動したものでなく、集団心理に引きずられるか、目の前に開いた生への門にフラフラと歩んでいった人たちに多い。これも“迷える捕虜”に属する。
私は、入ったばかりの捕虜にまず“人間宣言”をやった。
「ここでは皆さんを人間として扱う」
その意味がすぐには呑み込めないのが普通だった。
「日本の軍隊で皆さんは人間として扱われなかったことをぼくは知っている。いま皆さんはそういう世界から救い出されたんだ。出直しの人生が始まってるんだ。その手始めに、ここではもう、何々兵曹、何々軍医などと呼ぶことはやめてもらおう。みんな同等なんだからさんでいこうよ」
■昔の階級にすがり続ける捕虜たち
この宣言が下っ端を安心させることは当然だが、いつまで経っても階級意識の根絶というわけにはいかなかった。
捕まった当初は、どんな捕われ方をしようと誰でも一様に生の歓喜を素っ裸で感じる。見たこともない薬や器具で傷は手当してくれる。野戦食とはいえ砂糖やチーズ、煙草まで入った箱入りの食料をくれる。温かい毛布にくるまって、弾丸の心配なく眠られる。この時ばかりは一様に赤裸々な人間になる。ところが、体力も回復し、気持も落ち着いて来ると、一つしかない“日本人”が頭をもたげ、いろんな衣をまとい始める。
「われわれは日本軍人だ。たとえ捕虜になっても、日本の軍人らしく行動しなければならぬ。軍紀を厳正にして、ヤンキーに舐められるようなことがあってはならん」
てなことを真面目くさって説く者が現れる。心から軍人精神を持っている者もいたろう。
しかし、こういうことを言う人間がすべてそうだったとは言えない。能なしの人間は、捕虜として裸にされると、昔の階級にすがる手しかない。それは、サイパンの“曹長”の場合が典型的だ。また、昔の考えから一歩も前進出来ない下っ端の兵隊は、元の上官を“さん”呼ばわりする勇気が持てない。将校意識を捨てられないような連中には私の方から、
「何々中尉殿、参りましたっ」
と靴音立てて直立して見せたり、
「はっ、そうでありますかっ」
と、応対した。こんなに露骨にしても、その場だけの苦笑いで終わり、ほんとうに反省しないしぶといのもいた。こういうのは大抵打算から来ているので、どうにもならなかった。
■肉体を残しただけでは救ったことにはならない
私が柄にもなく日本捕虜の人間改造の野望を懐(いだ)き、最初から取っ組んで、最後まで苦闘したのは、捕虜は恥だという考え、日本人が捕虜になるのは赦されないことだ、だから国へは生きて帰れないという考え方だ。
自主的に投降した者でも、はじめから、国へ帰って再起することを念頭に置いていた者はなかったと言っていいのじゃないか。大部分が無国籍人として異境に余生を送ることを考えていたようだ。あんたのボーイにしてくれ、そのうち職を見つけるから――こういう申し込みを数え切れないほど受けた。ひどいのは殺してくれという。
すでに敗戦の日本へ帰っているこれらの元捕虜が、いまもってその通りに考えているわけはないが、敗戦1年や2年前に、いま当人たちが持っている考えに、少しでも近づけようとすることは難事業だった。しかし、それを怠ることは、魂のない肉体を残しただけで、救ったことにはならない。私はこんな問答を何度日本の捕虜と繰り返したことだろう。
■「捕虜になって日本へ帰るくらいなら死んだほうがまし」
「あなたはまだ眼が二つあるだろう。口が一つあり、手足には血が通っているだろう」
「…………」
「三度の飯も食いたい、女も欲しい、どうだ」
「ええ……」
「われわれが熱いというものを、あなたも熱いと感じるだろう」
「ええ」
「それじゃあなたはまだ人間だ。子供の顔を見たいだろう。お袋にも会いたいだろう」
「そりゃそうです」
「じゃ国へ帰ったらいいじゃないか」
「それが出来ないのです。捕虜になって日本へ帰るくらいなら、死んだ方がましです」
「バカを言っちゃいかん。最前線に出て一番苦労したあなた方こそ、国のために一番尽くしたんじゃないか。あなた方が生きのびたから、あの島が落ちたわけでもあるまい。内地じゃ戦争にも出ず、芸者買いをしている者もあるはずだ。兵隊になっても内地勤務で弾丸を知らない連中もたくさんいる。あなた方こそ勲章もらっても不思議じゃない」
「一応もっともです。でも、日本じゃそれが通りません」
「なぜ通らないんだ、この道理が」
「なぜって、それが口で言えないのです」
そこで話が切れてしまう。
「やはり、その、軍ノ機密デアリマスカ?」
と話を落とすこともある。
「じゃどうだ。天皇陛下の許しが出たら帰るか?」
「…………」
「心配するな。今にその許しが出たも同じ時が来るからな」と元気づけるが、戦局の見透しがつかない者には呑み込めない。
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オーテス・ケーリ
同志社大学名誉教授
1921年小樽生まれ。同志社大学・アーモスト大学名誉教授。14歳で進学のためアメリカに帰国し、42年、アメリカ海軍日本語学校に入学。真珠湾の陸海軍情報局に情報将校として配属され、戦場に赴いたのち、ハワイの日本人捕虜収容所長に就任する。アーモスト大学卒業後の47年、アーモスト大学から同志社大学に派遣される。51年イェール大学大学院で修士号取得。79年まで同志社アーモスト館の館長、92年までアーモスト大学代表を務めたほか、国際文化会館理事としても日本の国際化に貢献した。87年に勲三等瑞宝章を受章、89年に京都市文化功労者として表彰された。著書に『ジープ奥の細道』(法政大学出版局)、『日本との対話 私の比較文化論』(講談社)など。2006年逝去。
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(同志社大学名誉教授 オーテス・ケーリ)