■松平定信が首相に相当する「老中首座」に
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で松平定信(井上祐貴)が一橋家の徳川治済(はるさだ)(生田斗真)ら徳川一門の後押しで、老中首座(ろうじゅうしゅざ)に就任する。
老中は複数人が任じられるが、そのうち財政担当の勝手掛(かってがかり)老中が老中首座と呼ばれ、老中筆頭として全体を束ねた。
定信「首座ならば、首座の老中であるならば、若輩でも徳川をお支えすることができるかもしれませぬ」
治済「そなたの言い分は分かるが、それはさすがに難しかろう」
定信「なんとかなりませぬか? 一橋様のお力で」(「べらぼう」第33話より)
定信は8代将軍・吉宗の孫、徳川御三卿・田安家の出身で、毛並みは良いが、老中としては新参者。奥州白河藩の松平家に養子として迎えられ、藩主となり、天明の大飢饉で打ち壊しが起こったときに「お救い米」を出し、脚光を浴びたが、まだ20代(29歳)の若僧でしかない。かたや老中は前の首座であった田沼意次(おきつぐ)(渡辺謙)の派閥が占拠しているので、「べらぼう」では定信が老中首座就任を要求した構図にしたのであろう。
さらに、両者の連携強化――というより妥協点として、天明7(1787)年6月13日、当主不在の田安徳川家に一橋徳川治済の5男・徳川斉匡(なりまさ)を相続。その6日後に定信が老中首座に就任した。
■今なら大臣、老中になるまでのキャリアパス
「べらぼう」でも描かれたように、田沼派の現役老中、松平康福(相島一之)、水野忠友(小松和重)が定信の老中就任については強硬に反対した。
建前としては「前例がない」「前例に背(そむ)く」ということである。定信の老中就任は2つの点から極めて異例のことだった。1つめは前述の通り徳川一門が老中人事に介入した。2つめは親藩大名(将軍家の一門待遇)で老中に就任したことである。
中学・高校の日本史の授業で、江戸幕府の組織・役職として、大老(たいろう)・老中・若年寄(わかどしより)・京都所司代・寺社奉行・江戸町奉行・勘定奉行・大目付あたりは習ったような気がするが、「奏者番」は習った覚えがない。
会社で社長になるには、ヒラ取締役(奏者番)からはじまって、常務、専務、副社長を経て社長(老中首座)になるのがスタンダードなのだが、松平定信も田沼意次も奏者番をすっとばして老中になっている。意次は社長の家の執事(側用人)が抜擢されたケース、定信は社長の従兄弟が優秀だから抜擢されたケースだ。
では、老中になるにはどういった役職を経験していくのが一般的なんだろうか。本稿では老中までのキャリアパスをたどっていきたい。
■通常は「若年寄」「大坂城代」を経験してから
結論から言ってしまうと、老中までのキャリアパスは「奏者番・寺社奉行→若年寄→大坂城代→京都所司代→老中」というのが一般的で、途中どこかをすっ飛ばしていくケースが多い(図表1は筆者オリジナル調査で、本が書けないか、老中全員のキャリアパスを調べたのだが頓挫(とんざ)したものだ)。
■「いきなり老中」は江戸初期に多かった
冒頭で「いきなり老中」の事例は少ない――と言っておきながら、最も多いのは「いきなり老中」の19.6%である。これには事情がある(と言って弁解する)。「いきなり老中」28人のうち、16人は幕府草創から3代将軍・徳川家光までの、いわば老中までのキャリアパスが整備される前の人物なのだ。
田沼意次・松平定信が活躍した、9代将軍・家重~11代将軍・家斉の時代(1745~1837年)に限っていえば、「いきなり老中」は3人しかいない。田沼意次、松平定信、酒井忠寄(ただより)の3人だけだ。
つまり、幕府草創期を含めてしまうと「いきなり老中」は最も多いのだが、開府から150年以上が経過した「べらぼう」の時代では極めて少数派だったのだ。
■田沼意次が「足軽上がり」とディスられるワケ
松平定信については割愛するが、他の2人にはどういった事情があったのだろう。
田沼意次(1719~1788)は「べらぼう」のもう一人の主人公ともいえる。かれの父は紀州藩の足軽で、8代将軍・吉宗の将軍就任とともに幕臣の列に加えられた。意次は9代将軍・家重の小姓から御側御用取次(おそばごようとりつぎ)(側用人の旗本版)に取り立てられ、宝暦8(1758)年の美濃郡上一揆の評定(ひょうじょう)(裁判)で高い評価を得た。
通常、側近たる御側御用取次は一代限りなのだが、家重は意次への信頼が厚く、10代将軍・家治に引き続き重用するように遺言した。意次は側用人に就任。側用人のまま、老中格に就任。明和9(1772)年に老中に就任した。この出世については現在でも驚きを持って受け止められている。
「将軍綱吉から親戚同様といわれた柳沢吉保ですら、老中格・大老格を受けはしたものの、幕府最高の役職である老中・大老の正式についてはいない。しかし、田沼意次は老中そのものになったのだから、大変なことであった」(大石慎三郎『将軍と側用人の政治』)。
■「家格が高すぎて」老中にふさわしくない?
もう一人の酒井忠寄は、名前で察しが付くように家康の重臣・酒井忠次(ただつぐ)の末裔、出羽鶴岡藩14万石の藩主である。「老中を務めるには高すぎる家格だったが、吉宗には、老中には(中略)譜代大名の重鎮を加えたいという思いがあったのであろう。言葉に障害のあった家重は、御側御用取次大岡忠光の補佐で将軍の重責を果たしていたが、それだけに(中略)酒井忠寄が老中に加わることは、政権に重みを加えることになる」(『お殿様たちの出世』)。酒井忠次の子孫には忠寄を除いて、老中に就いた者がいない。それだけに、家重政権の箔を付けるという特別な事情があったのだろう。
■幕閣での出世の登竜門「奏者番」とは?
江戸幕府の老中143人中(重任を除く。また、数え方には諸説あり)、93人(65.0%)。つまり、老中のおおよそ3分の2が奏者番を経て老中になっている。
奏者番は簡単に言ってしまうと、江戸城に登城する大名の受付係である。大名からの献上品を将軍に取り次ぎ、将軍からの下賜品を大名(もしくはその使者)に下げ渡したりする。
たとえば、松平武元が奏者番に就任した時のメンバーを列記しておこう。12名で構成され、松平武元が26歳と最も若く、最年長は高木正陳(まさのぶ)の74歳、平均年齢は44.9歳である。なお、寺社奉行は奏者番から選任されることが多く、牧野貞通(さだみち)と本多正珍(まさよし)が寺社奉行になっている。名前で察しが付くように、牧野貞通は、5代将軍・綱吉の側用人で有名な牧野成貞の嫡男。本多正珍は、家康の知恵袋で有名な本多正信の弟の末裔である。武元も奏者番就任5年目の延享元(1744)年に寺社奉行に選任されている。
奏者番12名のうち、若年寄・京都所司代・老中に就任できたのは4名のみ。3分の1しか出世できない。牧野は京都所司代止まり、若年寄に昇進した戸田氏房(うじふさ)も老中には昇進できなかった。奏者番からその先に昇進するのも狭き門だが、老中になるのはさらに難関である。
■江戸城で暗殺された田沼意知も奏者番から
「べらぼう」で描かれているように、田沼意次の子・田沼意知(おきとも)(「べらぼう」の宮沢氷魚)は若年寄に就任している。まずは天明元(1781)年に33歳で奏者番に就任し、天明3(1783)年に35歳で若年寄に就任している。実は第21話の冒頭で、意次が意知に「お前は奏者番に成り立てだろう」と語っているシーンがあるのだが、事情を知らない方は聞き流してしまったに違いない。
江戸時代は個人ではなく、家単位に物事が動くので、田沼家の当主・意次が幕府の職にある間、まだ当主になっていないその子どもがいかに優秀でも職に就くことはない。ところが、意知は父が老中在任中に奏者番に登用されている。
これは5代将軍・綱吉の時の大久保忠朝(ただとも)・忠増(ただます)父子以来の珍事だという。綱吉は、いかにして前例を無視するかチャレンジしていたんじゃないかと思われるような、無茶苦茶な人事発動を得意としていたので、まぁ、わからないでもない。しかし、将軍・家治(「べらぼう」の眞島秀和)は表に出てこなかっただけで、至極まっとうな人物である。そして、意次も「べらぼう」では「暴れん坊将軍」のように描かれているが、実際は腰の低い丁寧な人物だったようだ(でなければ、あんなに出世できない)。おそらく意次がやろうとした重商主義政策を支持する者がなく、嫡男の協力がなければ無理だと家治に懇請したのではないか。換言するなら、家治が意次という人物と、その政策をいかに高く買っていたかがよくわかる。
■もし老中首座の田沼意次が失脚しなければ…
ちなみに、意知は若年寄の在任中に斬殺されてしまうが、事件がなければどこまで出世できたのだろうか。奏者番(もしくは寺社奉行)から若年寄に昇進した人物は90人。そのうち、60人(66.7%)は若年寄でお終いである。その一方、26人(28.9%)が老中に出世している。ざっくり言ってしまうと、3分の2は若年寄止まりで、3割弱が老中まで出世できるということだろう。
意次が失脚してしまうので、意知は事件に遭わなくても若年寄止まりだった可能性が高い。ただ、意次が平穏無事に役目を終えたならば、意知は老中に昇進できていた可能性が高そうだ。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)