「破壊王」と謳われたプロレスラー・橋本真也の急逝から20年たつ。新日本プロレスの同期である蝶野正洋氏は「橋本選手は空気を読んで“乗っかる”場面での判断に優れていた。
アントニオ猪木さんに手かざしをされて、ほかの選手が醒めた反応をする中で一人だけ全力で乗っかっていた」という――。(第2回/全2回)
※本稿は、小川直也・佐山聡・蝶野正洋ほか『証言 橋本真也 小川直也、佐山聡、蝶野正洋らが語る破壊王と「1・4事変」の真相』(宝島社)の一部を再編集したものです。
■プロレス界イチ顔が広かった先輩
期せずして新日本から大切にされるようになった橋本(真也)たち。そんななか、多くのタニマチを抱え、交友関係の広さでは、プロレス界一と謳われていたドン荒川は、橋本のことをかわいがり、酒の席や夜の街などに連れ回していたという。
「荒川さんがクルマで出かける時は、新弟子が二人呼ばれて、一人は運転手で、もう一人はボディーガード。荒川さんはいつも後部座席に座ってたね。この頃の新弟子のなかで運転免許を持っていたのは橋本、武藤(敬司)、蝶野(正洋)だけだったから、必然的にこの3人が呼ばれることが多かった。
荒川さんの席はとにかく飲むから、酒が強いヤツのほうが合ってる。橋本選手は『飲め!』『食え!』って言われて素直にガーッと行くタイプだったから、お呼びがかかる機会が多かった。武藤さんもかなり飲めるし、面白い付き合いもできるってことでその次。俺は酒が強くないから、3番手という感じだね。それを残念だなと思うこともあったけど、うまく逃げられたなっていうのもあるね(笑)」
■ステーキ屋で2キロの生肉を食べさせられる
荒川の飲み方は、典型的な昔ながらのプロレスラーのスタイル。
タニマチや興行主と長時間にわたって飲食をともにしながら、場面ごとにプロレスラーのすごみを見せつけていったという。
「荒川さんは、社長さんやタニマチとの宴会に若手を連れていって、『コイツらはよく食うし、よく飲むぞ』ということ見せつけたいんだよね。俺らはそれを拒否できないから、全部受けるしかない。
俺たちがデビューしてまだ間もない時に、荒川さんにステーキ屋に連れていかれたことがあった。その時は武藤さんも一緒だったんだよね。荒川さんが『お前ら、今日はガンガン食えよ!』とか言ってたら、店長が2キロぐらいの肉の塊を持ってきて、『今日はこちらをみなさんに食べていただきます。生でも食べられるくらいのいいお肉ですよ』と見せてくれるんだよ。
そしたら荒川さんが『生でも食べれるのか。じゃあ、これを生でそれぞれに持ってきてくれ』と注文するんだよ。店長が『えっ、これを一人1個ですか?』って驚いてると、『当たり前だろ!』ってことになって、一人2キロの生肉が俺たちの前にドンドンと置かれて、それをなんとか全部食べた。
で、腹いっぱいになったところで『よし、じゃあ次は寿司に行くか!』って移動して50貫くらい寿司を食って、そのあと飲み屋にいって、強い酒をガンガン一気飲みさせられる。それが終わったあとにようやくお風呂に連れていってもらえるんだけど、そこにたどり着くまでが大変なんだよね(笑)」
■豪快な行動は冷静な計算の賜物だった
そのような宴席でも橋本の素直さと豪快な行動力は発揮され、荒川をはじめとした昭和のニオイのする先輩レスラーたちに「トンパチ」として愛された。

「橋本選手は行け、と言われたら行くし、こうと決めたらやりすぎるくらいにやるから、まさにトンパチだったね。それに加えて橋本選手は理想が高くて策士だったから、冷静に周囲を見て、考える。トンパチというキャラクターに徹することで、人よりも目立つことをやって、周りをビビらせて、名前を売る。
要は、ツッパリの世界と一緒だよね。プロレス業界を見渡して、自分がこのなかで目立つためには、トンパチというキャラクターをつけたほうがいいと判断したんだろうね。前田さんも『トンパチというのは色がつくんだよ』と言っていた。やっぱりトンパチっていうだけで先輩からは気に入ってもらえるから、ある種の近道ができる。
地味で真面目なタイプだと、花が開くまでにどうしても時間がかかってしまう。橋本選手はそれをすぐに察知して、トンパチという色をつけて、最短距離を走ったんだと思うんだよね」
■先輩の懐に入り込みエッセンスを吸収する
自身の目標を達成するため、あえて計算高くトンパチを演じていたという橋本。蝶野はそんな橋本の姿を一歩引いた視点で見ていた。
「俺はプロレスに入るまでに、さんざん悪いことはしてきてるから(笑)。だからもう人生をやり直す、更生するくらいの気持ちだったし、プロレスという厳しい世界に入って心身を鍛え直そう、ゼロから始めようと思っていた。
だから、自分にどう色をつけるとか、キャラクターをつくり上げていくなんてことは、だいぶあとになってから意識するようになったことなんだよね。
橋本選手は最初からそこらへんをパッと感覚的に理解して、『この先輩が目立ってるな』と思えば、そこにスッとついて、かわいがられながら、なんでも吸収してやろうという気持ちがあったんだと思う。だから橋本選手の中には、荒川さんのエッセンスがものすごく詰まってるよね」
■先輩からの理不尽なイタズラに全力で乗る
荒川をはじめとした先輩レスラーたちにかわいがられ、トンパチ生活を謳歌していた橋本。しかし、レフェリーのミスター高橋は橋本のことを嫌っていたという噂もあった。
「いや、嫌っていたということはないと思うよ。それはたぶん高橋さんがイタズラ好きで、よく橋本選手が引っかかっていたから、それが広がったんじゃないかな。
俺らがデビューして1年ちょっとくらいの頃、高橋さんが自分でニセのファンレターを書いて『おい橋本、ファンレターが来てるぞ!』と手渡したことがあったんだよ。その手紙は、和歌山の田舎のほうで養豚場を経営している大社長からのもので、『ウチの娘が橋本さんの大ファンで一度会ってもらいたい。ウチは担い手がいないので、ぜひ会社も継いでほしい』とか適当なことが書いてあるんだよ。
橋本選手も興奮して『先輩、こんな手紙が来ましたよ!』って、荒川さんとかに話すんだけど、みんなグルだから『お前、すごいな!』『すぐにでも結婚したほうがいいぞ!』とか、さんざん担ぎ上げるんだよ(笑)。
それで高橋さんがこっそり道場裏の公衆電話から電話をかけて、『橋本さんですか、和歌山の者です。近くまで来ているので、今から娘を連れて伺います』とか話して、みんなで『今から橋本の嫁さんが来るぞ!』って盛り上がったりね。

さすがの橋本選手も途中でイタズラだって勘づいていたと思う。でも、あえてひっかかり続けるというか、乗るんだよね。ただのイタズラだけど、それを受け切れるかどうかというのがプロレスラーにとって大事な要素なんだよね」
■レスラーに欠かせない“空気を読む感性”
「かつて猪木さんが手かざしの施術にハマってたことがあって、一人ひとりに実践してくれたんだよ。俺も猪木さんにやってもらって、『どうだ、感じるか?』とか聞かれるんだけど、『いや、ちょっと自分にはわかりません……』とか答えてしまうんだよ。武藤さんなんて『いや、なんにも感じないです』って、ストレートに言っちゃう。
でも橋本選手は『あ、なんか熱くなってる感じがします!』と返すんだよ。俺と武藤さんは『アイツ、またうまいことやってるな』って顔を見合わせるんだけど、これは橋本選手が正しいよね。小川(直也)選手に聞いたんだけど、UFOの時も猪木さんは手かざしをよくやってて、佐山(聡)さんは体を震わせながら反応するみたいなんだよ。
だから空気を読む感性というか、乗るか乗らないかの判断力。さらに、乗るならどこまで乗るのか、という感覚が橋本選手は優れていたと思うんだよね」
橋本の長所であり、武器でもあったトンパチな行動力だったが、それが根深い確執を生む結果となってしまったこともあった。1987年6月3日、福岡の西日本総合展示場で起こった「橋本リンチ制裁事件」だ。
ドン荒川にけしかけられた橋本は、試合相手のヒロ斎藤を激しいキックで追い込み、結果的に手の甲の骨を折るという大ケガを負わせてしまう。
この行動に激怒した長州は、試合後に橋本を控室に呼び出し、マサ斎藤とともに椅子で殴打して橋本に制裁を加えた。
「長州さんたちが全日本プロレスから出戻ってきた頃、一部の先輩やフロントから『ジャパンプロレス軍団を壊せ』という命令が出てたんだよ。俺とか武藤さんはそういう焚きつけみたいなことは適当にごまかすんだけど、橋本選手は真に受けて、やれって言われたらやってしまう。
俺は橋本選手のすぐあとの試合で、入場してリング上がったぐらいの時に控室から長州さんの怒る声とか、ガッシャンガッシャンやってる音が聞こえてきた。お客さんもみんなそっちが気になっちゃって、リングなんて誰も見てくれなかったよ」
■「俺は長州を許せない。今から殺しにいく」
「試合終わって控室に戻ったら、橋本選手がいない。気になってあたりを探したら、会場の外で一人で座ってた。『どうした、大丈夫かい?』と声をかけたら、橋本選手は思い詰めた顔で『俺は長州を許せない。今から殺しにいく』と怒りで震えてるんだよ。
でも俺は、こうやって人に言ってる時点で大丈夫だと思ったんだよね。ホントにやる人間は黙って刺しにいくから。これは俺に止めてもらいたんだなと思って、『やめとけよ』と言ってその場は収めたんだよね。

この一件のあと、俺と橋本選手の距離がちょっと近くなって、二人で出かけることが増えた。というのも、当時の橋本選手は荒川さんのタニマチから外車を借りていて、それを自分のクルマのように乗り回してたんだよ。
出かける時は橋本選手がハンドルを握るんだけど、運転が荒いからいろんなところにぶつける。俺は『人から借りてるクルマなんだから、扱いにもマナーがあるだろ』って言うんだけど、クルマを見せびらかしたいのか、急発進や急ブレーキを繰り返したり、あまりに雑すぎる。橋本選手は本来は運転がうまいから、トンパチ的な自己演出だったのかもしれないけど、引くよね。
橋本選手と付き合うコツは、親友になっちゃダメってこと。深いとこまで入って身内になると、これ手伝ってくれないかとか、カネ貸してくれとか、子供みたいにいろいろ言ってくる。俺はそれがわかってるから、その三、四歩前で止めてた。いい距離感をキープするというのが大事なんだよ」

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蝶野 正洋(ちょうの・まさひろ)

プロレスラー、実業家

1963年9月17日、父の赴任先である米国ワシントン州シアトルで生まれる。2歳のときに日本へ帰国。1984年に新日本プロレスに入門、同年10月5日にデビュー。1987年に2年半にわたる海外遠征に出発。遠征中に武藤敬司、橋本真也と闘魂三銃士を結成する。1991年、第1回G1クライマックスに優勝し、同年マルティーナ夫人と結婚。以後、G1クライマックスでは過去最多(2023年現在)の5回優勝。1992年8月には第75代NWAヘビー級王座を奪取。1996年にnWo JAPANを設立して大ブームを起こし、その後、TEAM2000を結成。2002年に新日本プロレス取締役に就任した。2010年に新日本プロレスを離れてフリーとなる。得意技はケンカキック、STF。2014年に一般社団法人ニューワールドアワーズスポーツ救命協会を設立。消防を中心に広報啓発の支援活動を行う。

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(プロレスラー、実業家 蝶野 正洋)
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