米議会が出資するラジオ・フリー・アジア(RFA)は昨年、北朝鮮がかつて制作した金正恩の母・高英姫(コ・ヨンヒ)を称える宣伝フィルムを秘密裏に回収したと報じた。なぜ今、北朝鮮は“偉大なる母”の映像を封印しようとしているのか。
海外メディアはこの動きを、「金正恩体制を根底から揺るがしかねない最大の“国家機密”が動いた証」と見る――。
■偽造パスポートで訪れた東京ディズニーランド
北朝鮮が「反日」を国是とし、日本を最大の敵として国民教育にいそしんでいた1990年代初頭。ところが、最高指導者の一家は密かに「敵国」を楽しんでいたようだ。1991年には東京ディズニーランドを訪れ、母子旅行を満喫している。
後に北の指導者となる金正恩は、母・高英姫に連れられ、用意した偽造ブラジルパスポートで日本に入国。母子で千葉の東京ディズニーランドを訪れると、7歳の少年は3Dアトラクションにすっかり夢中になった。
通常の親子連れならば、せいぜい帰りに園内のショップへ足を運び、土産物を買い込むことだろう。だが、指導者一家の発想は違った。米ワシントン・ポスト紙によると当時39歳の高英姫は、息子を虜にしたイスごと動く3Dアトラクションに注目。自国に持ち帰れないかと考えたという。
同紙は、「彼女らはそれをとても気に入ったので、高英姫は側近にその価格について調査するよう命じた。彼女は子供たちのため、北朝鮮に持ち帰りたかったのだ」と伝えている。
しかし、価格を聞いた高英姫は息を呑んだ。北朝鮮の最高権力者一家にとってさえ、それは手の届かない値段だったのだ。
彼女らは東京旅行で、ディズニーランドだけでなく、銀座での買い物も楽しんだ。当時から世界的に名の知れた高級ショッピング街であった銀座を練り歩き、美容室では日本人スタッフを呼び止め髪をセットしてくれるよう頼んだ。自国の政権が表向きには「帝国主義的侵略者」の烙印を押している日本だが、そこでの時間をずいぶんと楽しんだようだ。
平壌の豪華な邸宅へと戻り、旅行から何年経った後も、母子は東京での一日を懐かしむように語り合ったという。ワシントン・ポスト紙は「彼らは何年も後になっても、東京ディズニーランドへの旅行と、乗ったあらゆる乗り物について話し、どれが一番楽しかったかを決めようとしていた」と伝えている。
日本人なら比較的気軽に足を運べるディズニーランドも、お忍びで訪れた「敵国」の為政者一家にとっては、一世一代の忘れられない思い出となった。
■大阪・鶴橋の少女「高田姫」
東京ディズニーランドに惚れ込むほど日本を愛した母・高英姫。しかし、彼女の日本との深い縁は、北朝鮮では決して公にできない「国家機密」だった。その秘密の源は、大阪・鶴橋での幼少期にある。
高英姫は1952年6月26日、大阪の鶴橋で生まれた。
アジアプレスによる北朝鮮専門サイト「リムジンガン」は、彼女が日本名「高田(たかだ)姫(ひめ)」として大阪の公立小学校に通い、毎週日曜日には教会の聖歌隊で賛美歌を歌っていたと幼少期を振り返る。幼い頃から「歌うことが大好きだった」という。4歳下の妹・英淑(ヨンスク)と共に、高家の姉妹は大阪の下町にすっかり溶け込んでいた。
二人の父親である高京澤(コ・ギョンテク)は、1929年に韓国の済州島から大阪へ移住してきた人物だ。ワシントン・ポスト紙は別記事で、当時大阪では韓国人コミュニティが急速に拡大しており、彼もその一員として暮らしていたと伝えている。
運命の歯車が動き出したのは1962年、高英姫が10歳になった年だった。6月、当時10歳だった英姫たち一家は、在日朝鮮人として暮らしていた日本を離れ、北朝鮮へ帰国。北部・清津(チョジュン)港へ向けて日本を発った。
■「日本出身は最下層になる」
幼少期を過ごした日本での経緯は、後に北朝鮮で国家機密となる。米議会が出資するラジオ・フリー・アジア(RFA)は、北朝鮮当局が高英姫の出自に関する情報を徹底的に隠蔽していると報じた。
ほとんどの北朝鮮国民は、彼女の日本名「高田姫」を知らないばかりか、本名の「高英姫」すら知らない。大阪で生まれたことはおろか、父親の高京澤が第二次世界大戦終結の直前に大阪で軍需工場を営んでいたことまで、何もかもが隠蔽されている。

北朝鮮専門サイト「NKニュース」は、高英姫が日本出身であることが明らかになれば、北朝鮮の身分制度「成分」での扱いとして、彼女の位置づけは最下層にならざるを得ないと指摘する。成分制度とは、出身や家族背景で国民を階層分けする北朝鮮独自の身分制度で、日本出身者は「敵対階層」として最下層に位置づけられる。NKニュースは出自の隠蔽の理由として「彼女の背景は、国家が掲げる革命的な理想とはかけ離れたものだった」ためだと分析している。
毎週日曜に教会で賛美歌を歌い、「高田姫」として友達と遊んだ大阪の少女。その平凡な日常は、特に息子が最高指導者となった今では、北朝鮮最大のタブーとして封印されている。
■革命神話にとって「不都合」
高英姫が生涯隠し続けた秘密は、彼女自身の出生だけではなかった。彼女の父・高京沢の経歴もまた、北朝鮮の「革命神話」にとって都合の悪いものだった。済州(チェジュ)島から大阪へ渡り、日本の戦争に協力し、戦後は密輸に手を染めた男だ。
アジアプレスによると、高京沢は、第二次世界大戦中、日本の軍需工場で汗を流していた。工場労働者として日本に強制的に働かされていた説と、工場管理者の立場から自発的に協力した説とがある。いずれにせよ、まさかこの経歴が娘の運命に暗い影を落とすことになろうとは、当時の彼には知る由もなかった。
労働に精を出すだけでなく、戦後は違法ビジネスにも手を染めたという。
ワシントン・ポスト紙は、「彼は大阪と済州島を結ぶ違法な船を運営していたとされ、国外追放を命じられた」と報じている。さらに、女性問題もあったと。記事は「高京沢は女たらしで、異なる愛人との間に複数の子供がいたとも言われている」と当時の事情を伝えている。
■「地上の楽園」を目指した親子
違法ビジネスと女性問題の発覚、そして迫り来る警察の影。追い詰められた高京沢に残された手段は限られていた。すなわち、北朝鮮への移住だ。ワシントン・ポスト紙は「こうした他の女性との関係を断ち、窮地から脱するため、高京沢は日本から逃げ出すことを決めた」と伝えている。
折しも1950年代末から、北朝鮮は在日朝鮮人の「帰国」を奨励していた。当時、在日朝鮮人の多くが日本社会で差別と貧困に苦しんでいるとして、北朝鮮が彼らをターゲットとした巧妙な宣伝工作を仕掛けていたのだ。
アジアプレスは、当時の北朝鮮の宣伝について詳しく書いている。「移住希望者に対し、北朝鮮は社会主義の地上の楽園だと喧伝された。無料の住宅、教育、医療を提供し、仕事が保証され、日本で耐えていた偏見に苦しむことのない国だと」。
1959年から1965年の間に、約9万3000人が「地上の楽園」という甘い言葉に誘われ、日本海を渡った。その多くは、二度と日本の地を踏むことはなかった。
警察から逃れるため、父に手を引かれて乗り込んだ移住船。10歳の少女には、それがほぼ運命の片道切符になるとは知らなかった。これを機に、大阪の密輸業者に生まれた娘は、やがて平壌の宮殿へ迎えられ、独裁者の子を産むことになる。北朝鮮史上、最も数奇とも言うべき運命の物語が、清津港から始まろうとしていた。
■1973年の日本公演で貴重な笑顔の写真を残した
清津港に降り立ってから11年。月日は流れ、かつて大阪で「高田姫」を名乗っていた少女は、今や平壌の名門・万寿台芸術団で脚光を浴びる花形ダンサーになっていた。1973年夏、当時21歳の彼女に思いがけない機会が訪れる。芸術団の日本公演だ。それは、彼女の人生で最後の日本への「里帰り」となった。
日本公演は1973年7月から9月にかけて行われた。
毎日新聞英語版は「彼女は東京、名古屋、大阪、その他の日本各地での公演に参加した」と伝えている。2018年4月、45年の時を経て、このときの写真が発見されている。発見された写真は意外にも公演中のものではなく、「公演の合間の自由時間に日本で撮影された」もので、「写真には、平服を着て微笑む高英姫が写っている」と毎日新聞は伝えている。北朝鮮の宣伝写真とは違う、21歳の若い女性の自然な笑顔がそこにある。
写真が本物かどうか確かめるため、毎日新聞は専門家に鑑定を依頼した。複数の写真を本物の写真と比較して人物の身元を確認する「重ね合わせ法」を専門とする東京歯科大学の教授に検証を依頼した結果、「新たに発見された写真の人物は高英姫と同一人物である」との結論が得られたという。
大阪公演の観客はおそらく、舞台で踊る美しいダンサーの一人が、かつて鶴橋の教会で賛美歌を歌っていた「高田姫」だということは夢にも思わなかっただろう。そして高英姫自身も、この日本公演が彼女にとって最後の故郷の訪問になることを予見していなかった。2年後、金正日の愛人となった彼女は、二度と日本の地を踏むことはなかった。
■万寿台芸術団のダンサーから独裁者の愛人へ
1973年の日本公演から平壌に戻った高英姫を、運命の出会いが待っていた。
NKニュースによると、万寿台芸術団の美しいダンサーたちは、しばしば金正日が開催する酒宴に誘われていた。当時、金正日は朝鮮労働党中央委員会の文化芸術部門を統括しており、万寿台芸術団も彼の管理下にあった。
同団所属の別のダンサーによる回想録を、NKニュースが取りあげている。それによると金正日は、高英姫に夢中だったという。パーティーで隣に座るよう求めたこと、さらに彼女の練習を見るためにしばしばリハーサル室に来るようになったことなど、回顧録には当時の生々しい経緯が記されている。
惹かれ合う二人が結婚に至ったのは、高英姫が23才になった1975年前後のことだ。コリアヘラルドが指摘するように、二人は最後まで公式な婚姻関係にはなかった。しかし二人の子として、1981年に長男の正哲(ジョンチョル)、1984年に次男の正恩、1987年に長女の与正(ヨジュン)が誕生している。大阪生まれのダンサーは、いつしか北朝鮮の最高権力者の母としての人生を歩み始めていた。
■日本人寿司職人との奇妙な関係
1990年頃になると、高英姫は金一族の邸宅に仕えていた一人の日本人と急接近する。寿司職人の藤本健二だ。藤本健二は通り名であり、本名は明かされていない。米ニューズウィーク誌は、この奇妙な関係の始まりを詳しく報じている。
金一族の邸宅の一角に設けられた、ビリヤード台。6歳の金正恩がその傍らに立っていると藤本が通りかかり、二人の初めての出会いとなった。幼い金正恩の瞳に宿ったのは、6歳児とは思えない敵意だったという。「忌まわしき日本人」と言わんばかりの鋭い目つきで藤本を睨みつけた。子供が40歳の男を睨みつけることにショックを受け、恥ずかしさすら覚えたという。
だが、二人の関係は思わぬ方向へ舵を切る。ある日、藤本が邸宅の巨大な庭で凧を揚げていた時のことだ。ワシントン・ポスト紙によると、これを見た高英姫が気に入り、「良いわね。藤本のおかげで凧が高く揚がっているわ」と息子たちに語りかけた。わずか約1カ月後、藤本は金正恩兄弟の「遊び相手」に抜擢される。
幼少期を過ごした日本の文化を感じさせる藤本に、高英姫は愛息を任せるに足る信頼を感じていたのかもしれない。
■高英姫の最後の、最大の野望
息子を「生きた神」に仕立て上げる。それが高英姫の最後の、そして最大の野望だった。
ワシントン・ポスト紙は2016年5月、金正恩の叔母である高英淑がアメリカ亡命後に行った証言を掲載している。証言によると金正恩の威厳は政府高官の間にも轟いており、「1992年に迎えた8歳の誕生日から、高位の幹部でさえも彼を見るたびに頭を下げ、敬意を表していた」という。
その日を境に、少年は人間ではなく、崇拝の対象となった。叔母はさらに、「周りの人々がそのように扱っているため、その少年が普通の子供として成長することは不可能だった」とも述べている。8歳から早くも未来の独裁者への道を歩んでいた。
子供の頃、ミニサイズの軍服を着た金正恩は、周囲から「半神」とあがめられ育ったという。両親は政権内のスタッフに、金正恩が望むことならあらゆる要求に応えるよう指示していた。
「半神」として息子を育て上げた母は、2004年5月24日、異国パリの病床で静かに息を引き取った。享年52歳だった。大阪で生まれ、平壌で権力者を魅了し、パリで死んだ。国境を越えて生きた人生だった。
韓国中央日報英語版は、彼女の墓について詳しく伝えている。平壌中心部の凱旋門から北東に8キロメートル行くと、日本統治時代の戦死者を埋葬した革命烈士陵に行き当たる。彼女は今も、その付近に眠っているという。墓碑には「偉大な先軍朝鮮の母、同志高英姫」と刻まれている。
■“偉大な母”は死後、北朝鮮の不都合な真実となった
死後、高英姫はみるみるうちに神格化されていった。2011年には『偉大な先軍朝鮮の母』と題するドキュメンタリー映画が制作された。しかし、NKニュースによると、この映画は一般公開されず、高位の幹部にVCD(ビデオコンパクトディスク)が配布されたのみとなっている。
だが、神格化された高英姫の生涯は、国家の根幹を揺るがす致命的な矛盾を抱えていた。「偉大な母」の正体が大阪生まれの在日朝鮮人だという事実は、北朝鮮の建国神話に致命的なダメージを与えかねない。金正恩が権力を固めるにつれ、この矛盾は無視できなくなっていった。
ラジオ・フリー・アジアによると昨年6月、北朝鮮は金正恩の母・高英姫を称賛した2011年のドキュメンタリー映画の回収に踏み切った。
生前は息子を「半神」に仕立て上げ、死後は自らも「偉大な母」として祭り上げられた高英姫。だがその栄光は、蜃気楼のようにもろかった。ドキュメンタリーの回収は、北朝鮮体制が今も彼女の出自が広まることを恐れている事実を物語っている。死後20年を経てなお、北朝鮮内では金一族にとって「不都合な真実」として伏せられている。

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青葉 やまと(あおば・やまと)

フリーライター・翻訳者

1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。

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(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)
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