江戸時代に起きた「天明の大飢饉」により、全国各地で同時多発的に打ちこわしが発生した。歴史評論家の香原斗志さんは「これをきっかけに田沼意次は失脚となった。
以後、徳川幕府には、田沼のように時代を乗り切る改革を行う人物が登場せず、衰退していった」という――。
■江戸時代における「天災」の意外な捉え方
現在、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で描かれている時代は、天明の飢饉の真っただ中である。江戸時代の三大飢饉のなかで被害がもっとも多く、90万人以上が餓死したとされるこの飢饉は、浅間山が噴火した天明3年(1783)の大凶作を受けて深刻化し、天明8年(1788)まで続いた。
むろん、原因は噴火やそれに続くひどい冷害だった。飢饉を克服する力が政治に欠けていたのは事実としても、それは当時の生産力と幕藩体制の限界であり、特定の政治家のせいだとはいえなかった。
しかし、現実にはその天災が、田沼意次(渡辺謙)の時代から松平定信(井上祐貴)の時代へと転換する契機となり、さらにいえば、良くも悪くも50年にもわたって君臨した11代将軍徳川家斉(城桧吏)の治世の幕開けにつながった。
なぜ、天災が政治的な転換のきっかけになったのか。それは、江戸時代には災害を、天災というよりむしろ人災と見做す傾向があったからである。
■打ちこわしが「田沼おろし」の決定打に
江戸中期の医者の安藤昌益は『自然真営道』などの著書で、「金銀通用」の貨幣経済を動かす商人たちの「利欲」が、災害を起こす邪気を生むと訴えた(菊池勇夫『江戸時代の災害・飢饉・疫病』吉川弘文館)。田沼と同時代を生きた杉田玄白も『後見草』で、世の中の「奢侈」が目に余り「天変地妖」につながった、と同様の認識を示していた。
「金銀通用」や「奢侈」といえば、田沼時代を象徴する語。打ち続く災害や飢饉は「田沼政治が招いたもの」というレッテルが貼られてしまったのだ。
「べらぼう」の第32回「新之助の義」(8月24日放送)にも、そんな状況を象徴する場面があった。
時は天明7年(1787)春。前年8月に10代将軍家治(眞島秀和)が急逝し、後ろ盾を失って老中を辞任し、謹慎を命じられた田沼は、再度登城を許されていた。だが、田沼の差配で米が出されたのを受け、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が新之助(井之脇海)の長屋に米俵と酒を差し入れ、「やはり田沼様ってのは頼りになりますね」というと、長屋住まいの男女から「田沼のどこが頼りになるってんだ」「米を買えなくしたのはあいつじゃないか」などと集中砲火を浴びた。
5月に大坂で打ちこわし(米を買い占めている商人の家屋などを破壊する集団行動)が起こり、すぐに全国に広がった。江戸への波及を恐れた田沼は、「政敵」の松平定信に頭を下げ、5月20日までに定信の領地の奥州白河から御救い米(困窮した庶民救済用の米)を送ってもらう算段を調え、蔦重に頼んで、そう書かれた読売(かわら版)を発行する。
だが、米は届かない。第33回「打壊演太女功徳」(8月31日放送)では、新之助らは米屋を次々と襲撃するが、この打ちこわしが「田沼おろし」の決定打になってしまう。
■田沼失脚後におきた幕府の弱体化
さて、江戸で打ちこわしが起きる1カ月余り前の4月15日、15歳の家斉が将軍に就任。5月20日の打ちこわし後、幕閣に多数残っていた田沼派の重臣たちが一掃されると、6月に松平定信が老中に抜擢され、すぐにトップの首座に迎えられた。
田沼は開明的だっただけに守旧派の反発を買い、前述した災害観をもとに、天変地異やそれが原因の暴動などの責任をすべて負わされ、失脚した。印旛沼と利根川を干拓し、新しい水上流通路を整備する計画も、貨幣の交換相場を一定にする施策も、幕府が預金を幅広く集めて財政難の大名や旗本に貸し出そうという「中央銀行」の設立計画も、みな頓挫した。

それ以上に後世に禍根を残したのは、開国計画が水泡に帰したことだろう。蝦夷地(北海道)の調査と開発に積極的だった田沼は、オランダ商館長らが残した記録によると、箱館を新たに開港し、ペリー来航よりも数十年早く開国することをめざしていたと考えられる。
将軍家治の急逝で失脚し、江戸の打ちこわしを経て、いよいよ完膚なきまでに力を奪われた田沼。その後の徳川幕府は、みずからを改革して時代を乗り切る力を失ってしまった。
■松平定信の悲哀
老中首座になった定信は、前述の田沼の施策をみな中止した。もっとも、田沼政治との連続面もあった。田沼は、商工業者の同業者組合である株仲間を認める代わりに、運上金という税を徴収し、幕府財政の足しにした。これまで定信は、株仲間をすっかり解散させたようにいわれてきたが、定信も株仲間と運上金には頼り続けた。
だが、一方で定信は、出版のほか芝居などの庶民の娯楽に、厳しい統制を加えた。やがて蔦重も処分される。田沼時代は自由度が高かった学問も、武士の道徳の基盤だった朱子学以外を禁止した。
ところで、定信が老中首座になったのは、将軍になった家斉が若年なので、しばらく「つなぎ」が必要だという御三家の意向を受けてのことだった。
それが8代将軍吉宗の孫で、一時は11代将軍候補にも擬せられた定信に託されたのだ。しかし、彼の「寛政の改革」は厳格すぎて、家斉が成長するにつれ、2人のあいだには齟齬が生じた。
結局、寛政5年(1793)7月、家斉は定信の老中職を罷免する。直接のきっかけは、将軍職に就いたことがない実父の一橋治済、すなわち「べらぼう」で生田斗真が演じ、裏で操作や暗殺を繰り返しているあの人物を、大御所にするように求め、筋が通らないことが嫌いな定信に拒まれたことだった。
■江戸幕府崩壊の種をまいた
その後、家斉は天保8年(1837)まで将軍職にあり、将軍を辞しても、同12年(1841)に死去するまで大御所として君臨した。これだけ長期政権を維持できたのだから、その治世はよくいえば安定していた。だが、それはなんら改革をしないまま、とりあえず時間稼ぎができた50年間だったといえる。
この時代は外国船が次々と日本近海に入るようになり、通商や開国を求められることも増えた。だが、それに積極的に向き合うことはなく、文政8年(1825)には異国船打払令を発出した。内政に目を向ければ、幕府の財政はもはや破綻寸前だったが、金貨や銀貨を改鋳し、金銀の比率を下げることで幕府の経費を浮かす、というその場しのぎでなんとか乗り切っていた。
その間に都市は成熟し、爛熟した庶民文化、すなわち文化・文政文化が花開くなど、ある意味「よい時代」だったのかもしれない。また、将軍職を辞する直前に天保の大飢饉が発生したが、それまでは田沼時代と違い、「大」がつく飢饉が発生しなかったことも、「安定」した理由だろう。

しかし、基本的には、将軍は思いのままに奢侈な生活を送り、あらゆる問題を先送りした。だから、家斉の死後、水野忠邦が「天保の改革」に取り組まざるをえなくなり、それが大失敗して幕府は一気に弱体化する。むろんその種は家斉が蒔いていた。
■53人の子女をもうけた家斉の功罪
家斉の「思いのままに奢侈な生活」の象徴が「子だくさん」だった。大奥に目を引く女性がいれば、手当たり次第に手をつけたとされ、確認されているだけで側妾は16人いて、正室を含む17人の女性とのあいだに男26人、女27人、計53の子女をもうけた(死産や流産の数え方次第で55人にも57人にもなる)。
とはいえ、当時は乳幼児の死亡率がいまとは比較にならないほど高かったので、みな生育したわけではないが、約半数は成人した。そして、実父の一橋治済の戦略だったと考えられるが、その子女たちを、徳川家を含む有力大名に次々と縁組させ、軒並み一橋の血に塗り替えていった。
すでに徳川宗家は家斉が将軍になることで、一橋が事実上「乗っ取って」いたが、ほかに家斉が自分の子を送り込んだ家を列挙すると――。
男子は、尾張徳川家、紀州徳川家、田安徳川家、清水徳川家、鳥取藩池田家、津山藩松平家、浜田藩松平家、徳島藩蜂須賀家、福井藩松平家、川越藩松平家、明石藩松平家。女子は、水戸徳川家、仙台藩伊達家、長州藩毛利家、会津藩松平家、高松藩松平家、佐賀藩松平家、姫路藩酒井家、加賀藩前田家、広島藩浅野家、鳥取藩池田家。
一橋治済と将軍家斉による壮大な計略は、こうしてある意味、成功したのだが、そうするあいだに幕藩体制がひどく揺らいだことは間違いない。天明の大飢饉が起きず、田沼政治が続いていたら、日本はどう変わっていただろうか。
どうしてもそんな夢想をしてしまう。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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