朝ドラ「あんぱん」(NHK)では、やなせたかし氏をモデルとする嵩(北村匠海)が詩集を出した。ライターの田幸和歌子さんは「やなせ氏の自伝などを読むと、妻夫木聡氏演じる八木のモデルがサンリオの創業者・辻信太郎会長であり、辻会長がやなせ氏の詩にいかにほれ込んでいたかがわかる」という――。

■八木のモデルはサンリオ辻信太郎会長か
「あんぱん」の第21週、第22週では、嵩(北村匠海)と軍隊時代の先輩・八木(妻夫木聡)が会社を設立し、嵩の詩を商品化して成功を収める展開が描かれた。
1964年(昭和39年)、八木は「九州コットンセンター」を設立。最初のヒット商品は花のついたビーチサンダルで、もともと八木が孤児院の子どもたちにプレゼントしていたものを商品化したものだった。
そこから八木は、嵩が自費出版で制作した『ぼくのまんが詩集』を読み、その詩の才能を見抜く。八木のアイデアで嵩の詩とイラストを湯飲みなどの陶器に焼き付けた商品を販売したところ、大ヒットに。さらに嵩の才能を確信した八木は、九州コットンセンターに出版部を新設、嵩に詩集の出版を提案する。こうして出版された詩集『愛する歌』は予想を大きく上回るヒットとなり、第二集の刊行も決定する。
この「九州コットンセンター」のモデルは、後のサンリオの前身「山梨シルクセンター」、八木のモデルとなった一人はサンリオ創業者の辻信太郎氏(現・名誉会長)と考えられており、8月25日放送分ではタイトルバックの資料提供元に「サンリオ」の文字が入ったことも話題になっていた。

【参考記事】「朝ドラ「あんぱん」で妻夫木聡が演じる八木のモデルは…やなせたかしを「リンチの嵐」から救った恩人の実像」
■ニヒルな八木がなぜファンシーグッズを販売?
ところで、ドラマでは八木は第50話、嵩が配属された小倉連隊で上等兵として初登場。出会い頭に怒号を飛ばしたが、兵舎などでは決して暴力を振るわず、いじめられていた嵩を救ってくれた人物で、文学を愛する人でもあった。戦後には闇酒で蓄えた資金を使い、ガード下の子どもたちに食べ物と教育・居場所を与えており、そうした活動が「九州コットンセンター」に結びついていったのは、自然な流れだろう。
だが、戦地にいた頃のミステリアスでシブい八木像と、お花をつけたカラフルなビーチサンダルなど、ファンシーな「かわいい」をたくさん生み出す八木像にギャップを感じた視聴者もいたはずだ。

実際の辻信太郎とはどんな人物なのか。
辻は1927年12月7日、山梨県甲府市生まれ。ドラマでは八木がかなり年上だが、実際には1919年2月12日生まれのやなせより8歳年下である。
ドラマでは嵩の妻のぶ(今田美桜)の妹、蘭子(河合優美)と八木の間に恋愛感情が生まれつつあるが、これももちろんフィクションであろう。
■朝ドラとは違う、実際の辻社長との出会い
やなせたかしの自伝『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)によると、辻との出会いは、1965年6月。やなせはミュージカルの舞台装置、「手のひらを太陽に」の作詞のヒット、NHK「まんが学校」の先生役での出演など、多岐にわたる仕事で多忙を極める中、持病の腎臓結石が再発。自信喪失に陥っていた頃、「みわ工房」の三輪宏氏という男性が訪ねてきて、「陶器」に絵や詩を描く仕事を依頼される。その後、円筒状のボール紙に絵や詩を描くチャイムが大ヒットするが、本業はふるわず、心は晴れない状態が続いていた。
一方で、ラジオドラマ用に作っていた自作の詩がたまり、自費出版を考えるやなせが、陶器展で名刺交換をしたのが、当時社員6人程度の「山梨シルクセンター」の辻信太郎社長だった。同書でやなせは次のように振り返っている。
「山梨県の人だから、『山梨』はわかるとしても『シルクセンター』は意味不明。別に絹を扱っているわけでもない。
会社そのものも何をやっているのかよくわかりません。手当り次第なんでもという感じで、ハンカチもあればサンダルもある。お菓子のケースもつくっていました。人形なんかの形で、中にキャンディを入れる。そのデザインを依頼しにきたわけです。頼みに来た辻さんもヘンだけれど、ぼくの方も『困ったときはやなせさん症候群』の便利屋だから、ほとんど断ることはありません。このときも麦ワラ帽子の形をした飴玉入れなんかをデザインしました」
■やなせの詩集を出すため、サンリオに出版部が
ドラマでは、嵩の詩にほれ込んだ八木が出版部を立ち上げる。しかし、実際にはやなせが自費出版するつもりだった原稿を見せたところ、「出版して書店で売りましょう。任せてください」と言い、社員や銀行の反対を押し切ったようだ(『人生なんて夢だけど』)。
ちなみに出版部員は当時、青山学院大学出身の伊藤という青年たったひとり。出版物の取次会社・東販(現トーハン)の社員は、出版のことを何も知らない辻にあぜんとし、「あなたみたいな人に初めて逢った」と親切に流通の仕組みなど教えてくれたと言う。
かくして処女詩集『愛する歌』は自費出版ではなく、山梨シルクセンターから出版された。
本が刷り上がると、銀座四丁目の「クレイン」という雑貨店の軒先で「サイン会」を開催。辻と伊藤がバナナの叩き売りのような調子で詩集を売り、売れ行きは上々。取引のあった「三愛」の女性用下着売り場でもサイン会を行うという恥ずかしさにも耐えた結果、『愛する歌』は版を重ねて5万部のヒットとなる。
■詩集がヒットし、詩の雑誌もサンリオで創刊
さらに『愛する歌』刊行から7年経った頃、やなせは「あまり売れないと思いますが、季刊で、薄い本にして……。ぼくがひとりで作りますし、編集費はいりません」と前置きして、詩の雑誌の刊行を辻に提案。辻はあっさりOKし、120万円(企業物価指数で換算し現在の240万円ほど)をポンと出してくれ、編集もレイアウトも全てやなせ一人で行う『詩とメルヘン』が1973年に誕生する。
「売れない」という予想に反して、創刊号はたちまち完売、5刷りまでいき、2号、3号の好調を受け、月刊となり、2003年8月号の休刊まで30年続き、通算385号を数える長寿雑誌となる。
ドラマの八木と同じく、実際に辻が出版部を立ち上げた理由も、やなせの詩集を出すためだったが、陶器展で出会ったばかりのやなせをなぜ辻はそこまで支援したのか。
ドラマでは、小倉連隊で八木が嵩を助けたのは、嵩が井伏鱒二の詩集を持っていたこと、自分と同じ匂いを感じたことがきっかけとして描かれたが、辻とやなせの接点もやはり「詩」だった。
■やなせと辻社長は元文学青年として意気投合
やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(梯久美子、文春文庫)によると、辻がやなせの陶器展を見に行ったのは、イラストレーター・水森亜土に絵をつけてもらった陶磁器がよく売れたことから。辻は先述の麦わら帽子の形のキャンディ入れを気に入り、世間話をしたところ、辻も詩が好きで、西條八十が創刊した詩誌『蠟人形』を学生時代に愛読していたこと、やなせと同じくらいロマンチストであることがわかったと言う。
二人には他にも共通点がある。

やなせは父を早く亡くしたが、辻は早くに母を亡くす経験をしている。
また、講談社→朝日新聞社に勤務した父の蔵書が豊富にあり、幼い頃からたくさんの本に触れてきたやなせに対し、辻は「料亭 三省楼」という大きな料亭を営む家で何不自由なく育ち、後に文学に傾倒していく。学生時代は、ゴーリキーやアンドレ・ジイド、サルトルなど、当時の文学青年たちが愛読した海外文学を片っ端から読破し、哲学書とも格闘し、中国の古典にも精通していたという辻。しかし、意外にもやなせの詩に惹かれた理由は、日常の言葉で書かれたシンプルきわまりない詩に感動したためだった。『やなせたかしの生涯』には、その一例として「辻のお気に入りの詩」が挙げられている。
「小さなテノヒラでも しあわせはつかめる ちいさなこころにも しあわせはあふれる 私の指をしめらせて こんなに雨はふるけれど にぎりしめた手のなかに ほんのちいさなしあわせがある」(『ちいさなテノヒラでも』より)
■辻は「抒情性がある」とやなせの詩にほれ込む
ドラマでは八木が嵩の詩の魅力について「これはすばらしい叙情詩で、メルヘンだ」と語っていたが、同書ではさらに踏み込んで、辻の心情についてこんな分析をしている。
「現代詩には難解なものが多いが、嵩(編集部註:やなせ氏のこと)に見せてもらった詩にはだれが読んでもすっと心に入ってくる清潔な抒情性があった。辻にはそれが新鮮で、自分の感動を多くの人に伝えたいと思ったのだった」
もう一つ、文学の他にやなせと辻に共通しているのは、戦争体験と強い反戦の思いだ。
東京田辺製薬の宣伝部に入社、図案部の仕事が面白くなっていた1940年1月に召集令状が来て、徴兵検査の末に小倉連隊に入隊したやなせ。それに対し、辻は文学や哲学を学びたい気持ちがあったが、徴兵を避けるために、1945年、群馬県桐生市の桐生工業専門学校化学工業科(現代の群馬大学理工学部)に入学する。
■戦地へ行ったやなせ、空襲を体験した辻
しかし、その年の7月6日深夜、甲府市は大規模な空襲に見舞われ(甲府空襲)、一晩で市内の家屋の3分の2が消失、1127人が死亡する。そのとき帰省していた辻は、9歳下の妹をおぶって火の海を逃げ、間近に迫る火の熱さから、近所を流れていたどぶ川に入り、膝まで水につかりながら懸命に走ったという。
辻の家族は無事だったものの、実家は全焼してしまう。
『NNNドキュメント』(2024年10月6日放送、日本テレビ系)において、辻は当時の体験を次のように語っていた。
「おぶさったような形で死んでいた人がいたんです。その人を起こしたんだ。そうしたらその下に……赤ちゃんがやっぱり死んでいた。きっと赤ちゃんを抱いていたと思うんです。『戦争だからしょうがない』と僕はずっと言われてきた。『戦争はよくない』と言うと、『戦争はしょうがない』と。相手をやっつけるしか自分たちは生きていけない。そんな馬鹿なことはない。それでコミュニケーションの会社をつくっていったんです。サンリオはコミュニケーションの会社なんです」
空襲で焼け野原となった故郷を見て戦争の無意味さを痛感した辻は、世界中の人が仲良く生きていく社会をつくりたいと願い、その理念を体現するキャラクターとして「ハローキティ」を作った。
そして、「みんななかよく」を企業理念とした。
現場を退き、名誉会長となって97歳の今も健在。サンリオ発行の「いちご新聞」は、毎年7月になると、「いちごの王様からのメッセージ」として平和を訴える文章を発信している。
■戦争を生き抜いた者同士の強い絆があった
ちなみに、辻が「山梨シルクセンター」を設立したのは、終戦後、山梨県庁での勤務を経てのことだが、誕生日や記念日などに渡すギフトを扱うようになった由来については、『NNNドキュメント』内のVTRでこう語っている(収録当時56歳)。
「やっぱり親もいないから友達に(家に)来てもらって、友達と話したり、友達のうちに遊びに行ったり、その男の友達にやっぱり自分も好きになってもらいたいと、愛されたいと、小さなプレゼントを贈り合う。高いものでなくていいから、鉛筆1本でも消しゴム1つでもいいから、『あげることによって仲良しの輪を広げていけるよ』と」
「人生は喜ばせごっこ」と言い、新聞の懸賞などでもらった賞金は仲間などに気前よく使い、アンパンマン成功後にはパーティーを全額自腹で度々開き、多くの人にふるまっていたというやなせと、プレゼントをあげることで仲良しの輪を広げていった辻。二人は出会うべくして出会った、同じ匂いのする「同志」だったのだろう。

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田幸 和歌子(たこう・わかこ)

ライター

1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など

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(ライター 田幸 和歌子)
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