大阪のランドマークである「道頓堀グリコサイン」には、国内外から多くの観光客が訪れている。大阪公立大学特別教授の橋爪紳也さんは「現在のサイン看板は、初代から数えて6代目になる。
実はグリコより前に、道頓堀を照らしていた商品がある」という――。(第2回)
※本稿は、橋爪紳也『大阪のなぞ 歴史がつくってきた街のかたち』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
■現在の“道頓堀グリコ”は6代目
戎橋の「道頓堀グリコサイン」は、内外の観光客が巨大看板を背景に記念写真を撮影する人気スポットである。陸上競技選手がテープを切って勝利する姿をもとにデザインされた図像は、「ゴールインマーク」の名前で商標登録されている。
現在のサイン看板は、初代から数えて6代目になる。その変遷を紹介したい。
初代のネオンサインは昭和10年(1935)に設置された。総高33m、ランナーの姿やロゴサインが6色に変化、花模様が1分間に19回のテンポで点滅する仕掛けであった。しかし戦時下の昭和18年(1943)、解体のうえ鉄材として供出されることになる。
戦後、昭和30年(1955)に2代目が掲出される。高さ22m、砲弾形の枠内にマークを納め、「一粒300メートル」のキャッチコピーも添えられた。2代目は広告の足元部分、道頓堀に面して舞台を設置して、人形劇やロカビリー大会などの余興を提供した。

昭和38年(1963)、噴水を装備した3代目に改められる。トレードマークの中心部にある150本のノズルから水車状に回転するように水流を放出、12色400基のライトで美しく照らしだした。
■ユニフォーム着用、LED装飾…大阪を盛り上げてきた
昭和47年(1972)、陸上競技場を走るランナーを描写する4代目が登場する。この構成が、今日にまで継承されることになる。
平成10年(1998)、5代目のネオンサインが完成する。背景に、大阪城天守閣、海遊館、大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)、通天閣など大阪を代表する建物群が描かれた。朝焼け、日中、夕焼け、夜と色彩を変化させて、ランナーが一日を費やして大阪の名所を順にめぐる姿が表された。
FIFAワールドカップ(平成14年)、世界陸上大阪大会(平成19年)など国際的なスポーツ大会が大阪で行われる際には、日本代表のユニフォームを着用した。また平成15年(2003)には、阪神タイガースの優勝を祝福して、縦縞のユニフォーム姿で祝賀気分を盛り上げた。
平成26年(2014)10月23日、6代目の点灯式が実施された。5代目を踏襲した図柄だが14万個のLEDを装置、さまざまな画像や動画を映し出すことが可能になった。
私たちはこの看板を、道頓堀にあるグリコのネオンサインとして長く親しんできた。
しかしLED化を受けて、もはやネオンサインでもない。「道頓堀グリコサイン」と呼ぶのが正確である。
■グリコよりも先に道頓堀を照らしていた商品
道頓堀名物グリコサインに先例があったことをご存じだろうか。昭和3年(1928)に建設された福助足袋の広告塔である。
福助足袋の前身である足袋装束商「丸福」は、明治15年(1882)、当年21歳の辻本福松が堺で創業した。廉価で質の高い商品の開発を志した福松は、明治28年(1895)に日本初となる「足袋縫い鉄輪ミシン」を導入、縫製の機械化をはかる。
明治33年(1900)、「福助」を商標登録し、「福助印堺足袋」のブランドで全国展開をはかる。今日に継承される福助のデザインは、福松の息子豊三郎が伊勢詣の際に買い求めた人形をモデルとしたという。
福助足袋は大正時代から昭和初期にかけて、企業と商品の認知度を高めるべく、販促イベントや広告に力を入れた。大正13年(1924)からは「足に関する展覧会(足展)」や「福助さん展覧会(福展)」を各地で実施している。
また昭和2年(1927)6月には、人気漫画家であった岡本一平を登用、全頁広告「福助足袋の生い立ち見物」を新聞紙上に展開しておおいに話題となった。
いっぽうブランド戦略として、大都市の繁華な街の中心に巨大な広告を順に掲出した。
博多中洲(大正12年)に続いて、昭和3年(1928)には東京浅草と大阪道頓堀に、電飾を施した巨大な広告塔を建立する。
■「一粒300メートル」キャッチコピーの生みの親
道頓堀の事例では、「福助足袋」の文字を塔身の各面に灯し、塔頂部に裃を着てお辞儀をする福助人形を掲げる。道頓堀に面して下方にスイス製の大時計を装置し、左右に「萬歳足袋」「家庭足袋」の商品名、文字盤の上方にも小さめの福助人形を配置している。
当時の写真を見ると、ライトアップされた松竹座の前方にあって、川面にその全体像を反射させている様子がわかる。人目を引き、宣伝効果も高かっただろう。
この時期、福助足袋の宣伝を引き受けたのが、岸本水府(本名・龍郎)である。水府は大阪貯金局に勤めたのち、桃谷順天館、福助足袋、壽屋、グリコなど、大阪を拠点とする企業の宣伝部長や支配人を歴任する。
水府が福助足袋からグリコへと会社を移籍するのに応じて、福助足袋の広告塔の跡にグリコがネオンサインを掲出することになったようだ。ちなみに「一粒300メートル」という誰もが知っているグリコの販促コピーも、水府が手がけたものとされている。
水府はコピーライターや広告企画の専門家として才能を発揮するいっぽう、番傘川柳社の立ち上げに参画、川柳作家として活躍した。また『京阪神盛り場風景』『川柳入門』などの著作をものしている。
■関西人も知らない「総合文化センター」の構想
1970年大阪万博の開催に応じてポスト万博を意識して、平成2年(1990)を目途とする大阪市の将来構想が示された。
そこには、阿倍野地区再開発、鶴見緑地の建設、新大阪駅周辺土地区画整理事業、新大阪港計画などのプロジェクトがならぶ。
冊子『伸びゆく大阪 EXPO'70』(大阪市公聴部広報課・万国博覧会協力部)には、「都市行政は先手必勝。常に20年先、30年先を読んで積極策をとらねば手遅れになる。昭和65年を目標とするマスタープランにとって、万国博の大阪開催は序盤の大きな推進力であった。これからは中盤にさしかかる」と、市役所の強い想いが記されている。
ここに示された計画の多くは、歳月を経て実現した。ただなかには未完の計画も散見できる。そのひとつが、中之島西部に各種の文化施設を集める「総合文化センター構想」である。
エリアの中心に軸となる公園「憩いの広場」を東西に設けて、周囲に中央市民ホール、近代科学技術館、民族芸能博物館、郷土資料館、市民劇場、野外音楽堂などの公共施設を配置することとされていた。
先の冊子では、「ビジネスセンターの一角に文化芸能施設を集中的に設置し、広場や川沿いの遊歩道とともに、市民の憩いの場、文化活動の基地にしようとするもの」と説明されている。
■中之島の“大阪文化”の拠点づくりは続く
公的な文化施設を都心の中之島に集めるこの構想は、結局、水泡に帰すことになる。市民劇場と中央市民ホールは、舞台芸術センターに変更され、検討がすすめられたが実現には至らない。

かろうじて近代科学技術館に託された機能の一部が、関西電力の寄付を受けて、大阪市立科学館として実現する。また貿易センターと記載されている場所には、大阪府の尽力もあり、大阪府立国際会議場が建設された。
私はかねて、官民による美術館や博物館などが集中する中之島界隈を「ミュージアムアイランド」、すなわち「博物館島」と命名して、エリアの魅力を内外に訴求する必要性を訴えてきた。東部には、安宅産業が収集した陶磁器の名品を収める大阪市立東洋陶磁美術館のほか、大阪市立中央公会堂や大阪府立中之島図書館など、重要文化財に指定された名建築がある。
近年、京阪電鉄がメセナ活動で運営するアートエリアB1、安藤忠雄さんの寄付による「こども本の森 中之島」、渡辺橋の中之島香雪美術館などが加わった。さらに西部には、大阪中之島芸術館が開館した。半世紀前の総合文化センター構想は未完に終わったが、中之島を大阪文化の拠点とするという発想は、今日に継承されている。

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橋爪 紳也(はしづめ・しんや)

大阪公立大学特別教授

1960年、大阪市生まれ。大阪公立大学観光産業戦略研究所長。建築史・都市文化論専攻。『明治の迷宮都市』『あったかもしれない日本』『都市大阪の戦後史』など著書多数。

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(大阪公立大学特別教授 橋爪 紳也)
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