■法律上、ペットは「物」に分類される
もし、愛犬や愛猫が、他人の過失によって突然命を奪われたら――。その悲しみは、単なる「所有物」を失った時の落胆とは、まったく質の異なるものでしょう。
多くの飼い主にとって、ペットはかけがえのない家族の一員です。しかし日本の法律では、ペットを含む動物は依然として「物」として分類され、故意に傷つけた場合は「器物損壊罪」に該当するなど、飼い主の感情や社会の実態に十分に応えられていません。
2025年、米国ニューヨーク州で、このギャップを埋める可能性のある画期的な判決が下されました。横断歩道で車にはねられて死亡した4歳のダックスフント「デューク」の死を目撃した飼い主が、車の運転手に損害賠償を求めた裁判で、裁判所はその犬を「直系の家族の一員(immediate family)」と認定したのです。
これは、法が社会の価値観の進化に歩調を合わせた歴史的な一歩でした。
※Brooklyn judge rules pet dogs are family members. Gothamist.
■多くの人が家族の一員と思っている現実
歴史的な判断の舞台裏には、飼い主のナン・デブレイズ氏の悲痛な訴えと、法と社会通念の乖離(かいり)を埋めようとする専門家たちの粘り強い活動がありました。
原告が求めたのは、ペットの市場価値の補償ではなく、家族を失ったことによる耐え難い精神的苦痛に対する損害賠償(Negligent Infliction of Emotional Distress, NIED)でした。
これに対し、被告側はニューヨーク州の長年の判例を盾に「動物は法的には『動産(chattel)』、つまり所有物であり、財産の喪失から生じる精神的苦痛への賠償は認められない」と訴えの却下を求めました。たしかに、これまでは米国でも、人間の家族に関する損害賠償のみ認められてきました。
この法廷闘争で重要な役割を果たしたのが、動物の法的地位向上を目指す団体「非人間的権利プロジェクト」(Nonhuman Rights Project, NhRP)です。同団体は、現代社会において犬はもはや単なる「物」ではなく、家族の一員として扱われている現実を、法が直視すべきだと訴えました。
キングス郡最高裁判所のアーロン・D・マスロー判事は、この主張を広範に引用し、「融通の利かない判例に固執することは、社会規範と法の一致を妨げる」と指摘。犬を「直系の家族の一員」と認め、社会規範の進化に合わせ動物の法的地位も進化するべきだと判断しました。
■ペット先進国ドイツが抱える「矛盾」
今回の判決が画期的なのは、その戦略性にもあります。原告側は「動物に人権を」という急進的な主張ではなく、裁判所が扱い慣れた「人間の精神的苦痛への賠償」という既存の法的枠組みの中で、動物の価値を問い直しました。そのため、大きな抵抗なく受け入れられ、結果として動物の法的地位を漸進的に向上させる、現実的かつ効果的な道筋となったのです。
この判決は、他の裁判所を法的に拘束するものではありませんが、今後の類似裁判に強い影響を与える「説得的判例」となり、米国内外の法制度に波紋を広げるでしょう。
一方、動物福祉先進国とされる欧州諸国は、それぞれ異なるアプローチでこの難題に取り組んでいます。
ドイツは、動物の法的地位を向上させるため、国の根幹である民法典そのものに踏み込んでいます。ドイツ民法典第90a条は「動物は物ではない(Tieresind keine Sachen)」と明確に宣言しています。
つまり、理念上は「物ではない」としながらも、売買や損害賠償といった具体的な法適用場面では、依然として財産と同様の扱いを受けるという、理念と実務の間の乖離が残っています。この「原則と現実のギャップ」は、民法典の改正という大きな一歩を踏み出してもなお、課題が残ることを示唆しています。
■イギリスの動物福祉法のアプローチ
イギリスは、より現実的なアプローチをしています。2022年に制定された「動物福祉(センティエンス)法」は、動物が喜びや苦痛を感じる「感覚ある存在(sentient beings)」であることを法的に承認しました。
独立した専門家で構成される「動物センティエンス委員会」の設置を義務付け、政府のあらゆる政策(農業、都市開発、環境政策など)が立案・実施される際に、「感覚ある存在としての動物の福祉に妥当な配慮が払われているか」を監視し、議会に報告する役割を担っています。
これは、動物の法的地位そのものを「物」か「人」かという二元論で争うのではなく、あらゆる政治的意思決定のプロセスに「動物福祉」という視点を制度的に組み込むというアプローチです。法的対立を避けつつ、実質的な配慮を促すこの手法は、長期的に見て、より広範で着実な福祉向上をもたらす可能性があります。
■飼い主としては納得できない民法規定
他にも、フランスが民法を改正し、動物を「動産」から「感受性のある生き物」へと分類を変更したり、スイスが憲法で「生き物の尊厳」という極めて高い理念を掲げたりと、各国のアプローチは多様です。
これらの比較から見えてくるのは、「動物は物ではない」という理念を法に明記するだけでは不十分であり、それを実効性のあるものにするための具体的な法整備や、イギリスのような制度的仕組みが不可欠であるという事実です。
日本では、ペットの地位を考える上で根源的な制約となっているのが民法の規定です。民法第85条は「この法律において『物』とは、有体物をいう」と定めており、ペットを含む動物はこの「物」に含まれると解釈されています。
この分類は、ペットが死傷した場合の損害賠償を、市場価格や再取得価格といった財産的価値を基準に算定するという、飼い主の感情とはかけ離れた結論を導き出してしまいます。
■「命」として保護する法律とのねじれ
この民法の枠組みの上に、特別な保護を与えるために制定されたのが「動物の愛護及び管理に関する法律」(動物愛護管理法)です。この法律は「動物が命あるものである」という認識に立ち、飼い主の責務や動物取扱業者の規制、虐待や遺棄に対する罰則を定めています。
近年の改正により、虐待に対する罰則は大幅に強化され、殺傷の場合は最大で5年の拘禁刑が科されるようになりました。また、生後8週齢に満たない犬猫の販売禁止(8週齢規制)、飼養施設の広さや従業員一人当たりの飼育頭数などを明確にした数値規制、販売業者へのマイクロチップ装着義務化など、保護水準は着実に向上しています。
しかし、こうした保護規定も、あくまで民法における「物」という土台の上に築かれた上部構造にすぎません。この「二層構造」こそが、日本の法制度が抱える「ねじれ」の正体です。
一方の法律(民法)は動物を「物」として扱い、もう一方(動物愛護管理法)は「命」として手厚く保護しようとする――。この矛盾が、現実社会で多くの問題を引き起こしているのです。
■ぺットの「慰謝料」は増えているが…
この法的な「ねじれ」に対し、日本の裁判所は長年、いわば「司法的なパッチワーク(つぎはぎ)」で対応してきました。原則として「物」の損壊では認められにくい精神的苦痛への賠償、すなわち「慰謝料」を、ペットの死傷事例においては例外的に認める判例を積み重ねてきたのです。
図表1は、その判例の変遷を示したものです。
この表が示すように、1961年にはわずか1~3万円だった「慰謝料」は時代とともに増額され、2008年には40万円という判例も出ました。司法がペットの感情的価値をより重視するようになったことは明らかです。
しかし、これらはあくまで個別事案での例外的判断の積み重ねに過ぎず、制度としての抜本的な解決には至っていません。
■悪徳ブリーダーによる虐待に介入できず
法制度が抱える「ねじれ」は、動物虐待の緊急保護など実務面で深刻な障害を生みます。民法上の所有権と、動物愛護管理法に基づく福祉保護のどちらを優先するかが明確でないため、救えるはずの命が救えない事態が起こるのです。
その典型が、2021年に発覚した「アニマル桃太郎事件」でした。長野県松本市の劣悪な環境の繁殖施設で、約1000匹もの犬が放置されていたこの事件は、社会に大きな衝撃を与えました。しかも、この事件の発覚時期は、飼養管理基準を厳格化する数値規制などが盛り込まれた改正動物愛護管理法が施行された直後でした。
※参考記事〈「犬1000頭がケージにぎゅう詰め」利益のために虐待を繰り返す“悪徳ブリーダー”が減らないワケ〉
法律が強化されたにもかかわらず、なぜ行政は迅速に介入し、動物たちを救い出すことができなかったのでしょうか。
その背景には、日本の法制度が抱える二つの致命的な欠陥があります。
第一に、「緊急一時保護制度」が存在しないこと。虐待が明らかでも、その動物は飼い主の「所有物(財産)」であるため、許可なく行政が強制的に保護(押収)することが極めて困難なのです。
第二に、「飼育禁止命令制度」がないこと。たとえ虐待で有罪となっても、その人物が再び動物を飼育することを禁止できません。これでは、再犯防止は望めず、新たな犠牲を招きかねません。
この事件は、法律が強化されても実効性のある執行手段が伴わなければ、大規模な動物虐待は防げないという厳しい現実を突きつけました。所有権が動物の生命より優先されるという本末転倒な状況を放置しないため、動物愛護団体や多くの自治体が具体的な法改正を強く求めています。
■「アメリカの話」で終わらせてはいけない
米ニューヨーク州の裁判所が下した、犬を「家族」と認める画期的な判決。それは、遠い国の特殊な事例ではなく、ペットと人間の関係性が世界中で進化していることを示す普遍的な道しるべです。この判決は、法が社会の価値観の変化にどう応えるべきかという、根本的な問いを私たちに突きつけています。
日本の法制度の「ねじれ」を解消することは、単に動物に優しくするためだけの課題ではありません。次世代にどのような価値観を引き継ぎ、どのような社会を築くのかという、私たち自身のあり方に関わる問題です。
動物の法的地位を民法の枠組みから見直すことは、人と動物が真に共生できる社会を実現するための不可欠なステップといえます。
■法律が社会の心に追いつく未来に向けて
この変革を実現するには、立法府、司法、そして市民社会がそれぞれの役割を果たしながら連携し、動物の福祉と権利をより尊重する法制度を構築していく必要があります。
立法府は、動物を「物」とする現行の民法規定を再検討し、所有権と生命保護のバランスを見直す法改正に踏み切るべきです。司法は、個別の判例を通じて社会の意識変化を汲み取り、その動きを立法に促す役割を果たさなければなりません。そして市民社会は、日常の飼育や活動を通じて、動物を家族として扱う価値観を広く社会に浸透させていくことが求められます。
米ニューヨーク州の判決は、こうした取り組みの方向性を示す象徴的な事例です。社会の価値観はすでに変わり始めています。あとは法がその変化に追いつき、形として定着させることができるかどうかです。動物を「家族」として扱う社会を本当に実現できるかは、今を生きる私たち一人ひとりの選択と行動にかかっています。
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阪根 美果(さかね・みか)
ペットジャーナリスト
世界最大の猫種である「メインクーン」のトップブリーダーでもあり、犬・猫などに関する幅広い知識を持つ。家庭動物管理士・ペット災害危機管理士・動物介護士・動物介護ホーム施設責任者。犬・猫の保護活動にも携わる。ペット専門サイト「ペトハピ」で「ペットの終活」をいち早く紹介。テレビやラジオのコメンテーターとしても活躍している。
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(ペットジャーナリスト 阪根 美果)