※本稿は、井上章一『阪神ファンとダイビング 道頓堀と御堂筋の物語』(祥伝社新書)の一部を再編集したものです。
■優勝でもしたら死人がでるかもしれない」
1985年の阪神は、シーズン開始以来、おおむね好調をたもっていた。前半戦は、首位か2位、3位といった状態で、上位につけている。7月のオールスターゲーム直前には、2位となっていた。その前年と前々年は、最終成績が4位におわっている。だが、今年はちがうと、1985年の阪神ファンは、夏ごろから気分が高揚していった。
街では、ファンの狼藉ぶりもめだちだす。甲子園球場での暴行をつたえたある週刊誌は、被害者のこんな声をひろっていた。
「優勝でもしたら、パニック状態で死人がでるかもしれない」(『週刊宝石』1985年7月26日号)
■「居眠り」が原因で傷害致死事件に
不幸なことに、この予言は適中する。セ・リーグでの優勝がきまった翌日、10月17日夜のことである。東京・目黒の居酒屋で、事件は発生した。店では、4人の阪神ファンが祝勝の宴におよんでいたという。
「みんなが盛り上がっている時に、居眠りをするようなやつは阪神ファンじゃない」(『朝日新聞』1985年10月23日付)
このひとことで、口論、さらには喧嘩がはじまった。居眠りをとがめられた男は、相手の顔をなぐっている。なぐられた男は、翌朝脳内出血が原因で死亡した。阪神の優勝は傷害致死事件へ、じっさいにつながったのである。
当時の週刊誌は、阪神ファンのさわぎを、さまざまな角度から報じていた。優勝がほぼきまりだした10月初旬の大阪から、「狂乱」の様子をつたえたものもある。その記事は某ファンのこんなひとことと、記者のコメントで全文をむすんでいる。
「『〔前略〕これで、もし阪神が優勝せえへんかったら、暴動が起きるんちゃう』(熱狂的学生ファン)大阪は今、革命前夜なのである」(『週刊文春』1985年10月17日号)
■一部のファンが起こした暴動、だれの責任?
7月には、優勝すればパニックがおこると、はやされた。10月になれば、優勝できなければ暴動がおこるとあおられる。どちらにころんでも、ぶっそうな事態になると、書きたてられた。
そして、優勝の決定は、じっさいに一部のファンを暴動へとかりたてた。10月16日の晩には、駐車している自動車が、けっこうひっくりかえされている。また、こわされもした。11月2日の夜にも、同じようなさわぎがおこっている。ファンのなかには、歓喜のあまり自制心をなくす者が、たしかにいた。
11月5日に、大阪のタクシー会社6社が阪神球団へ、抗議文をつきつけている。金銭的な補償をしろとまでは言わない。だが、道義的な責任は、まちがいなく球団にもある。せめて、公の場で謝罪をしろと、要求した。阪神タクシーが被害をこうむらなかったことも、彼らの怒りを増幅したろうか。
これを、しかし球団ははねつけた(11日14日)。
■「狂虎の暴れっぷり」に警察も厳戒態勢
タクシー会社の抗議をうけいれれば、ほかの非難にも対処せざるをえなくなる。便乗的ないちゃもんだって、おしよせるかもしれない。阪神があやまれなかった一因を、以上のように解説した週刊誌もある。同誌はそのうえで、つぎのようなコメントをそえた。
「“商店の看板が壊された”“ガラスが割られた”というような抗議に、いちいち球団が対応するわけにはいかないからだ。それほど、狂虎の暴れっぷりは凄まじかったのである」(『週刊大衆』1985年12月9日号)
とうぜん、警察も警戒体制をしいた。10月17日の早朝、曽根崎と南の両警察署が、100人の機動隊員を市中へ出動させている。11月3日の未明には、350人が警衛につとめた。
おわかりだろうか。警察もあらぶる阪神ファンを、もてあました。「革命前夜」という週刊誌の形容も、おおげさな誇張でしかないとは、言いきれない。そういう気配は、じっさいにただよっていた。
■ファン2000人が「非公式」の御堂筋パレード
阪神が優勝、そして日本一をきめた晩には、道頓堀の戎橋で異変がおこっている。我をわすれたファンらが、橋の上から運河へとびこんだのである。この現象については、次回で検討する。ここでは、有志のダイビングがあったことをしるすに、とどめたい。
戎橋でのできごとは、テレビや新聞でも、ひろく報じられた。なかには、こんななりゆきにふれた記事もある。
「ミナミの戎橋は午後六時過ぎ、ファン二千人の渦で埋まった。阪神百貨店前で騒ぎ、それから御堂筋を行進してきた若者たち。両側の橋の欄干で〔後略〕」(『朝日新聞』1985年11月3日付)
戎橋へむらがったファンのなかには、キタの梅田からやってきた者がいた。阪神百貨店前で気勢をあげ、その熱気をたもったままミナミへ直行する。つまり、「御堂筋を行進してきた」者も、まざっていたのである。
球団が祝賀事業として主催をする行進ではない。11月14日に、球団があいつらの責任はおいかねると言いきっている。そんなファンによる、彼らなりの御堂筋パレードが実現した。当局からは警戒された群集の凱旋が、自然発生的に成立したのである。警備側からながめれば、あぶなっかしいと言うしかない人たちの行進が。
■行政や警察に歓迎されるはずがない
阪神は球団主催の祝勝行進を、御堂筋でくりひろげたいと思ったかもしれない。しかし、今のべたような状況のなかで、それを警察が許容するだろうか。
さきほどもふれたが、御堂筋のみの話ではない。四つ橋筋や扇町通、そして曽根崎通りであっても、うけいれがたい企画であったろう。一般道や広場をつかっての公開祝勝会は、どこであれ当局からけむたがられたはずある。
南海への配慮で、御堂筋の南進をひかえたわけでは、けっしてない。治安上の理由で、実現は困難な状況におかれていた。ただ、その現実を糊塗(こと)するために、南海うんぬんを語るむきはいたかもしれないが。
■下位をウロウロする「冬の時代」が訪れる
1985年に、阪神は日本一を勝ちとった。だが、翌年は3位におわっている。2年後の1987年には、最下位となった。以後、このチームは長い低迷期をむかえることとなる。
20世紀の最終年である2000年までの成績を、ねんのため概観しておこう。1987年以後、14年間のたたかいぶりを、ざっと見わたしたい。阪神は、なんと9回も最下位になった。5位におわった年も2回ある。あとは4位が2回、2位が1回となる。基本的にはBクラスで、Aクラスは一度だけ。非力と言うしかないチームにおちぶれた。
ファンのなかには、この時期を阪神の暗黒時代とよぶむきがいる。真の暗黒期は1995年から2001年までの7年間だとする人も、いなくはない。じっさい、この7年間で、阪神は6度も最下位におちこんだ。それをまぬがれた1997年も、5位にしかなっていない。定位置はびりというのが、そのころの阪神であった。
例外的に1992年だけは、いい結果をのこしている。14年間でただ一度のAクラス、2位になった。いや、それどころではない。この年は、最終戦のまぎわまで優勝の可能性をひめていた。けっきょくは、ヤクルトにペナントをゆずっている。しかし、当時としては善戦のできた年であったろう。
■ヤクルトファンは「目印」の雨傘を手放した
1992年のセ・リーグは、10月11日で、すべての公式戦をおえている。その前日、10月10日に、ヤクルトは甲子園球場で優勝をきめた。阪神にも、まだ1位の可能性がのこされていた試合で、ケリをつけている。そのため、甲子園には阪神ファンがおおぜいおしよせた。ヤクルトびいきの観戦客を、レフト側のかたすみへおいこんでいる。
そんな阪神ファンがうめつくした球場で、ヤクルトは勝った。ペナントをとっている。阪神の優勝をねがうファンが大多数をしめる球場で、彼らの夢をうちくだいた。そのため、レフト側でヤクルトを応援していた人たちは、いろいろ被害をこうむっている。
心ない阪神ファンは、ヤクルトファンが肩をよせあっている席へ、物をなげこんだ。応援歌の「東京音頭」をうたうことも、封じこめている。優勝をいわうセレモニーの執行も、中止へおいこんだ。
ヤクルトびいきの人たちは、よく雨傘を球場へもちこむ。傘をつかっての応援が彼らのならわしとなっている。だが、この日、彼らはその傘をもちかえらなかった。たいていの人が、球場の座席へそれをおきざりにしている。帰路のとちゅう、傘が目印となり、阪神ファンに襲撃されるのをおそれたためである。
■「おれたちは阪神ファンとは違うんだ」
この年に、パ・リーグで首位をいとめたのは西武であった。日本シリーズは、西武とヤクルトのたたかいになっている。このカードはもつれ、決着は第7戦までもちこされた。最終戦がひらかれたのは神宮球場、ヤクルトのホームグラウンドである。だが、ヤクルトはこのゲームをおとし、西武に名をなさしめた。
結果をざんねんに思ったのだろう。ヤクルトファンのなかには、メガホンをグラウンドへなげこもうとした者もいた。この振舞をヤクルトの私設応援団員が、やめさせたらしい。「おれたちは阪神ファンと違うんだ」(『朝日新聞』1992年10月27日付)。以上のように声をかけ、思いとどまらせたという。
ヤクルトファンには、10月10日の甲子園で不快感をいだいた者もいただろう。ああいうふうにはなりたくない。そう心にちかった人なら、ヤクルトファンの同じような態度をきらったろう。自分たちは阪神ファンじゃないという。このかけ声も、甲子園でのいやな記憶にねざしていたと思う。
■新語「阪神フーリガン」が誕生
いずれにせよ、1992年の阪神は、ひさしぶりで首位レースへ顔をだした。その勢いにも、あとをおされたせいだろう。1985年と同じように、阪神ファンの一部は不穏なうごきを見せはじめる。街でさわぎをおこすような者も散見するようになった。
この現象が目をひいたのだろう。暴走におよびがちな阪神ファンは、「フーリガン」と評されるようにもなっていく。「阪神フーリガン」という呼称も浮上した。当時の『朝日新聞』が、その解説を書いている。
「瓶投げ、川ダイブ…大騒ぎ 阪神フーリガン知ってるかい?」と題された記事である(1992年10月12日付夕刊)
「ヤクルトの優勝で終わった阪神フィーバーが『阪神フーリガン』という新語を残した」。そこには、以上のような文句もしるされていた。ヨーロッパのサッカー場であばれる熱狂的なファンに、なぞらえられたのである。
この形容を、私はテレビのニュースショーで聞いたことがある。放送日や番組名はおぼえていない。とにかく、どこかの局が、試合の結果しだいで暴徒となるフーリガンをとりあげた。なかで、コメンテータのひとりが言いはなったのである。阪神ファンのようなものだね、と。この発言で一座が笑いにつつまれたことを、私はわすれられない。
しかし、一部の阪神ファンに、当時そういう傾向があったことはいなめないだろう。私じしん、甲子園球場からかえる阪神電車のなかで、それらしい人たちを見たことがある。
■最近、ファンの暴走行為は見かけない
阪神が試合に勝った、そのあとであった。数人のファンが、電車のつり広告をはがし、こなごなにやぶいていく。そして、それを紙吹雪よろしく車中にまきちらした。彼らなりに勝利をいわったということか。世に言うフーリガン的な振舞のひとつなのだろうなと、うけとめた。
関西圏外の人たちは意外に感じるかもしれないが、あえて書く。ひところ、甲子園球場脇の住民は阪神をけむたがっていると、よく言われた。箍(たが)のはずれた阪神ファンが、しばしば乱暴狼藉におよんだからである。私じしん、球場の近くでそういう光景にでくわしたことはない。しかし、噂を耳にした時は、さもあろうと納得したものである。
だが、20世紀末には阪神ファンの行動も、よほど改善された。こういうことは、統計的なデータをあげて論じるのがむずかしい。しかし、フーリガン的なファンの姿を、しだいに私は見かけなくなっていった。少なくとも、阪神電車の車中からは一掃されたように思う。
こう書けば、まだ戎橋から道頓堀川にとびこむファンはいると、反論をされようか。たしかに、そのとおりである。2023年の優勝と日本一にさいしても、あそこへのダイビングはあった。警察の制止をふりきって、少なからぬファンが水中へ身をなげている。そこだけをながめれば、彼らの暴走気質はたもたれているように思えなくもない。
■2003年は「公式」祝賀パレードを開催
しかし、ああいうむこう見ずな行動が見られたのは、戎橋とその周辺だけだろう。それ以外の街頭では、あまり見かけなくなったような気がする。あるいは、こう言ったほうがいいのかもしれない。彼らのフーリガン的な行為は、戎橋界隈へかこいこまれていった。ほかのエリアからはおいたてられたのだ、と。
阪神電鉄は、ファン気質の改善へむけて努力をしただろう。行政をつうじた公衆道徳の啓蒙も、一定の効果をはたしたかもしれない。あるいは、学校教育も。その内在的な分析はできないが、阪神ファンにも管理社会の影はおよんでいった。彼らも、規律ただしくある方向へ、調教されていったのである。
阪神は2003年にセ・リーグを制した。そして、その祝賀パレードを御堂筋でおこなっている。その挙行を、2003年の治安当局はみとめたのである。もう、阪神ファンは、以前のように社会秩序をみださない。今は、おちついている。そんな見きわめもあっての許可ではあったろう。
いや、御堂筋パレードの実施こそが、阪神ファンの脱フーリガン化を物語る。警察が、もうだいじょうぶだろうと判断した。路上の車をひっくりかえしたりは、まずすまいと信頼する。そこまで、阪神ファンが馴致(じゅんち)されたことをしめす、何よりの指標になると考える。
■トラキチ、阪神フーリガン、そして今は…
『阪神タイガースの正体』でもふれたが、もう一度書きとめる。
阪神ファンに暴走体質があると言われだすのは、それほど昔からではない。おそらく、1970年代あたりからだろう。甲子園球場の野次も、それ以前は弱々しいと言われていた。たとえば、「野次も、関西弁なので何となく迫力がない」、と(『週刊平凡』1959年9月9日号)。
そもそも、阪神ファンは今よりずっと数が少なかった。甲子園も対読売戦以外は、あまり観客がはいらない。たいてい、空席だった。人気が高まりだしたのは、1960年代の末ごろから。ファンの熱狂ぶりが、ひろくとりざたされるのは、それ以後の現象である。
「トラキチ」という言葉がある。タイガースマニアをさす物言いである。「阪神フーリガン」に先行する世相語だと言ってよい。これが、はじめて週刊誌でリードの文句にとりあげられたのは、1978年である(『サンデー毎日』4月23日号)。そして、この言葉は阪神が優勝した1985年に、流行語大賞の銀賞を受賞した。
阪神ファンにたいする認識がうつりかわっていく様子を、読みとれよう。常軌をいっしているという見方は、時代が下るとともに増幅した。だが、20世紀末には、反転のきざしを見せはじめる。とうとう、阪神の御堂筋パレードが、当局から公認されるまでにいたった。今は、凶暴視される度合いが、ずいぶん弱まっている。少なくとも、関西では。
『阪神タイガースの正体』を、私は21世紀がはじまった時期に刊行した。当時は、まだフーリガン性の衰弱を、うたがいなく書ききることができていない。ようやく、今になって歴史をふりかえり、ためらいなくしるせたのだとかみしめる。
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井上 章一(いのうえ・しょういち)
国際日本文化研究センター所長
1955年、京都府生まれ。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。京都大学人文科学研究所助手、国際日本文化研究センター教授などを経て、現職。専門の建築史、意匠論の他、日本文化や美人論など研究分野は多岐にわたる。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想』で芸術選奨文部大臣賞、『京都ぎらい』で新書大賞2016を受賞。著書に『ふんどしニッポン』『ヤマトタケルの日本史』『関西人の正体〈増補版〉』など。
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(国際日本文化研究センター所長 井上 章一)