※本稿は、稲村悠『謀略の技術 スパイが実践する籠絡(ヒュミント)の手法』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■長い諜報の歴史に裏打ちされた伝統とノウハウ
イギリスの情報機関は、20世紀初頭から現在に至るまで様々な手法を発展させてきた。その強みは、長い諜報の歴史に裏打ちされた伝統とノウハウである。
イギリスのスパイ活動はエリザベス一世時代(16世紀)のウォルシンガム卿に遡るとも言われている。近代でも「グレート・ゲーム」と称された19世紀の中央アジアでの諜報戦など、豊富な経験を積んできた。こうした伝統はMI6や英保安局(MI5)の組織文化に受け継がれ、ヒュミントと欺瞞を使った工作を組み合わせた活動に長けている点が特色だ。これは、もはや諜報の域を出て、工作によって当方の意図を実現させる謀略の域に入る。
■第二次大戦期、ハニートラップでの離れ業
第二次大戦のダブルクロス作戦はその最たる成功例で、MI5はドイツのスパイ網を完全に掌握し、逮捕したドイツ諜報員を二重スパイとしてイギリス側に転向させて活用した。この手法により、敵対国から送り込まれたスパイを逆に操作し、機密情報の収集だけではなく、誤情報を与えることで連合国側に有利な欺瞞工作を行い、1944年のノルマンディー上陸作戦に関する誤情報を与えて敵を翻弄した。この巧妙な欺瞞工作は他国の諜報史にも残る偉業である。
また、大戦中に秘密部門(London Controlling Section)を設立、架空の部隊や装備情報をでっち上げて敵の判断を誤らせるといった組織的欺瞞工作も行った。
イギリスは、ハニートラップも行った。第二次大戦期にイギリスの協力者として活躍したエイミー・エリザベス・ソープ(コードネーム「シンシア」)は、その魅力で複数の男性外交官を虜にし、彼らから機密情報を引き出した。彼女はワルシャワでポーランド高官の周辺から対独ソ方針を聞き出し、後にはフランス大使館内の金庫にあった機密文書を盗み出すという離れ業を成し遂げたとも言われている。
■CIAとの「特別な関係」は特色の一つ
冷戦期には、MI6は主にソ連・東側陣営に対するスパイ活動を担い、敵陣営内部への浸透や現地協力者の獲得に注力した。21世紀に入り、テロ対策でもイギリスは重要な役割を果たしている。MI6は9.11同時多発テロ以降、中東や南アジアにおけるイスラム過激派組織への浸透と情報収集を強化、CIAなど他国機関と緊密に協働してテロネットワークの解体にあたった。
このCIAとの「特別な関係」は、イギリスのヒュミントの特色の一つと言っても良いだろう。中東・南アジア・アフリカなど旧イギリス帝国の地域では、イギリスの経験と人脈が豊富であるため、CIAがMI6の知見に頼る場面も多いとの指摘もある。
イギリスのヒュミントは、古くから「紳士的」と形容される礼儀作法や伝統を保ってきたと語られることが多い。しかし、元職員が記した回顧録や研究、あるいは報道・公的資料などをひもといてみると、意外にも他の情報機関と大差ない手法を駆使していた様子がうかがえる。
まず、MI5やMI6は、かつて大イギリス帝国が築いた広大な植民地行政や通商ネットワークを背景とし、上流階級や官僚層の縁故関係を基盤に成長してきた。
■実態は地道な諜報活動の積み重ね
しかし、クリストファー・アンドリューの大著『The Defence of the Realm: The Authorized History of MI5』やMI6元職員の証言などからイギリス情報機関の採用変遷を見ると、このような優雅かつ華やかな上流階級ネットワークによる手法が常に効果的に機能したかといえば、必ずしもそうではなかったことがうかがえる。イギリスの上流階層に広がる旧友つながりや名門大学の同窓関係は、各国の知識人や要人と接触するうえでの良い足がかりになることもあったが、脅威が多様化したことにより、旧来のネットワークでは対応できなくなったのだ。
実際の現場では、優雅なサロン文化だけに頼っていたわけではない。イギリス情報機関は旧宗主国としての歴史と名門大学のステータスを足がかりに、相手国のエリート層の憧れをうまくヒュミントのネットワーク構築に利用してきた一面がある一方で、その優雅なイメージとは裏腹に、実態は地道な諜報活動の積み重ねであった。
■イギリスも結局は、「アメ」と「ムチ」
では、そのイギリス流の実像とはどのような姿なのか。
MI6の元職員リチャード・トムリンソンが明かしたところでは、MI6はターゲットの資金状況やプライド、政治的スタンスなどを事前に丹念に調査し、小さな要求や提案を積み重ね、相手を少しずつ協力へ導く典型的な段階的アプローチをとっているという。
国際安全保障・諜報史を専門とする学者のリチャード・J・オルドリッチは、その著書『The Hidden Hand: Britain, America and Cold War Secret Intelligence』の中で、イギリスは、海外の要人や軍人、企業関係者を相当な長期間をかけて段階的に取り込み、関係を保持しながら情報を取得する「古典的な手法」をとっていたことを示唆している。
実のところ、イギリスも、ターゲットの経済的・政治的欲求を見極め、恩恵や協力をちらつかせるリクルートを行う。時には反共感情や反対陣営への不満を利用して味方に引き込む。必要に応じて秘密やスキャンダルを握り、圧力手段に転用する。
結局、イギリスもソ連・ロシアやアメリカなどと同様、「人間の弱みや欲求をどう突くか」という本質的な部分に行き着くのだと言えよう。ジェントルマン風の装いは一種の演出に過ぎない。最終的に浮かび上がってくるのは、「世界のどの情報機関も共通して持つ普遍的な手法」に他ならないのである。
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稲村 悠(いなむら・ゆう)
Fortis Intelligence Advisory代表取締役
1984年生まれ。東京都出身。(一社)日本カウンターインテリジェンス協会代表理事、外交安全保障アカデミー「OASIS」講師。大卒後、警視庁に入庁。刑事課勤務を経て公安部捜査官として諜報事件捜査や情報収集に従事。警視庁退職後は、不正調査業界で活躍後、大手コンサルティングファーム(Big4)にて経済安全保障・地政学リスク対応に従事した。その後、Fortis Intelligence Advisory(株)を設立。経済安全保障対応や技術情報管理、企業におけるインテリジェンス機能構築などのアドバイザリーを行う。
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(Fortis Intelligence Advisory代表取締役 稲村 悠)