不妊治療を終える決断とはどのようなものなのか。43歳で不妊治療を始め、流産も経験し、48歳で第1子を出産した読売新聞記者の遠藤富美子さんは「取材では、子供以外に好きなことを見つけた女性や、養子縁組で子供を迎え入れた女性など、さまざまな生き様に出合った」という――。

※本稿は、遠藤富美子『48歳、初産のリアル 仕事そして妊活・子育て・介護』(現代書館)の一部を再編集したものです。本稿の内容は2025年6月末時点のものです。
■クリニックの診察券が捨てられない
不妊治療を続ける中で、流産、死産を経験した人は多い。流産や死産を何度も経験する人もいる。そのうちに年月も過ぎ、治療に終止符を打つかどうかの問いが心の中に見え隠れしてくる。
いつまで治療を続けるのかを最終的に決めるのは医師ではなく、治療している当事者たちだ。ただ自分の心を納得させるのはなかなか難しい。以前話を伺った不妊治療中の女性は「クリニックの診察券をなかなか捨てられない」と話してくれた。
治療を終えたあと、どんな生活が待っているのだろうか。治療をしている間はそれを想像することすら怖いかもしれない。難しい決断だからこそ、同じような立場を経験した人たちがどのように自分の気持ちに折り合いをつけ、新たな道に進んだかを知るのはやめどきに悩む人にとって大きな助けとなるだろう。ここでは治療を終えて新たな人生を切り開いた女性2人の生きざまを紹介する。

■10年の不妊治療を終え山間部に移住した女性
渡邉雅代さん(54)は40代前半で10年にわたる妊活や不妊治療を終え、7年前からヨガ講座や不妊のカウンセリングを行っている。さらに3年前には、元プロサッカー選手の夫(55)、犬2匹と神奈川県内の都市部から山あいの町に移住した。
やがて現在の住まいの近くに、フランス料理シェフの弟が引っ越してきた。さらには、大手広告会社を早期退職し、忙しい人々に向けて仏教瞑想を起源とする「マインドフルネス」の講師として活動する兄や、両親も移住してきた。
渡邉さんは夫が携わる茶園を手伝い、自然の恵みを伝えるガイドや、神社でのヨガ指導を行っている。目指すのは、自然豊かな集落を訪れた人々が心ゆくまで心身をリフレッシュできる場所だ。
「自然の中で都会の人が自分自身を見つめ直す空間を提供できたら」と話す渡邉さん。どん底から次なる人生を自力でつかみ取ってきたが、やさしい笑顔に気負いはなく、あくまでも自然体だ。
■「タイミング」の日は夫に土下座して「してください」
渡邉さんは30代半ばまでプロのサーフィン競技団体で働き、健康にも自信があった。夫とは34歳で結婚した。有名人が高齢出産したニュースを目にしては、
「私もそっち側になれる」と信じていた。
35歳で妊活を開始。
タイミング法では結果が出ず、人工授精も10回以上受けた。体外受精は「自然に逆らっている」との思いから先延ばしに。38歳で初めて体外受精を受けたが妊娠には至らなかった。
卵巣能力の指標となるAMHの測定で医師からは「閉経の数値」と言われ、自己肯定感は下がる一方だった。妊娠するためには何でもやろうと、体を冷やす冷たいものは一切取らず、漢方薬やサプリメント、神頼みと何にでもすがった。焦りや不安を自分の心に押しとどめるだけで精いっぱい。夫と話し合うことからも遠ざかり、お互いどんな気持ちでいるのかも確かめなかった。
タイミング法をめぐっては忘れられない出来事がある。医師が「妊娠しやすい」と推奨した日に向けて妻は体調を整えているというのに、当初協力的だった夫はやがてこの日を避けるように帰宅が遅くなった。ある日、家で夫の帰りを待っていると、夫は明け方になって帰ってきた。
「今日(タイミングの日)だから」と促す渡邉さんに、「俺は種馬か!」と夫は声を荒らげて怒りだした。チャンスを1カ月も逃してしまう。
そんな絶望的な気持ちで渡邉さんは土下座をし、夫に懇願した。
「お願いだからしてください」
とてつもなくみじめな気持ちになり涙があふれた。
■ヨガで体が楽になり自然妊娠するも流産に
「子どもはあきらめたほうがいいですね」
42歳のとき、医師からそう切り出された。「子どもがいるのが幸せな家庭と思い込んでいたから、子のいない幸せは想像できなかった。将来が暗闇に覆われたと感じ、恐怖でした」と渡邉さんは振り返る。その頃、体外受精で得た受精卵も細胞分裂がうまく進みづらくなっていた。ただ夫は、「気のすむまで治療をやればいいよ」と言ってくれたため、最後にもう一度、体外受精に向けて採卵を目指した。
渡邉さんに変化をもたらしたのは、ヨガだった。週1回続けていたヨガを毎日行うようになると体が楽になり、43歳で自然妊娠をした。妊娠6週目で初期流産したが、ヨガを継続しているうちに44歳で再び自然妊娠をした。
だがこのときも流産に。まもなく10週を迎えるところだった。
つわりが急になくなり産婦人科を受診すると、赤ちゃんの心拍が停止していた。連休で流産の手術の予約が先になってしまい待っていると、自宅で15分おきに陣痛のような強い痛みに襲われた。やがて体の外に出てきた小さな赤ちゃんと対面。やさしくくるんで、朝まで一緒に寝た。
「私にとっては、ちょっとの間でもおなかに来てくれてありがたかった。その子には毎日心で声をかけるし、いつか会えるときまで頑張るよと思っている。それが私のよりどころになっているかも」
深い悲しみは、自分に自信を取り戻すきっかけも与えてくれた。
■「母になることが一人前の証」と思い込んでいた
治療の終結前後は、「母になれないことで自分のアイデンティティーが崩壊するのでは」との恐怖に襲われた。しかし、ここでも大好きなヨガをしながら自身と向き合う時間を増やしていくうちに、ありのままの自分を受け入れられるようになっていった。
「ある日突然、苦しみから解き放たれたわけではない。時間が経つにつれて自然と受け入れるようになりました」
さらにNPO法人「Fine」で不妊ピア・カウンセラーの資格を取得し、患者らの相談にのるようになった。不妊の心理を客観的に学んだことは、自身を知るうえでも役立った。

いま思えば、治療で苦しかった頃は、母になることが女性の幸せだという考えにがんじがらめにされていた。「子どもが好きだからほしかった、と思い込んでいたけれど、実は自分が子どもに執着していた理由は、『母親になって一人前』『周りの人を喜ばせたい』という刷り込みにあったのかなと感じています」
■治療を終えて夫の知らなかった側面を知った
治療中は一時険悪なときもあった夫との関係も改善した。「治療中は、夫婦で気持ちのすり合わせができていなかったですね」と、いまは余裕で振り返れる。治療を終えてから、初めて知った互いの思いもたくさんあった。
心身が疲弊した渡邉さんを見て、夫が「子どもを授かる以前に壊れてしまう。治療をやめてほしい」と思ったこと。里子や養子を迎えることを考えていたけれど、それを「治療で精いっぱいな妻に言うのは今じゃないと思って伝えられなかった」ということも。
子どもを実際には産み育てる願いはかなわなかったが、渡邉さんはいま、不妊治療の体験者を支援することで子どもに関わっていると実感している。相談にのった患者の中には妊娠、出産したり、養子縁組に進んだりする人も出てきて、「人生の転換期に立ち会えている」というやりがいを感じている。
「ふと子どもがいたらどんな人生だったかと思うこともあります。でも、いまは自然の中で暮らし、自分自身が満たされていると心から感じています」
■3回目の妊娠は死産、絶望の淵に立たされた
池田麻里奈さん(50)と夫の紀行さん(52)は小学生の長男(6)と海辺に近い街に暮らす。長男は夏場になれば毎日のように海に通い日焼けして元気いっぱいだ。

「子どもを産めなくても育てたいという気持ちが私にはありました」と話す池田さんは6年前、生後まもない長男を特別養子縁組で迎えた。以前から抱いていた「子どもを育てたい」という気持ちは、持病の子宮腺筋症の悪化のため、42歳で子宮全摘の手術を決めた後も続いていた。
30歳で不妊治療を始め、33歳で初めて妊娠したものの流産。35歳で2回目の妊娠後も流産となり、特別養子縁組について調べ始めた。裁判所の許可を得て、実の親と暮らせない子どもが血縁のない夫婦と法律上の親子になる制度だ。紀行さんに話を向けると、当時は「血縁のない子どもを迎えて愛せるか、自信がない」との返事だった。
36歳で3回目の妊娠をしたが、順調に育っていた子どもは妊娠7カ月で死産となった。絶望の底に突き落とされ、「努力で思うようにならないこと」を思い知った。死産の後は、以前のようには治療を続けなかった。「自分たちの卵子や精子でどこまで追い求めるのだろう。治療の結果を待ち続ける保留の人生はもう嫌」と感じ、熱意も維持できなくなっていた。
■「断る理由なんてない」と夫は養子縁組の背中を押してくれた
42歳で子宮を全摘した後、紀行さんに「子宮がなくなっても子どもを育てたい気持ちは変わらず残る」とつづった手紙を渡した。真摯に思いを伝えたいとき、池田さんが手紙をしたためることを紀行さんはわかっていた。
妻の強い思いを受け止めた紀行さんのその後の行動は目を見張るほどの速さだった。養子縁組の実現に向けて積極的に情報収集し、数多くの民間あっせん団体の中から、「子どもの福祉のため」という理念を掲げて養子を迎えた後のフォローも手厚い団体を選んで申し込んだ。
ある日、あっせん団体から「ご紹介したいお子さんがいます」と電話が入り、翌朝には回答するよう言われた。急に重大な決断を迫られて池田さんが弱腰になっていると、紀行さんは「断る理由なんてないよね」と背中を押してくれた。
長男は生後5日で池田家にやって来た。やがて電車や車に興味を持つようになった。紀行さんは「息子がいないときに電車や消防車が通ると、『見せたかったのに! もったいない』と思った」と振り返る。「自分の世界が広がったと感じました。子どもがいなかった生活が思い出せないくらいです」。そこには、養子縁組に不安を抱いていた頃の姿はなかった。
■若い世代にも不妊治療や養子縁組について知ってほしい
池田さんは、特別養子縁組で子どもを迎えた当事者として、大学生に講義を続けている。
「若い世代には、不妊治療も特別養子縁組も実感を持って感じにくいかもしれません。でも、もし自分がいつか子どもを持ちたいけれど持てないかもしれないと思ったときに、そうした選択肢があることを思い出してほしい。その手助けになれば」
若い世代は特別養子縁組についても先入観がない。ある日、講義の時間に長男の世話をしてくれる人を頼めず、授業に息子を連れて行ったことがあった。長男が池田家にやって来た経緯を知る大学生たちは、「かわいいですね」とにこやかに迎えてくれた。
そうした反応は地元でも同じ。近所の人たちには特別養子縁組で子どもを迎えたことを包み隠さずに伝えてきており、周囲の反応は温かい。特に若い世代から「すてきな制度だね」と言われると、池田さんは「いろいろな家族のあり方を受け入れてもらえてうれしい」と感じた。
あまり知られていないが、特別養子縁組のあっせん団体には「夫婦ともに子どもとの年齢差が45歳差まで」といった年齢制限を受け入れる家族側に設けているところがいくつもある。池田さん夫妻は長男を迎えた後、二人目も育てたいと考えたが、登録するあっせん団体では二人目でも年齢差の条件は変わらず45歳だったため、あきらめた経緯がある。
■息子には養子であることを伝えている
特別養子縁組では、養親から子どもに養子であることを伝える「真実告知」が重要なプロセスと考えられている。池田さんは長男を迎えたその日から、育ての親の自分たちのほかに、生みの親がいることを長男に伝えている。
長男は、物心がつくまではすべての人にお母さんは2人いると思っていたが、やがて友達のお母さんたちが出産して家族が増えていく様子を見て、子どもを産んだ人が育てる場合が多いことを少しずつ理解するようになっていったという。
養子縁組のあっせん団体から受け取った長男のへその緒を本人に見せたときのこと。「産んでくれたお母さんの栄養分がここを通じて流れてきたんだよ」と話した。池田さん夫妻もそれぞれのへその緒を持っており、桐の箱に入った3人分のへその緒を並べて、大いに盛り上がった。
一方、長男とは、妊娠7カ月で亡くなった池田さんの長女のお墓に一緒にお参りしている。「お姉ちゃんは生まれる前に亡くなったと伝えました。息子は『死ぬ』『生まれる』がどんなことか、理解しています」。
■「なぜ子供がほしいのか」を徹底的に自分に問いかける
同じあっせん団体だったことで知り合った他の特別養子縁組の家族とはピクニックに行くなど、交流を続けている。真実告知の伝え方は年齢によって変化するため、日常のちょっとしたことも含めて相談し合う。同じ立場の子ども同士のつながりも作ってあげたいと思う。池田さん夫妻は著書『産めないけれど育てたい。 不妊からの特別養子縁組へ』(KADOKAWA刊)に記し、自分たちの体験を伝えている。
池田さんは、特別養子縁組を考えている人には、どうして子どもがほしいのか、徹底的に自分に問いかけてみるようアドバイスする。「とても大変な作業かもしれないけれど、自分と向き合って、自分の不妊に決着をつけてほしい。そうすれば自分が本当に求めているものが見えてその先へと踏み出せます」。
池田さんによると、「子どもがいる人と区別されたくない」という思いを心の底に抱えたまま特別養子縁組に進んでしまうと、今度は「血縁のある家族と区別されたくない」という別の悩みを抱えることになる。「特別養子縁組を周囲に明かせないようなら子どもに真実告知を行う年齢も遅くなり、悩みがさらに深くなってしまいます」。
池田さんには、不妊治療を終結してその先に行く人たちに提案がある。「子どもをあきらめたことについて触れないまま日常生活は進んでしまいがちだけど、夫婦で(節目の)『儀式』を行ってみては? 涙を流して話してもいいし、言葉は交わさずにハグするだけでもいい」。
「儀式」でお互いの気持ちを伝え合うプロセスを踏むことが、その先の人生で子どもがいないためにつらい思いをした場合でも、心を守れる「バリア」の役割を果たしてくれるという。
子どもができなかったその先に子どもを外部から迎えて育てるには、親が育てられない子と、子を育てたい夫婦が裁判所の許可を得て法的な親子関係を結ぶ「特別養子縁組」制度のほかに、虐待や親の病気などで元々の親との生活が難しい子どもに家庭環境を提供する「里親」制度がある。
■不妊治療と並行して養子縁組の検討も
特別養子縁組では、子の対象年齢は原則15歳未満で、戸籍上も育ての親の実子となり、戸籍にも「長男、長女」などと記載される。縁組は児童相談所か、養子縁組あっせん法で許可された民間あっせん団体にまず相談し、研修や半年間の試験的な養育を経て、家庭裁判所の決定で成立する。
特別養子縁組の成立件数は2019年度に711件に達し、それまでの10年間で倍増したが、それ以降は減少傾向にあり、制度が社会に広く知られているとは言いがたい。特別養子縁組で子どもを望むカップルの多くは不妊治療で子どもを得られなかった人たちだ。
ただし、いくつもの民間あっせん団体が、受け入れ側の親に年齢の要件を設けている。子どもを迎えたい人にとって特別養子縁組は「最後のとりで」かもしれないが、そのあたりを留意したうえで準備する必要がある。
民間あっせん団体の一つ、「さめじまボンディングクリニック」院長の鮫島浩二さんは「不妊治療を終えてから特別養子縁組を目指す人が多いですが、30代のうちから治療と並行して検討してもらえたら」と話す。縁組の手続きや子どもとのマッチングには時間を要する。養親の条件や費用などは団体ごとに異なるため、入念な情報収集も欠かせない。
■「好きなことを手放さないで」
不妊治療の終結が近づいてきたとき、日々どのように過ごせばよいだろうか。キャリアコンサルタントで公認心理師の中辻尚子さん(54)は、自ら不妊治療のやめどきに悩んだ経験を持ち、不妊と向き合った女性たちが生きやすい環境について考えてきた。
「治療のやめどきを決めることは、周囲が想像する以上に難しい。出産や育児のない、夫婦二人で歩む想定外の人生について、考えることすらできないこともあります」。
中辻さんは6度目の体外受精でようやく妊娠できたが、流産した。深い悲しみの中、ショックでしばらく外に出られなかったという。
治療の最中は生活すべてが「治療のため」という思考回路になりがちだが、中辻さんは「自分が楽しいと思えることを手放さないで続けてほしい」と呼びかける。
「治療を終えてからも40代半ばなら、その先の人生はすごく長いのです」。不妊治療では40代を超えるととかく「高齢」を自覚させられてしまう場面が多いが、実社会ではまだまだ現役だ。
「治療でとても気になっていた年齢も、不妊治療というフィルターを外したら働き盛りの世代。いま自分が大切にしていることをやり続け、ブランクの期間を作らないようにすると、今後のいきいきとした人生につながるのではないでしょうか」
自分が本当に楽しいと思えれば、ストレス解消になり、充実感も味わえる。好きなヨガが仕事にもつながった、前述の渡邉さんのケースはまさにこれに当てはまりそうだ。人生はこの先も続いていく。

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遠藤 富美子(えんどう・ふみこ)

読売新聞記者

1995年、読売新聞社に入社し、北海道支社、国際部、マニラ支局、金沢支局、生活部などを経て英字新聞部長兼THE JAPAN NEWS編集長。不妊体験者を支援するNPO法人「Fine」認定の不妊ピア・カウンセラーの資格を持つ。

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(読売新聞記者 遠藤 富美子)
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