※本稿は、北野隆一『側近が見た昭和天皇』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■昭和天皇が語っていた戦争への率直な思い
1945(昭和20)年の終戦後、昭和天皇は田島道治ら側近に対し、「勢い」「大勢」という言葉を使って「開戦は止められなかった」との発言を繰り返したことが、『拝謁記』に書かれている。
例えば50年12月26日の『拝謁記』。「兎(と)に角(かく)軍部のやる事はあの時分は真に無茶で、迚(とて)もあの時分の軍部の勢(いきおい)は誰でも止め得られなかつたと思ふ」と天皇は述べた。
52年5月28日には「今回の戦争はあゝ一部の者の意見が大勢を制して了(しま)つた上は、どうも避けられなかつたのではなかつたかしら」と話し、田島が「しきりに勢の赴く所、実に不得已(やむをえざる)ものがあつたといふ事を仰せになる」と追記している。
53年5月18日にもこう語っている。
「私など戦争を止めようと思つてもどうしても勢に引(ひき)づられて了つた(略)結局勢といふもので戦争はしてはいかぬと思ひながらあゝいふ事になつた」
昭和天皇だけではない。開戦直前の41年10月まで首相を務めた近衛文麿も、40年に結んだ独伊との三国軍事同盟は「必然の勢」だと述べていた。
■流れゆく水のようなもの
「勢い」の概念の源流は江戸時代の思想家・歴史家の頼山陽(らいさんよう)にあると論じるのが、濱野靖一郎・島根県立大学准教授(日本政治思想史)だ。濱野は著書『「天下の大勢」の政治思想 史頼山陽から丸山眞男への航跡』(筑摩選書、2022年)で、頼山陽の説く「勢い」をこう説明する。
「それは流れゆく水のようなもので、どちらかに向かうのを止めることはできない。力ずくで押さえこむのではなく、進む方向を認識し、それに沿ったやり方で制御することが必要だ」(84~86頁)
政治学者の丸山眞男は「つぎつぎになりゆくいきほひ[勢い]」という言葉を提示。
濱野は丸山の説明を引き、「戦前の日本では、時勢の流れの前に人は無力であり、時勢の必然ならば、あらゆる人々が全力で順応すべきだとの論理で、『勢い』の概念が成り行きまかせの政治判断・行動を正当化する言説として使われた」(『「天下の大勢」の政治思想史』20~26頁)と解説する。
■軍の首脳がみな開戦を強く望んだわけではない
もちろん、開戦の決定は自然現象ではない。大正デモクラシーを経験した日本で、天皇や政府、軍部が検討を重ねて到達した結論だった。
森山優は開戦への政治過程を詳細に検証した著書『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』で、指導者らが「リーダーシップ不在のまま状況に流されていった」(4頁)と指摘する。
森山によると、開戦にあたっては軍部も政府も一枚岩どころか、バラバラのまま主導権争いをしていた。国策の決定に際し、政策担当者の間で「紙の上の戦い」が繰り返された。本質的な決定を先送りする「非決定(避決定)」や両論併記により、各部署で都合よく解釈できるよう、玉虫色の表現で合意してきた(26~28頁、38~43頁)。
強硬論ももちろんあったが、軍の首脳がみな開戦を強く望んだわけではない。当時の海軍次官が書いた「沢本頼雄日記」などによると、海軍の永野修身軍令部総長は41年7月30日、天皇に「開戦しても勝利の見通しがつかない」と率直に説明。それでも永野が早期開戦論を主張したことに天皇は驚き、「海軍の作戦はステバチ[捨て鉢]的なり」と語っている(森山54頁)。
■「必ず勝つとは申し上げかねます」
9月5日、天皇から「絶対に勝てるか」と問われた陸軍の杉山元・参謀総長は「必ず勝つとは申し上げかねます」と正直に答えたことが、杉山自身が記したメモなどをまとめた「杉山メモ」で明らかになっている(森山66~67頁)。
天皇の強い意向もあって、開戦を避けるための米国との外交交渉が直前まで続けられた。しかし交渉を妥結に導くには、軍や政府の組織内のあつれきが障害となると予想された。
結局、「責任や緊張感の重さに耐えきれず、組織内のリスクを回避しようとして、目先のストレスが最も少ない道として選ばれたのが、最もリスクが大きい『開戦』という選択肢だった」と森山はまとめる。
昭和天皇はなぜ開戦に同意したのか。それまで開戦回避を願っていた天皇の姿勢がはっきり変わったのは41年10月18日に陸軍大臣の東条英機が首相に就任したころからだった、と森山はみていた。
天皇は英国にならって立憲君主的にふるまい、正規の手続きで政策が決定された場合は認めるという原則をほぼ守っていた。それまでの陸軍は、満州事変などで政府の意向を無視して独断で行動したことに加え、青年将校が五・一五事件や二・二六事件といったテロやクーデターを起こし、無秩序な行動を繰り返していた。
■東条英機首相就任というきっかけ
しかし「陸軍トップだった東条が首相となり、軍の統合力が回復した」と森山は言う。「東条は忠臣を絵に描いたような人物で、時には涙を流しつつ誠心誠意説明を続け、天皇の信任を得た」。天皇は政府や軍の内部不一致を指摘することが常だったが、統合力を回復した政府が一致した結論をもって裁可を仰げば、反対する理由はなかった。
かくして天皇は開戦へと傾いていったというのだ。立憲君主的なふるまいは、結局、戦争の「勢い」を止められなかったことになる(森山152~157頁)。
森山の研究は意外な受け取り方をされた。歴史研究なのに、「現代日本の組織でも同じような状況が展開されている」と共感の声が多く寄せられたという(森山215~217頁)。学生からも「登場する軍や政府の幹部がみな『普通の人』だと身近に思えた」との感想を聞いた。
だが、著書にはある種の憤りがにじむ。森山は「それはなかったらおかしいですよ」と言う。
「開戦は日本の軍人・軍属だけで二百数十万人が亡くなる結果をもたらした重大な決定だったのに、指導者らがその重大さを認識していない。当時の日本には、所属事項には責任を持つが全体を考えていない、中途半端な責任感を持った人間しかいなかった」
■昭和天皇の微妙な心情が分かる日記
百武三郎の日記の史料価値は何だろうか。古川隆久は「木戸日記ではわからない昭和天皇の様子が書かれていること」をあげる。
木戸幸一は百武が侍従長を務めていたのと同時期の1940(昭和15)年から45年にかけて、最側近の内大臣として天皇の政務を補佐した。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として訴追されたことから、戦前・戦中の日記を証拠として法廷に提出する。これがもとになって66~80年、『木戸幸一日記』として出版された。
木戸の日記は戦中・戦後の天皇・宮中の足跡をたどる最重要史料の一つとされてきた。
太平洋戦争開戦後の42年6月5~7日、中部太平洋の制海権を争ったミッドウェー海戦で、日本は主力空母四隻と熟練航空兵多数を失う大敗を喫した。8日に天皇に会った木戸は日記に「天顔(てんがん)を拝するに神色自若(しんしょくじじゃく)として御挙措(きょそ)平日と少しも異(ことな)らせ給わず」として、天皇の表情や挙動が平然とした様子をつづった。
しかし百武は同日の日記で「平静に拝せるも御血色御宜しからず」と書き、天皇の顔色の微妙な変化を感じ取っていた。
■海外の情報を天皇に伝える役割
42年8月から43年2月にかけての南太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島争奪戦でも、百武は42年8月28日、「『ソロモン』戦意の如くならず御軫念[心配]拝察し奉る」と書いた。
天皇は苦悩するとしばしば独りごちた。百武は42年9月16日、「大声 何か推論あらせらる 『ソロモン』作戦の失敗に因するか」として、攻撃失敗の報告を受けて大声で独り言を口にする天皇の様子を記している。
百武は天皇の身の回りの世話だけでなく、政治・軍事情報、とくに海外の情報を天皇に伝える役割をも果たしていた。
開戦後の百武日記には「短波放送は宣伝戦にして之を一々御覧あるは有害無益なるに付、従来通り侍従長より撰択の上聖聴に達することに奏上[天皇に伝達]済」(42年1月30日)とあり、外国の短波放送を聞き取った内容については、侍従長が内容を選択して天皇に伝える役割であることが書かれている。
この日の前後にも、「短波放送中参考となるもの訳文奉呈のこと」(1月27日)、「英米攻勢作戦極秘文書須磨公使入手の分、訳文上呈」(4月28日)といった記述が散見される。
■宇垣内閣流産後に抱えたジレンマ
43年3月18日には「短波の『ヒツトラー』神経疲労放送に付言上せるに、其責任の重大に鑑み事実なるやも知れずと同情的御言葉あり」とある。ドイツのアドルフ・ヒトラーが神経疲労であるとの短波情報を伝えたところ、天皇がヒトラーに対して同情的な発言をしたことも記されている。
山田朗は『増補 昭和天皇の戦争』で「陸軍が慣例として侍従武官長を握っていた関係で、昭和戦前期の侍従長は、海軍上層部とのパイプ役、国際・軍事情報や海軍戦略に関するアドバイザーという、いわば第二侍従武官長としての役割も期待されていたと考えられる」(296頁)と分析した。
これに対し、吉田裕(ゆたか)・一橋大学名誉教授は「侍従長はやはり天皇の身の回りの世話が基本だったのであって、軍事的役割は副次的・部分的なものではないか」と言う。
百武は海外の政治や戦争の情勢について天皇のための情報を把握する立場にいた。しかし宇垣内閣問題以降は、政治的な行動をしないよう制されていたため、もどかしさやジレンマを感じていたようだ、と茶谷誠一は指摘する。
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北野 隆一(きたの・りゅういち)
朝日新聞記者
1967年、岐阜県生まれ。90年に東京大学法学部を卒業し、朝日新聞社に入社。新潟、宮崎県延岡、福岡県北九州、熊本の各市に赴任し、東京社会部デスクや編集委員を経て現在、社会部記者。皇室のほか、慰安婦問題などの戦後補償問題、拉致問題などの日朝・日韓関係、水俣病、ハンセン病、在日コリアン、人権・差別などの問題を取材。著書に『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』(朝日新聞出版)、『プレイバック東大紛争』(講談社)など。
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(朝日新聞記者 北野 隆一)