「よそ者扱い」されていじめられた桑原千絵さんは、同じ立場の嫁を7人集めて「自助グループ」を作った。グループ作りが得意な千絵さんは、91歳になるまで、その後も、さまざまなふれあいグループを立ち上げる。
長野県北部地震の際には、避難所の食事が口に合わない年寄りのために、手作りの料理を運んだ。そのメニューとは――。
■いじめに耐える嫁を集めて自助グループを作る
長野県の最北端に位置する、人口1565人の山村・栄村に、村民なら誰もが知る女性がいる。桑原千恵さん、91歳だ。千恵さんは、栄村の広報誌で「栄村の名人」として紹介されている。「人との繋がりを大切にして伝統料理の会や手芸を楽しむ会を主催している」〔「広報さかえ」(栄村役場、2024年9月)〕という人物だ。
雨の日以外は山の畑に通い、10数種の野菜を育てる日常の傍ら、月に1度は、午前中に「郷土食」を作る料理教室、午後は手芸活動を行う会を立ち上げ、その中心的存在として活動を担っている。
栄村は「長野県北部地震」の被災地でもあるが、避難した長野市から定期的に通っては「郷土食」を作って避難所に届ける活動を、一人で行った過去もある。
千恵さんの人生には、「仲間作り」が欠かせない。そのきっかけは1956(昭和31)年、新潟県十日町から嫁いできた千恵さんが浴びた、姑からの嫁いじめだった。千恵さんは嫁いじめに耐える近所の嫁たち7人と、今で言う「自助グループ」を立ち上げ、お互いの理不尽を分かち合うばかりか、生活改善活動も行っていく。ここで仲間作りの楽しさを知った千恵さんは、さまざまなグループを立ち上げ、仲間作りに邁進していくことになる。

■「おふくろの味」を掘り起こす
さて、栄村に嫁いだ千恵さんは程なく、栄村は故郷より農閑期が長いことに気がついた。そこで農閑期の現金収入として、千恵さんが注目したのが機織りだった。
「当時、十日町の機屋の景気が良くて、十日町の会社が栄村に機織り機を100台も入れたんですよ。この集落だけで8人、私が機織りを教えたんです。結構いい現金収入になりました。『おかげで、子どもを高校に入れることができた』って感謝されたりしてね。30代から20年、機織りをしました」
子どもたちの手が離れ、「お母ちゃん盛り」を卒業した50代、千恵さんは、「お袋の味研究会」というグループを立ち上げた。「お母ちゃん盛り」とは、子育てが一段落した40代以降の女性を指す。いわば、“ベテラン・ママ”と言ったところだ。
「グループを作った時、『叩いてみよう! おばあちゃんの知恵袋』なんて言って、おばあちゃん達に昔からの料理を教えてもらって、昔の味の掘り起こしをみんなでしたの。『あんた、あのおばあちゃんに聞いてきて』って呼びかけては、あっちのおばあちゃん、こっちのおばあちゃんのところに行って話を聞いてくる。まあ、それがとても面白かった」
栄村の伝統食を千恵さん達はどんどん学び、吸収していった。

「『みの干し大根』なんて、初めて知りました。大根を短冊に切って、藁で編んで、軒下に干すんです。それが乾くと、蓑の形になるから、『みの干し大根』。みの干し大根の作り方とか、きゃらぶき、栃餅の作り方とかを、今の私ぐらいの年寄りから教わったんです。十日町にいた頃には接していないものばかりで、新鮮でしたね」
■村長に何度も直談判して食品加工場を作る
その活動の集大成が、2008(平成20)年発行の「栄村食の宝 ばぁのごっつぉ うんめぇ~のし ハレのひ ケのひ」(発行/栄村食文化レシピ編集委員会)というレシピ集だ。千恵さんはここに、監修者として名を連ねている。
この「昔の味」を惣菜に加工して、姉妹都市の東京都武蔵村山市や横浜市栄区のイベントに持っていくと、非常に喜ばれた。そして、千恵さんは村長に、食品加工場を作ってほしいと直談判をした。
「当時の高橋彦芳村長に、ちゃんとした施設がないと食品の販売ができないから、加工場を作ってくれって言ったんだけど、『そんなものを作っても、使い切れるのか』って怒られて。一時、しょぼんとしてたんだけど、何回も村長に会いに行って、加工場を作ってもらうように頼んだの。言いに行くたびに怒られて、それでも『作ってくれ』って何回もお願いして、村長も根負けしたのかな。とうとう現在の加工場を作ってくれることになったの。
作ってもらうまで、私、諦めなかったからね」
■次々と広がる仲間作り
「きゃらぶきを作って真空パックにして販売したり、味噌を作ったり。味噌は自分たちで大豆を作って、豆と塩と麹だけで、添加物は一切使わない。そういうことも、自分たちで決めたの。大豆も、『エンレイ』という品種じゃなくっちゃ、だめだって。エンレイは芽が黒くないから、きれいな色の味噌になるんです」
これが、「惣菜加工グループ」だ。このグループは「母ちゃん家(ち)」という、直売所も立ち上げた。その後、餅作りを共同で行う「餅加工グループ」も作ることとなった。
「自分の家の餅だけでも共同で作ろうかって思って、『どうだい?』って声をかけたら、7人集まって、7人の流れ作業で正月用の餅を作ったのが、『餅加工グループ』の始まり。それから、『うちの分も、やってくれねえか』って、どんどん広まっていった」
千恵さんの仲間作りの秘訣は、決して強制しないこと。
「会った時に、『こういうことをしてんだけど、どうだい? お茶飲みに、寄らっせ』って、『どうだい?』から始まって、一回出てみて、楽しかったら続けてください。嫌なら、しょうがないっていう感じです。見学に来た県の人が、『何とも、ほんわかしたグループだねー』って言ってましたね」
食品加工場を作ることにした高橋村長も、千恵さんのほんわかした笑顔に降参したのかもしれない。

ところが、こうした千恵さんたちのささやかな試みを、容赦なく押し潰したのは、2011年、東日本大震災の直後に起きた「長野県北部地震」だった。
■震災の避難所に郷土食を届ける
地震発生は3月12日、午前3時59分。未明の栄村を、震度7に近い激震が襲った。秋山地区を除く栄村全域(804世帯2042人)に避難指示が出た。幸い地震による死者はいなかったが、避難生活中に3名が亡くなった。
千恵さんの自宅は半壊状態となり、千恵さんは、避難所から自宅に戻ることができず、長野市に住んでいる長男のもとに身を寄せた。
「年寄りに避難所暮らしは大変だから、みんな、村を出ている子どものところに行っちゃった。福寿草グループも全員、バラバラになった」
若い時から支え合って生きてきたグループの面々と、顔を見ることすら叶わなくなるなんて思いもしないことだった。地震で受けたすさまじい恐怖、苦しかった避難所生活……、分かち合いたいことは山ほどあったのに、どれほどの苦渋の思いで栄村を後にしたことか。ただし、千恵さんは失意に沈み込むだけの人間ではない。ここから、千恵さんの面目躍如となる。
千恵さんの長男は一級建築士で、震災後、定期的に栄村での被害調査を行っていた。

「その時に、私も一緒に来るの。自宅に入れないから、外にある車庫でプロパンガスを使って、越冬用に保存していた野菜を雪の下から取り出して、おかずを作ったの。それを一人分ずつパックにして、避難所に届けたの」
■「おまえんちの婆さんのおかげで、まんまが食えた」
作ったのは、栄村の人たちが昔から食べていた馴染みの野菜料理だ。
「『白菜のちん』って、知らないよねー。この辺では当たり前に作るんだけど、白菜を茹でて絞って切ったところに、フライパンで醤油と油を熱したのをじゃーっとかけるの。ネギのヌタ、ジャガイモの煮っ転がし、こんにゃくのピリ辛とか、手間のかからないことをして。
年配の人たちは避難所の弁当に飽きちゃって、トンカツとか焼肉とか苦手な人も多いし、野菜をご馳走したいなって思ったんです。飽食の時代になってからのものは、口に合わないって言うからね。年寄りが昔から食べてきた野菜料理なら、ごはんが食べられるはずだから。だから、村に来るたびに作っては避難所に運んで、その年、うちの越冬用の野菜は全部、使い切りました」
千恵さんの次男はつい最近、年配の人に声をかけられた。
「おれは、おまえんちの婆さんのおかげで、まんまが食えたんだ」
避難所のお年寄りが喜んで食べた野菜料理を、千恵さんは「郷土食」と呼ぶ。
「その土地の人が普段から食べ続けている当たり前の食、それが郷土食だと私は思っている。
年寄りが昔から食べてきた料理、その土地の野菜で作る普段食、こういうのが郷土食っていうのかなー」
■地震で途切れた絆を、再び
「地震から1年経って、仮設(住宅)ができたり、家を修理したりして、みんな帰ってくるようになったの。顔を見たら、うれしくなっちゃって、みんな揃ったから、お茶飲みをしようじゃないかと作ったのが、現在のグループ。それが、もう12年続いている。名前は、『森ふれあいの会』。森はここの地区の名前で、ふれ合っちゃたから、ふれあいの会」
やがて、お茶飲みだけではつまらないから、何かやろうということになった。たまたま、手芸好きの人がグループにいた。
「災害でみんな、『怖かったなあ』、『つらかったなあ』っていう思いがあって、それで吊るし雛を作ることにしたの。集まるたびに、今日は猫ができた、この次は鳥にしようか、赤ちゃんにしようかって。ひと冬かかって42の吊るし雛を作ったものを、役場でやった復興イベントの時にお披露目したの」
「森ふれあいの会」は今、30代から90代まで、総勢14人のメンバーで構成されている。開催は毎月、第2木曜日。午前中は千恵さんの野菜を使って「郷土食」をみんなで作り、それをお昼に食べ、午後は手芸をするという活動を行っている。
30代の若いメンバーは、移住者が多い。小さな子どもを持つ子育て世代だったり、「地域おこし協力隊」として外から栄村に来ている人たちだったりする。
■「よそ者扱いは絶対にしません」
「自分が若い頃、よそ者扱いをされたから、移住者の方にそれは絶対にしません。やられたからこそ、絶対にしない。仲間として、みんなでうまくやっていきましょうって」
代々続いた村の悪習は、千恵さんの代で断ち切られたのだ。
村では移住・定住のための相談窓口を設け、移住促進を図っている。実際に、栄村の豊かな自然や、のびのびした環境を求め、移住者も増えている。加えて栄村では子ども1人ひとりの育ちを大切にする学校教育を行っており、そうした学びをわが子にさせたいと移住してくる子育て世帯も少なくない。
そのような人たちにとって縁もゆかりもない、慣れない土地での田舎暮らしに、千恵さんたちの会がどれほど大きな支えとなっていることか。「ふれあいの会」は今、移住者にとって、村に溶け込み、さまざまな年代の人たちと出会い、ふれ合うことができる、得難い居場所となっている。
「ふれあいの会は楽しいし、この歳になっても、学ぶことが多いんですよ。人付き合いにしても、お昼の味付けにしても。私の母はよく、『出て、学べ』って言っていたんだけど、この歳になって、そういうことなんだなーって思うんですよ」
■繋がって生きていく豊かさ
千恵さんは「今が、最高。幸せ」と、屈託なく笑う。好き嫌いなく何でも食べ、これまで大病をしたこともない。腰が曲がったことで胃が圧迫され、胃もたれするから常備薬として胃薬は飲んではいるものの、それ以外には薬もほとんど飲むことはない。
今もボランティアとして栄中学校に出向いては、野菜作りの指導を生徒たちに行っている。それもまた、面白いと笑う。「いろんな生徒がいるからねー」と。
「山の空気を吸っているんで、長生きしてんのかなー。朝は、本当に気持ちがいいの。朝日が登ってくると、『今日も1日、務まりますように』って、手を合わせてお願いしてね」
千恵さんは取材に際し、ふれあいの会で収穫した菊芋を粕漬けにした手料理を、タッパーに入れて持ってきてくれた。シャキシャキの食感が抜群で、粕の風味で食べる菊芋はとても新鮮だった。そしてお茶目に笑って、「こんなのを作っては、遊んでいるんだよ」と取り出したのは、手製の民芸品「さるぼぼ」。
「猿は、子育てが上手。『ぼぼ』は、赤ちゃんのこと。昔、小さい子どもはみんな、さるぼぼをおんぶして、遊んでたの。大きい子は子守りをするのが当たり前だから、それを真似して、一人前に、子守りのようにしてさ」
残り物の生地で作ったという「さるぼぼ」は、ほっこりとした癒やしに満ち溢れている。それはまるで、千恵さんの存在そのものだ。
常に地域やさまざまな人たちと繋がって、共に生きていく営みの豊かさを、千恵さんの人生は見事に体現していた。

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黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)

ノンフィクション作家

福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)、『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)などがある。

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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)
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