※本稿は、鹿野晃『救急医からの警告』(日刊現代)の一部を再編集したものです。
■医者は“お心づけ”をどう受け止めているのか
医療現場では、患者から「お心づけ」として金銭や品物を渡されるケースが現在でもあります。ただ私自身の経験でいうと、誰からいただいたかを失念してしまうこともありますし、何より治療に影響を与えることも一切ありません。
正直なところ人間ですので、もらうと「うれしい」という気持ちがあることは否定しません。時には、自分の畑で採れた大根など、現金以外の「お心づけ」もいただいて心が温まることもあります(妻も喜んで調理しています)。
しかし、ここで強調しておきたいのは、感謝の気持ちは大変うれしくても、結局のところ、「お心づけ」をいただいても何も変わらないということ。診察も治療も、もらおうが、もらうまいが同じなのです。
医療従事者は、全ての患者に対して平等で最善の医療を提供する義務があります。「お心づけ」は感謝の気持ちを表す一つの方法かもしれませんが、それが医療の質や公平性に影響を与えるべきではありません。
日本の医療現場では、とくに大規模な手術や著名な医師による治療の際に、患者やその家族が「お心づけ」を渡す慣習が長く存在してきました。私が医学生だった頃は、病院実習で驚きの光景に遭遇したこともあります。
教授先生は、淡々と診察を進めていましたが、患者が持ち寄った封筒がその箱にどんどん積み上がっていきました。私たち医学生は目を丸くして、「これがお心づけか!」と内心大きな衝撃を受けていました。
■お金をよりも心を動かすものとは…
かつては50万円から100万円程度の高額な「お心づけ」も存在していたようです。時代とともに「お心づけ」の慣習も変化しています。
公立病院では、菓子類を含むあらゆる贈り物の受け取りを禁止していますし、私立病院の方針も病院によってさまざまです。「お心づけ」を固く禁じ、受け取った場合に罰則を設ける厳格な病院もあれば、とくに制限を設けていない病院もあります。後者の場合、医師が患者から贈り物を受け取ることは珍しくないでしょう。
「お心づけ」の形態も多様化しています。現金だけでなく、目立たずに渡せる商品券やビール券が好まれる傾向にあるようです。地方では、自家製の農産物や酒類など、より直接的な贈り物も見られます。
贈与のタイミングもさまざまで、大きな手術の前やお中元・お歳暮の時期に渡されることもあります。結局のところ、「お心づけ」をどう扱うかは、各医療機関や個々の医療従事者の判断に委ねられている部分が大きいです。
とはいえ、金銭よりも「お心づけ」に添えられた感謝の手紙のほうが、私たち医師の心には響くものです。「先生のおかげで……」という心のこもった言葉こそが、私たち医師の仕事の意義を再確認させてくれる。少なくとも私はそう思っています。
■事件に発展する場合もある「モンスター患者」問題
近年、医療現場では、「モンスターペイシェント」の存在が大きな問題となっています。
単なる攻撃的な患者というレベルを超え、時に犯罪的行為にまで及ぶことがあります。実際に診察中に脅迫を受けたり、最悪の場合、銃撃事件に発展したりすることさえあるのです。
モンスターペイシェントの特徴として、攻撃的な態度や法的処置の示唆、不当な要求などが挙げられます。治療方針に対して激しい批判を行い、「裁判で訴える」などの脅しを用いることもあります。
さらに、診断の「見逃し」を主張し、全医療費の支払いを要求するなど、過度な要求をすることも少なくありません。このような危険に対応するため、多くの医療機関では安全対策を講じています。
たとえば、診察台の下にブザーを設置したり、医師がすぐに避難できるよう診察室の構造を工夫したりしています。医師の後ろがすぐ壁で、患者の前を通らないと逃げ出せない構造は危険なのです。モンスターペイシェントの問題の背景には、診断の難しさと患者の誤解があります。
「後医は名医」という言葉があるように、後から診察した医師の判断を絶対視し、初めの診断を不当に批判することもあります。
■腹痛が原因でトラブルが起きるケースも
たとえば、腹痛の診断は非常に難しい傾向があります。原因不明の腹痛が約半数を占め、そのうち8割は自然に改善します。しかし、初診時に正確な診断がつかなかったことを「見逃し」だと主張する患者がいるのです。
典型的な例として、急性虫垂炎(俗に盲腸)の診断があります。初期症状が胃痛として現れ、徐々に右下腹部痛に移行するケースも多い病気です。患者が最初から右下腹部痛を訴えれば虫垂炎を疑いますが、胃痛として申告すると、初診時には胃腸炎と判断される可能性もあります。
後に別の医師が虫垂炎と診断し手術に至った場合、患者が最初の医師を「やぶ医者」と非難し、「虫垂炎を見逃した」として全ての医療費の支払いを要求するようなケースがあります。今後の課題として、医療従事者と患者の信頼関係の構築、患者の医療リテラシー向上、そして医療の複雑性に対する社会全体の理解促進が重要となってきます。
医療は医療従事者だけでなく、患者も含めた協力関係の上に成り立つものです。
■運ばれてきた患者は、ナイフを隠し持っていた…
私は長年医師として働いてきましたが、今でも鮮明に覚えている、背筋が凍るような出来事があります。ある日、私の病院に警察官2名に付き添われた患者が担架で運び込まれてきたことがあります。患者は手錠をかけられ、うつ伏せの状態。誰かを刺した容疑者で、その過程で自身もケガを負っていたのです。
緊張感が漂う中、私は患者に近づきました。すると、患者が何かを隠すように身体を丸めているのが目に入ったのです。その瞬間、背筋が凍るような恐怖が走りました。直感的に危険を感じ、声を震わせながら警察官に尋ねました。
「すみません、この患者、何か隠し持っていませんか?」
警察官たちは顔を見合わせ、すぐに患者の身体を慎重に持ち上げました。
「おい、何持ってんだ!」怒号が響き、警察官が2人がかりで必死にナイフを取り上げる様子を、私は固唾(かたず)を呑んで見つめていました。危機一髪。
「もし気づかずに診察していたら……」
考えただけでぞっとする出来事でした。患者を救うはずの診察室が、一転して命の危険と隣り合わせになる瞬間でした。こんなことが現実に起こり得るのです。
患者を救うことに全力を注ぐ私たちですが、同時に自身の安全も確保しなければならないという現実があります。その日以来、私は患者と接する際の安全確認をより徹底するようになりました。そして、この経験を若い医療従事者たちにも共有し、安全意識の向上に努めています。
医療現場の安全は、患者のためはもちろん、私たち医療従事者自身を守るためにも欠かせないものなっています。
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鹿野 晃(かの・あきら)
むさしの救急病院 理事長・院長
医療法人社団 晃悠会 ふじみの救急病院 名誉院長2002年藤田医科大学医学部卒業。救急科専門医。青梅市立総合病院(現・市立青梅総合医療センター)救命救急センター医長などを経て、医療法人社団晃悠会を設立。2024年にはむさしの救急病院を開院し、院長に就任した。
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(むさしの救急病院 理事長・院長 鹿野 晃)