「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)で染谷将太が演じる「神絵師」喜多川歌麿がブレイクしたのはいつか。『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の著者・増田晶文さんは「歌麿は1770年に絵師としてデビュー。
蔦屋重三郎(横浜流星)と組み、1792年、豊満で妖艶な色香を漂わせる美人大首絵で一躍スターになった」という――。
※本稿は、増田晶文『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
■42歳の蔦重は幕府のおとがめで財産半分没収
寛政に入ってからの蔦重(蔦屋重三郎)の動き、取り巻く情勢は風雲急を告げる。
天明7(1787)年から老中・松平定信による寛政の改革がスタート、蔦重はそれを黄表紙で痛烈にあげつらった。だが官憲の取り締まりは厳しさを増し、朋誠堂喜三二引退と恋川春町逝去(自死?)という痛恨の結果が残る。
寛政3(1791)年、42歳となった蔦重は財産半分没収の沙汰をうけ、山東京伝も手鎖の刑に処せられる。耕書堂の経済的損失はもとより、蔦重には京伝の創作意欲の減退が響いた。
蔦重はしばらく再印本でお茶を濁すしかなかった(その中には京伝と歌麿コンビの黄表紙『扇蟹目傘轆轤(おうぎはかなめからかさはろくろ) 狂言末広栄(きょうげんすえひろさかえ)』も含まれる)。
■弾圧後、「蔦重―歌麿」コンビが革命を起こす
耕書堂の自粛と不振は喜多川歌麿の画業にも影響した。寛政3年からの数年間、歌麿は栃木に赴き、篤志家のもとで肉筆画の制作に没頭していたという説があり、それを薦めたのは他ならぬ蔦重だとされている。
穿った見方をすれば、この沈黙期に新しい美人画の構想と試作がなされたと解せよう。それは歌麿の栄進はもちろん、財産を半減された蔦屋耕書堂の再興にも直結する。
捲土重来に息巻く蔦重と過大なる期待を背負わされた歌麿――歌麿のプレッシャーの大きさは相当なものだったろう。しかし、彼はそれに応える画力を培っていた。
寛政4年から5年にかけて、蔦重は一気呵成に歌麿の美人大首絵を開板する。
大首絵とはモデルの上半身をクローズアップした構図の錦絵をいう。
そもそも大首絵は役者絵における人気アイテムだった。それを美人画と結び付け、アレンジしたのが「蔦重―歌麿」の眼の付けどころ。美人画は浮世絵開祖の菱川師宣以来、全身図が表現のセオリーとして定着、幾多の絵師がこのスタイルで名作をものしてきた。そこに、「蔦重―歌麿」が盲点を衝く形で美人大首絵をぶつけてきたわけだ。まさにコロンブスの卵だった。
■役者絵の大首絵を美人画にするという発想
とはいえ美人画の歴史の中で「蔦重―歌麿」が最初の美人大首絵の発案者、創始者というわけではない。『喜多川歌麿』で浅野秀剛は美人大首絵の嚆矢を指摘している。
「宝暦7年(1757)ころ刊行の洒落本、普穿山人(ふせんさんじん)著『秘事真告(ひじまつげ)』の付録『艶史人相七品考(いろごとにんそうなないろのかんがえ)』であろう」
この洒落本は上方での開板のうえ、世に出た時の蔦重は8つ(両親が離縁し叔父の利兵衛の養子となった年)、歌麿は通説だと5歳だから初版時に眼にしたことはなかろう。
その後も幾度か美人大首絵は摺本となっている。ただ、これらは大評判を得るに至っていない。
江戸の民にとって美人大首絵といえば、やはり歌麿の作品の他は考えられなかった。それほどの業績を本屋と絵師は残すのだ。
■豊満な肉体を持つ「歌麿美人洋式」の確立
「蔦重―歌麿」による怒濤の攻勢ぶりを紹介しよう。
まずは『婦人相学十躰』と『婦女人相十品』の大判錦絵シリーズ。いずれも観相がテーマで、人相で人を判じる観相は当時の流行でもあった。歌麿が観相学者を気取って女の性格を描き分ける――トレンドに敏感な蔦屋耕書堂が売り出す浮世絵としてはピッタリの趣向だ。
『婦人相学十躰』では「面白キ相」や「浮気之相」「団扇を持つ女」「指折り数える女」など五図、『婦女人相十品』が「文読む女」「煙草の煙を吹く女」「日傘をさす女」など四図。両方に郵便切手の図案にもなった「ビードロ(ポッピン)を吹く娘」が含まれている。
これらのシリーズで歌麿は、ふっくらとした顔立ちに受け口気味の小さな唇、ひと重で切れ長の眼、すらりと長い鼻に立派な耳という“歌麿美人様式”を確立させている。しかも歌麿美人は豊満な肉体を持ち、目線や仕草の描写はなまなかでない妖艶さを滲ませる。
そのくせ可憐さを忘れていない。娘、年増、未婚、既婚、素人、商売女……歌麿は年齢や属性が変わっても、表面的な美だけでなく内面的なものまで活写していく。
江戸の民は歌麿が描く美人大首絵を熱烈に支持し、新しい美人画のスタイルが誕生した。
■会いに行ける「江戸三美人」の絵がヒット
勢いに乗り、「蔦重―歌麿」は実在の女をモデルにした美人大首絵に挑む。
それが『当時三美人』や『江戸三美人』だ。『当時三美人』では中央に富本豊雛(吉原の玉村屋お抱えの女芸者で富本節の名取)、右が浅草の水茶屋の看板娘の難波屋おきた、左は両国薬研堀にある煎餅屋高島長兵衛の娘おひさ。三人の美人大首絵をトライアングルの配列で一枚の浮世絵のなかに並べてみせた。『江戸三美人』は配列が変わり、右におひさ、左がおきたになっている。これらも大ヒットし、三人を三尊像のように配置する構図は美人大首絵の定番となった。もっとも、おきた、おひさの人気はかなり高く、それぞれ単独でも大首絵が摺られた。
当時の江戸は“水茶屋の看板娘ブーム”の真っ只中。今でいうカフェの人気スタッフに衆目が集まっていた。
おきたはもちろん、おひさも父の経営する両国の水茶屋で店頭に立っていた。時の人を画題にするという発想は、やはり蔦重ならではのビジネス感覚だ。
さらに、美人画のモデルは江戸のアイドルというべきであり、男目線の購入動機は容易に想像できる。だが女の需要も多かった。モデルはファッションリーダーの役目を担っており、髪型や装飾品、着物の柄などに注目が集まったからだ。美人大首絵は現代のグラビア画像に匹敵するだけでなく、ファッション情報を発信するニュース性の高いメディアでもあった。
■豊かな表情から美人の内面まで読み取れる
寛政5、6年(1793、94)も歌麿の快進撃は続く。
『当世踊子揃』『歌撰恋之部』『青楼七小町』といった美人大首絵シリーズ、吉原の遊女の七分座像シリーズ『当時全盛美人揃』、再び美人全身図に取り組んだ『青楼十二時』など、やることなすことすべてが好評だった。
ここで注目したいのは、吉原の遊女をモチーフとして取り上げたことだ。画中には遊女たちの名前はもちろん妓楼の名も明記してある。蔦重のホームタウン吉原は寛政の改革の締め付けで豪遊するお大尽が減り苦境にあった。
並ぶ者のないほどの人気を得た歌麿を起用しての遊女美人画シリーズは、吉原にとって大きなパブリシティ効果を生んだはず。
妓楼の経営者たちにとっては願ってもないことであり、あるいは彼らが内々に“広告費”を支払っていた可能性は否定できない。蔦重にはそれを拒む理由がないし、当然、蔦重から持ちかけたと考えることもできる。さらにはモデルになった遊女や妓楼の主だけでなく、贔屓客だってかなりの部数を購入してくれたはずだ。
■絵に描かれた女性の声が聞こえてくる傑作
また別角度からみれば、一枚絵を制作する費用が、黄表紙や絵入狂歌本よりずっと安価だったことは資金難の耕書堂にとって大きな魅力だった。一連の歌麿美人画が財産を半分没収された蔦重に与えた恩恵は計り知れない――。
それでも、蔦重は『婦人相学十躰』と『婦女人相十品』で各々10点の連作を謳っていながら開板を果たせていない。これがアイディア枯渇に起因するとは考えにくい。「無い袖は振れない」ということだったろうし、定信による出版統制も意識せざるを得なかったのだろう。
歌麿以前の美人画は描写が画一的だった。口元をわずかに緩めるか、眼を細めた表情は穏健、美人の棲む画の世界は平和そのもの。画面から女の声がきこえてくるなら「あら、よい月だこと」「風が吹いてきた」程度の他愛のなさでしかなく、彼女たちの胸の内までは窺いしれない。
だが歌麿は女の性格描写にまで踏み込んでいった。
画から女たちの心の呟きが漏れてくるのだ。
『婦人相学十躰』の「浮気之相」の、コケティッシュな湯あがりの年増美人の微笑は何を意味するのか。そもそも首を回して誰をみて、何を語ろうとしているのか。この美人画を手にした者はさまざまなストーリーを愉しめる。
■「歌麿」以降、美人画の表現は進化した
『婦女人相十品』では「煙草の煙を吹く女」の表情、ふ~~っと吐いた紫煙の行き先がアンニュイな世界を現出させる。「やれやれ」「どうしょうもないねえ」と半ば困惑しつつ、もう半分は諦観する女。歎息の原因はやはり男女の情話がからむのか……映画のシーンを彷彿させる一枚だ。
『歌撰恋之部』では「物思恋」の人妻が眼を細めて頰杖をつき、倦怠感たっぷりに沈思する。去来するのは娘時代の恋、それとも現身(うつしみ)の情夫か。いずれにせよ「恋」を「物思」う彼女の表情はすばらしく饒舌だ。
美人画の表現は歌麿「以前」と「以降」に分けられるほどニュアンスが異なる。
■蔦重と歌麿の間にいったい何が起こったのか?
歌麿の最盛期は寛政3年から7、8年(1791~95、96)あたりというのが浮世絵研究家や美術史家がこぞって指摘するところだ。そこに蔦重の大きな存在があったこともまた斯界の常識となっている。
だが、蔦重と歌麿の蜜月関係は寛政6(1794)年頃から雲行きが怪しくなってくる。
『江戸高名美人』(河重版、鶴屋喜右衛門版)に次いで『当時全盛美人揃』(若狭屋与市版)、『北国五色墨』(伊勢孫版)、『青楼仁和嘉女芸者之部』(鶴屋喜右衛門版)など蔦重以外の本屋との仕事が目立ってくるのだ。
蔦重と歌麿の間にいったい何が起こったのか?
蔦重が歌麿を手放す、あるいは見限るというのは考えにくい。それとも、歌麿の方が蔦重を敬遠したのだろうか。歌麿は、すでに寛政元年の時点で「自成弌家」と不遜なほどの自信を示していた。これほどプライドが高かっただけに、美人画成功の陰に蔦重ありという声がおもしろくなかった、ということも考えられる。
■注文を受けすぎてマンネリに陥った歌麿
蔦重の競合相手からみれば、歌麿人気にあやかりたいのは当然のこと。蔦重のライバルたちが手練手管の限りを尽くし歌麿を籠絡した?――などなど、推論はいくらでもできるが、その正解は歌麿の前半生や私生活と同じく判然としない。
だが、「蔦重―歌麿」の縁が完全に切れてしまったわけではない。歌麿は、その後も『糸屋小いとか相』、『霞織娘雛形』といった秀作を耕書堂からリリースしている。この点を考慮すれば、蔦重が、外の世界へ羽ばたきたくてうずうずしている歌麿のため、鳥かごの扉を開いてやったという見方もできる。一方、自由になった歌麿は、得意の大首絵のみならず全身図、大判画を2枚、3枚と繫いで展開する群像図、さらには芝居や浄瑠璃をモチーフに男女の情愛を画に昇華させるといった新たな取り組みに挑んだ。
ただ、歌麿は濫作の時代を迎える。数多の本屋からの注文を捌くうち画調はマンネリズムに陥り、蔦重のもと美人大首絵でみせつけた鮮烈かつ情感あふれる画風は衰えていった。

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増田 晶文(ますだ・まさふみ)

作家

1960年大阪府生まれ。同志社大学法学部法律学科卒業。1998年に『果てなき渇望』でNumberスポーツノンフィクション新人賞受賞。歴史関係の著作に『稀代の本屋 蔦屋重三郎』、『絵師の魂 渓斎英泉』、『楠木正成 河内熱風録』(以上、草思社)、『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)がある。

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(作家 増田 晶文)
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