※本稿は、細田千尋『幸せを手にできる脳の最適解 ウェルビーイングを実現するレッスン』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■ハラスメント被害者は脳にダメージを受ける
人が日常生活のなかでストレスを感じたり溜ためたりするのは、やはり「人間関係」の問題がほとんどだというのは、多くの人が実感しているところだと思います。特に、いまは職場のハラスメントによって強いストレスを受け、病気になってしまう例もたくさん報告されています。
ハラスメントの影響は、心だけでなく脳にも及ぶことがわかっており、主に次の4つがあるといわれています。
①扁桃体(へんとうたい)への影響
「扁桃体」は、恐怖や不安などの感情を処理する部位です。そのため、ハラスメントに限った話ではなく、一般的に恐怖を感じるような「高圧的な言動」や、不安を引き起こす「継続的な嫌がらせ」のような高いネガティブなストレスは、扁桃体を過剰に活性化させ、慢性的なストレス状態を引き起こします。これにより、不安や恐怖、過敏性、不眠などの症状が表れることがあります。
②前頭前野への影響
前頭前野は、思考、判断、意思決定、感情のコントロールなど、「人間らしい」高度な認知機能を司る部位です。しかし、ハラスメントなどに代表される慢性的なストレスは、前頭前野の機能を低下させ、集中力や記憶力、問題解決能力の低下などを引き起こす可能性があります。また、感情のコントロールが難しくなるわけですから、衝動的な行動や、後述する激しい「怒り」なども生じやすくなります。
③海馬への影響
海馬は、記憶の形成と保持に重要な役割を果たし、学習全般に関わる部位です。ストレスは海馬の機能を低下させ、記憶力や、新しいことを学ぶ能力の低下などを引き起こすことがあります。
④脳の萎縮
長期間にわたる深刻なハラスメントは、脳の一部の萎縮を引き起こす可能性が指摘されています。
ちなみに、「ハラスメント(harassment)」は、公的な場所での「嫌がらせ」「執拗な行為」という意味で、日本でもそうした使われ方をしますが、イギリスなどでは、ハラスメントとほぼ同じ言葉として、個人に対する深刻な害を表す「虐待(abuse)」という言葉が使われることもあるほどです。
当然ながら、虐待を受けた場合も、脳の発達に深刻な影響を及ぼします。
■「脳の司令塔」前頭前野が衰えていく
では、いったいどのような人がハラスメントをしてしまうのかというのは、多くの人が興味を持つトピックだと思われますが、現段階ではハラスメントをする人の脳の変化を直接研究したものはありません。
そこで、脳や行動変化に関する種々の研究から、可能性のある要因を推測すると、まず高齢者がしがちであることは考えられます。
その理由はいくつかあり、まず加齢に伴い、前頭前野の機能が低下しやすくなるからです。前頭前野は、抑制や判断、社会的行動のコントロールなどの認知機能を司っており、この部位の機能低下によって、衝動的な行動や不適切な言動を抑制することが難しくなる場合があります。
また、認知機能が低下すると、状況の理解や他者への共感が難しくなりますから、意図せず他者を傷つける言動をすることがあるでしょう。さらには、過去の出来事や感情が歪んで記憶されることで、攻撃的な言動につながる可能性もあります。
■「ハラスメント気質の人」3つのタイプ
もうひとつ考えられるのは、パーソナリティ特性としてハラスメントをしやすい人がいるという説明です。
例えば「社会的支配志向性」が高い人は、社会における階層構造や権力の不平等を肯定的に捉え、それらを維持または拡大する行動を支持する傾向があるわけですから、そうした人たちはハラスメントをしやすい傾向があると仮定することはできます。
また、心理学では「ダークトライアド」という概念があります。
ナルシシズムなら、過剰な自己評価や、他人の感情や意見を軽視する自己中心的な特質があり、マキャヴェリズムは、目的のためには手段を選ばず、他人を利用するような特質があります。サイコパシーは、共感能力が著しく低く、感情も乏しくて罪悪感や後悔を抱きにくい特性があります。
これらダークトライアドの傾向が強い場合には、対人関係において、ハラスメントや虐待といった社会的に望ましくない行動と関連づけられることがあります。
もちろん、そうした特性を持つ人すべてが悪人であるわけではなく、程度や表れ方は個人によって、また状況によっても異なることには注意が必要です。
■スルーせずに声を上げれば社会が変わる
ハラスメントに対しては会社や組織などが対策していくのはもちろんですが、目が届きにくい場合もあり、やはり自分自身で防御していく姿勢が重要になります。よく、「すぐその場から離れる」などといわれますが、現実的にはそれぞれ簡単に仕事を辞められない事情もあり、実際にはなかなか難しい問題です。相談できる人や組織を頼りながら、自ら勇気を持って各所に訴えることも必要なのだと思います。
個人的にいつも感じるのは、それこそ数十年前には、会社や学校であたりまえのように行われていたハラスメントは、いまの感覚で振り返ると明らかに行き過ぎであるにもかかわらず、当時は総意としてそこまでは思われていなかったという事実に対する驚きです。
ということは、いまの感覚で「このくらいはいいだろう」と思っていることが、数十年後には「それは行き過ぎでしょう」と考えられる可能性もかなり高いといえるはずです。その意味では、たとえそのときすぐに変化が起こらなくても、長い期間にわたって当事者一人ひとりが訴えてきたから、このような社会に変わってきたということです。
だからこそ、「まわりにいってもなにも変わらない」「かえって負担が増して損をする」「逃げたほうが早い」などと思ったとしても、あえてハラスメントを見過ごさず、訴えていく姿勢はとても重要なのだと考えます。
■文末の「。」に恐れおののく若者
一方、最近ではハラスメントの閾値が低くなっている面があるのも事実です。ハラスメントは個人の対応だけでは限界もあるため、企業や組織が抜本的な対策をする必要がありますが、昨今はなんでもかんでもハラスメントになってしまう風潮を感じている人は、意外と多いのではないでしょうか。
わたしが属するアカデミアの世界でも、いわゆる「アカハラ」をはじめ、種々のハラスメントの観念が非常に薄い人がいまだにたくさんいます。その一方で、若い世代のなかには「マルハラスメント」などがいわれるほど、ハラスメントの閾値が下がっているように感じられる風潮が見られます。
ちなみに、マルハラスメントは、SNSなどで中高年から送信されるメッセージの文末に句点がつくこと(「了解です。」「わかりました。」など)に対し、若者が威圧感や恐怖心を感じることです。そこで、中高年は、「若者に送るときは文末に絵文字を使いましょう」とアドバイスされることになるわけですが、そんな現状を見ると、「これは、どうすればお互いにいい着地点が見つかるのだろうか……」と思うときがあります。
■ハラスメントを恐れて叱れない大人たち
学校の先生や会社の上司が、若い世代に対してまったく注意できなくなっている現状も見過ごせません。それはやはり、なにかいえば気づかないうちにハラスメントとみなされる可能性があるために、叱るに叱れなくなってしまうからでしょう。
また、叱られた回数が少ない人が先生や上司になると、そもそも部下や生徒に対する叱り方がよくわからなくなる場合も増えています。
当然ですが、個人の心身をひどく傷つけるハラスメントは言語道断です。ハラスメントを許さないのは、個人主義の流れのなかで育まれてきた、個人の幸せを重視するという価値観に資するものです。
ですが、そこには反面デメリットもあるでしょう。
■叱られない社会が生み出す最悪の未来
「心身の苦しみは人それぞれ違う」「第三者がハラスメントの基準や境目を決めるべきではない」という考え方もよくわかります。
でも、わたしが危惧するのは、その傾向が行き過ぎると、もともとポテンシャルが高く、注意されなくても、自分の力で間違いや失敗に気づいていける人たちだけが社会の上に立つようになるということです。
誰かに教えてもらうことで新たな視点を持てる可能性があった人たちが、必要な教育を受けられなければ、いわれなくても努力でき、もともと打たれ強く、気が強かったり、あるいは要領がよかったりする人たちだけが能力を発揮できて、そうでない人たちはこぼれ落ちていく社会になる可能性が高くなります。そんな生来の特性による二極化が起こってしまうのが、本当に恐ろしいことでしょう。
これまで理不尽な教育者もいっぱいいたわけで、駄目なものは明確に駄目としながらも、ハラスメントと教育的注意をきちんと分けて考えていく必要もあると考えています。
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細田 千尋(ほそだ・ちひろ)
東北大学 大学院情報科学研究科人間社会情報科学専攻 及び 加齢医学研究所脳科学部門認知行動脳科学研究分野 准教授
東京医科歯科大学大学院医歯学総合博士課程修了。博士(医学)。JSTさきがけ研究員、東京大学大学院総合文化研究科特任研究員などを経て現職。内閣府ムーンショット型研究目標9プロジェクトマネージャー、ウェルビーイング学会理事、Editorial bord member of Frontiers in Computational Neuroscience、仙台市教育局学びの連携推進室学習意欲の科学的研究に関するプロジェクト委員会委員、日本ヒト脳マッピング学会広報委員、国立大学宮城教育大附属小学校運営指導委員などを務める。
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(東北大学 大学院情報科学研究科人間社会情報科学専攻 及び 加齢医学研究所脳科学部門認知行動脳科学研究分野 准教授 細田 千尋)