子どもの自己肯定感を高めるには、どうすればいいのか。心理学者の根本橘夫さんは「過保護な親のもとで育つと、子どもは無力感に苛まれやすくなる。
一見優しい言葉にも『お前は無力だ』というメッセージが暗に込められており、成長の機会が奪われるからだ」という――。
※本稿は、根本橘夫『新版「自分には価値がない」の心理学』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■「親に大事にされた」から自信がない
無価値感や自信のなさに悩む人の中には、「自分は過保護とも思えるほど親から大事にされていたのに」と言う人が含まれる。大方の見方に反して、過保護は自己価値感よりも無価値感をもたらしやすいのである。
過保護・過干渉はセットで述べられることが多く、両者が子どもに与える影響には共通する部分が多い。しかし、異なる部分もある。典型化して言えば、過保護は「お前は無力だ」という暗黙のメッセージを送り、過干渉は「お前のままでは駄目だ」というメッセージを送る。このために、過保護は子どもを無力化することで無価値感をもたらし、過干渉は子どもの自我を奪い取ることで無価値感をもたらす。
健全な心の発達とは、子どもが生得的に持っている健康に成長していく力(内発的成長力)により達成される。だから、内発的成長力が発現する環境を与えてあげれば、子どもは自らのびのびと成長していく。この子どもの内発的成長力を信頼できない親が過保護・過干渉になるのである。
■「お腹がすいた」がわからない子ども
親が子どもを信頼できずに日々対応するのであるから、子どもが自分を信頼できるわけがない。
自分を信頼することこそ自信の本質なのであり、子どもは自信が持てず、自分を無力な存在であると受け止めざるを得ない。その上、過保護・過干渉により子どもが自らの力で外界に対処する機会が奪われ、外界への対処能力の発達が妨げられる。こうして、「自分が無力である」という思いは、現実の体験によって裏付けられてしまう。
過保護はいつでも何らかの形の過干渉と結びついている。子どもの感覚や感情を親が先取りし、子どもが感じないことを感じさせ、欲しくないものを押しつけるからである。
「お腹すいたでしょ、これ食べなさい。」「寒いでしょ、もう一枚着なさい。」「プレゼントもらって嬉しいでしょ。お礼を言いなさい。」
親が先回りして欲求を満たしてくれ、親が先回りして感情を言語化してくれる。そればかりでなく、親の感覚、感情、欲求を受け入れ、それに従って行動するよう求められる。このために子どもは、自分が感じているもの、自分の感情、自分の欲求を、生身の自分の感覚として体験しないままに済んでしまう。こうして、身体感覚、感情、好みさえ希薄化していく。
「お腹がすいた」とか「疲れた」ということが、本当はどんな感覚なのか子どもの頃わからなかった、という人がいる。大人になっても、「本当は何が好きなのか」「本当は何をしたいのか」わからない。
「嬉しい」「楽しい」「幸せ」といった感覚が、本当はどんなものなのか、確信が持てない。
「自分」とは、感覚、感情、欲求、願望そのものである。だから、こうした状態とは「自分」という実感が希薄であることであり、これが「自分がない」とか「透明な自分」などと表現される状態である。
■子に尽くすことで自分の価値を実感する危うさ
過保護・過干渉な親は、それによって自分を支えていることが多い。「この子のために自分はこんなに尽くしている」「自分がこの子に必要とされている」ということで自分の価値を実感できるからである。さらに言えば、子どもを支配している自分の力への満足感や、自分がこの子をよい方向に導いているのだという自己高揚感も得られる。
このように、過保護・過干渉は、見かけ上は子どもに依存させることであるが、実際には親が子どもに依存している状態である。親は、過保護・過干渉を受け入れてくれる子どもを必要としているのである。こうした環境では、子どもは成長することや自立することは、親の愛と保護を失う恐れと結びつく。このために、無力なままにとどまろうとする心性を形成する。
■「ダメな子ほどかわいい」心理の裏側
過保護・過干渉により無力化されて育てられたために、親に世話を焼かせる以外に、親の愛を得る方法が身に付いていない人がいる。そうした人は、無力さを演じることで、自己価値感を得ようとすることがある。

すぐすねる子、ころんで怪我ばかりする子、しょっちゅうけんかする子、頻繁に体調を崩す子、非行で親を悩ませる子、借金を作ったり、仕事を転々としたり、異性問題を繰り返したりして、いつまでも大人になりきれない人等々。親はこうした子どもを愚痴るけれども、心の隅ではこの関係を歓迎していることが少なくない。
■本心を無視して優しさを褒め続けるとどうなるか
愛情深く良心的な母親は、早い時期からしつけをしがちである。しつけることとは、親の感覚、感情、考え方が、子ども自身のそれらよりも大切なのだと強要することである。このために、親の願いとは裏腹に、子どもは自分が無価値だという感覚を持ってしまう危険がある。
自分を大切にするという姿勢を身に付ける前にしつけられると、エリクソンの言う「早熟な良心」が形成される。早熟な良心とは、自分を大切にすることをないがしろにして、期待される「良心的」行動に埋没してしまうことである。いわゆる「いい子」として表現されるのはこうした子どもである。
たとえば、親は子どもに優しさを育てようとする。思いやりの心を持つように求める。ぬいぐるみを抱っこしているのを見て、「抱っこさせて」と友達が手を伸ばしてきたとき、子どもは一番のお気に入りで大切なぬいぐるみなので「イヤ!」と拒否する。
すると、母親から「貸してあげなさい。
友達には優しくしないとだめよ」と言われる。逆に、自分の本心とは裏腹な「優しさ」を示せば褒められる。子どもは「自分にとって大切」ということは、「優しさ」ほどの価値はないのだ、と受け止めざるを得ない。
こうして早すぎる良心は、自分を無くして他者に奉仕する「厳格すぎる良心」へと発達していく。厳格すぎる良心とは、いつでも他者の快適さを優先して自分を犠牲にしなければならず、自分を大事にしようとすると罪責感にとらわれてしまうような心である。
メサイア・コンプレックスと呼ばれるものは、こうした心理の一種である。それは、自分を無にして他の人のために尽くすことによって初めて自分の価値を実感できる心理である。そうした人のなかには、社会的奉仕活動など崇高な生き方をする人が少なくないが、この心性につけ込む人に利用され、悲劇的な人生を送る人もいる。
■習い事が子ども心に与える悪影響
わが子に早期に教育的環境を与えてあげようとするのは、親の愛情である。ところが、親の愛情や意図とは反対に、有能感や自信よりも無力感や無価値感を育ててしまう恐れがある。
現在の子どもは、徹底的に遊ぶことよりも、習い事を中心に生活が回っているかのような例が少なくない。学研教育総合研究所の『幼児の日常生活・学習に関する調査(2017年)』(幼児白書Web版)によれば、習い事をしている子どもの割合は3歳で23.2%、4歳で39.5%、小学校入学直前である5歳では51.0%に達する。

習い事は、「できるようになった」という表面的な自信、すなわち、状況的自己価値感を子どもに与える効果があるかもしれない。しかし、習い事とは、外的基準に自分を適合させることを求められることであり、今の自分では駄目なので、外の基準に合うよう自分を変えないといけないのだ、という深い信念を植え付けてしまう恐れが強い。
■年長で読み書きができても小1の9月で差は消える
習い事のためには、子どもは遊んでいたいのにそれを中断しなければならない。習い事を継続するには子どもも親も相当な努力と犠牲を要する。しかし、その努力はほとんど報われないこともある。
たとえば、内田伸子の研究によれば、読み・書きを早めに習得させたことで幼稚園の年長のときには読み書き能力が優れていても、その優越性は1年生の9月には消失してしまうことが明らかになっている(『物語ることから文字作文へ』1989年、読書科学)。
また、杉原隆らの一連の研究では、運動指導をすることが多い保育園・幼稚園の子どもほど運動能力が劣る、という驚くべき結果を得ている。自由に思い切り体を動かして遊ぶことで、子どもの運動能力は高まるのであり、幼児の心身の発達とは遊ぶことを通してこそ達成されるのである(杉原隆著『運動発達を阻害する運動指導』2008年、幼児の教育)。

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根本 橘夫(ねもと・きつお)

心理学者

1947年、千葉県生まれ。東京教育大学心理学科卒業。同大学院博士課程中退。千葉大学教授、東京家政学院大学教授を歴任。
東京家政学院大学名誉教授。専攻は教育心理学、性格心理学。著書に、『人と接するのがつらい』(文春新書)、『なぜ自信が持てないのか』(PHP新書)、『「心配でたまらない」が消える心理学』(朝日文庫)などがある。

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(心理学者 根本 橘夫)
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