※本稿は、上村公亮著、鎌田和宏監修『不登校児ゼロ教師が伝える 親子の幸せな関係と居場所をつくる「子ども日記」』(かんき出版)の一部を再編集したものです。
■子ども一人ひとりと向き合う熱血教師
私は横浜市で小学校の教師になってから、もし子どものころに担任の先生にしてもらえたら嬉しかっただろうと思えることを始めました。
そのうちの一つが学習ノートへのコメントです。
子どもが教科ごとに書いたノートを集めて、「ここの計算、頑張ったね」「難しい漢字をよく書けたね」のように、赤字でコメントを入れていったのです。
1クラス35人の子どもの一人ひとりがどんなことを考えているのかを知りたくても、45分の授業では不十分です。だから、学習ノートを通して一人ひとりと深くつながっていきたいと考えていました。
4教科分のノートを集めて1冊ずつコメントを書いていたので、夜10時か11時まで学校で残業するのはざらでした。
大変ではあったのですが、子どものコメントの量がどんどん増えていき、子どものコメント以上の分量で返したら、さらにそれを超えるコメントを書いてくれて、つながっているという実感に喜びをかみしめていました。それ以外にも、休み時間には子どもと本気で遊び、班を回って一緒に給食を食べるなど、できる限りのことはしました。
まさに、TVドラマに出てくるような熱血教師でした。
「子どもはみんなかまってもらいたいものではないか」という思いは、このころ確信に変わっていったのを覚えています。
■学習ノートのコメントで気を付けていたこと
学習ノートのコメントでは、「○○さん」と子どもの名前を意識して書くようにしていました。
「○○さんは、そんな風に考えていたんだね」のように。それだけでも、子どもは「自分のことをちゃんと見てくれている」と感じると思ったのです。
もし、子どものとらえ方が教科書で定めている答えと違っていたとしても、それを間違っていると指摘せずに、「そういう考え方もいいね!」のように受け止めていました。
誤字脱字も直しません。たとえば、「正しい」が「正い」になっていたら、私の朱書きコメントの中で「正しい」という言葉をあえて使って、誤りに気づけるように配慮していました。
とにかく、学習ノートのコメントを書きたいと思ってもらえるのが重要なので、子どものやる気をそぐようなことはしないよう、心がけていました。
■問題がある子でも不登校にはならなかった
そのような活動が影響したからかはわかりませんが、私が受け持ったクラスは、7年間不登校児はゼロでした。
もちろん、私のクラスでもトラブルがゼロだったわけではありません。
「この親御さんは、毒親なのかな」と感じる子どもを受け持ったこともあります。発達に特性のある子どももいましたが、学習ノートを通して一人ひとりと向き合ったからか、「学校に行かない」選択をした子どもはいませんでした。
たとえ、友達とトラブルになっていても、学校に行けば先生に会える。
子どもたちにそう思ってもらえるような存在になりたかったのです。
■熱血教師が突然、職場に行けなくなる
学校の先生は天職だ。
そう信じて疑わなかった私に、ある日異変が起きます。夏休み明けの9月の朝、布団から起き上がれなくなってしまったのです。
当時受け持っていた6年生を、子どもたちにとって学びの集大成にしないといけない。そのために自分をもっと高めていかなければならないと、ハードルを上げていました。
同時に、私は社会科を専攻していたこともあり、子どもが興味を持つような授業をつくって横浜市の社会科研究会で発表したり、本を共同執筆するなどの活動もしていました。
放課後に子どもたちと一緒に商店街のお店の人にインタビューしに行ったり、他のクラスの先生がしないような試みもしていたので、不登校児ゼロにできたのかもしれません。
そういう試みは楽しい反面、自分の仕事を増やしていました。
さらに、その時期に初めて我が子が生まれました。
嬉しくて嬉しくて子育てに参加したかったのですが、毎晩遅くまで学校で学習ノートにコメントを書いていたら、とてもそんな余裕を持てず……。完全にオーバーワークで心身ともに限界が来ていました。
■適応障害と診断され、教職を辞める
最初はすぐに治るかと思っていたのですが、体調はなかなか回復しません。学校に行くこともできず、子どもたちに会えなくて歯がゆく、焦るばかりの毎日。病院で診てもらうと、適応障害という判断でした。適応障害はその環境に適応できずにストレスがかかり、心身に不調が起きる症状です。
結局、1カ月間休むことになりました。
そして「やっと子どもたちに会える」と11月に復帰したものの、3日間出勤したら調子を崩して、今度は3カ月療休に入ることになりました。
7年間不登校児ゼロを続けていた教師が、自分自身が不登校教師になってしまったのです。結局、担任が交代となって、私は最後まで伴走することができませんでした。
子どもに対する申し訳なさと、自分へのふがいなさで、しばらく立ち直れないほど落ち込みました。
そして、私はあんなにも天職だと思っていた教師を辞める決断をしました。
■子どもも先生も不登校になる教育現場はおかしい
学校を辞めた後、学童クラブや児童発達支援・放課後等デイサービスで働いていました。
そのころ、周囲を見ていると多くの先生が私と同じように限界を超えて働き、苦しんでいる現実がわかり、心境が変わってきました。
そして先生たちのサポートをしたいという思いが強くなり、教員に戻ることを決断したのです。
ただ、前と同じような働き方はできないので、クラス担任はできないこと、外からサポートすることに徹したいと教育委員会に伝えて、2024年からまた学校に戻りました。
主に療養休暇に入った先生の穴埋めをすることになり、今は理科の先生として週に何回か学校に行って子どもたちに教えています。
その学校は、私が入って何とか授業が回るようになりましたが、他校では担任がいないクラスもあると聞きます。私のようにメンタルに支障を来して離職する先生は多いですし、そうなれば教師になりたい若者もどんどん減っていくので、先生一人当たりの負担は増え続けています。まさに悪循環、負のスパイラルです。
子どもも先生も不登校になっていく、今の教育の現場はおかしいと、学校の外に出てから実感するようになりました。
■子どもの人生に伴走する「この子キャリア応援団」設立
一人ひとりの子どもの特性を理解せずに、集団にムリヤリ適応させようとするから、子どもは苦しんでいるんじゃないか。学習指導要領に従っての授業だと、教えることが多すぎて、先生も子どもも負担が大きすぎる。そもそも、テストの点数で比べたり、成績表のAの数を比べたり、年齢で区切ることすらどうなんだろう?
そのように、次々と疑問が湧いてきて、その現状を少しでも変えたいと、特定非営利活動法人「この子キャリア応援団」という団体を立ち上げました。
「この子キャリア」のキャリアは、人生そのものという意味です。
キャリアの本来の意味は「職業・技能上の経験や経歴」です。
キャリアの語源はラテン語の「馬車の通り道」や「轍」を意味する「carraria」だと言われています。社会人が使う言葉というイメージがありますが、小学校卒業や中学校卒業、高校や大学など、子どもも人生の道に轍を残しながら歩んでいっています。だからキャリアという言葉がふさわしいと考えました。
もともと、親御さんから「先生とは卒業や転勤で離れ離れになるんじゃなくて、もっと継続して成長を見守ってもらいたい」という要望をいただいていました。
私自身、教員として仕事をする中で「支援したくてもできない、支援を受けたくても声をあげられない」葛藤を目の当たりにしてきました。そこで、「この子キャリア応援団」が教師の代わりとなって、子どもにずっと伴走していく役割を担いたいと考えたのです。
■「この子」のよさを活かしたキャリア実現
活動は、学校に通えなくなっているお子さんたちの居場所となる場を探したり、公民館を借りて子どもたちに勉強を教えたり、放課後児童クラブや教師の相談を受けてアドバイスするなど、多岐にわたっています。
さらに、学校を卒業した後もずっとつながりを持てるような仕組みをつくりたいとも思います。
発達に凸凹がある子、不登校を経験した子は、なかなか社会でうまくやっていけないケースを耳にします。
近年、発達に凸凹のある子には「神経発達症」や「ニューロダイバーシティ」という言葉が使われていますが、障害はまわりの環境にあり、その子自身に問題はないのです。
本当は一人ひとりに合った働き方があるはずです。「この子」たちのよさを活かせる職場をつくれたら、社会はもっと豊かで素晴らしいものになるんじゃないかと、本気で考えています。
私たちの活動が、その職場の一つになれたら最高です。
「この子キャリア応援団」は、この子の自立を願う人と手をつなぎ、この子がなりたいキャリア実現に伴走する応援団です。
今、私は毎週500人以上の子どもと関わる日々を送っています。
子どもや親御さんからは一切お金を受け取っていないので(2025年7月現在)、皆さんも親子関係や居場所について悩んでいらっしゃるなら、お気軽にご相談ください。
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上村 公亮(かみむら・こうすけ)
特定非営利活動法人この子キャリア応援団団長
不登校児ゼロ教師。全国的に不登校が増え続ける中、学級担任したクラスでは不登校児ゼロ。延べ7000人の子どもとその家族、支援者を指導・助言。現在は、主に障がい児相談支援事業所や放課後児童クラブの巡回相談員として、発達凸凹の子やご家族、支援者をサポートしている。
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鎌田 和宏(かまた・かずひろ)
帝京大学 教育学部 教授、放送大学客員教授
東京都の公立学校、東京学芸大学附属世田谷小学校、筑波大学附属小学校を経て現職。 研究分野は教育方法(情報リテラシー教育・授業研究)、社会科教育。学校図書館を活用した授業の授業研究に取り組む。 著書・執筆に『小学社会』(文部科学省検定教科書、教育出版)など多数。
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(特定非営利活動法人この子キャリア応援団団長 上村 公亮、帝京大学 教育学部 教授、放送大学客員教授 鎌田 和宏)