■戦後すぐに「女性重役」を描いたやなせたかし
日本橋三越本店の1階中央ホールで、「やなせたかしと三越」展が開かれていた。三越伊勢丹ホールディングスが所蔵するやなせさんの描いたポスターや社内報、イラストが初公開されていると知り、最終日前日の9月1日に足を運んだ。
朝ドラ「あんぱん」は、やなせさんがモデルの柳井嵩(北村匠海)と妻・暢さんがモデルののぶ(今田美桜)の物語。20週でいずみたくさんがモデルのいせたくや(大森元貴)が、「柳井さんが描いた三星劇場の舞台のポスターを見たことがある」と言っていた。会場には、やなせさんの描いた三越劇場のポスター3点が並んでいた。明るく楽しく、少しも古びていなかった。
その後ろにあったのが、三越社内報「金字塔」にやなせさんが描いた連載漫画「みつ子さん」だった。パッチリした目のみつ子さんは、のぶというか今田美桜さんというか、とにかく似ていて驚いた。が、もっと驚いたのが、初回の内容だった。
掲載されたのは1948年9月の4号。1コマ目でみつ子さんが「今月号から活躍します どうぞよろしく」と挨拶する。
■職場の女性を“同僚”と見るか否か
繰り返すが、掲載は1948年だ。占領下、やなせさんはオール三越従業員に、「女性重役」の誕生を宣言している。すごすぎる&これぞやなせさんだと、頬が緩んだ。というわけでここからは、働く女性から見たやなせたかし論を書こうと思う。
昭和から平成にかけて長く会社員をしてきた私が自信を持って言うのだが、職場における男性には「やなせさん」か「非やなせさん」の2種類しかいない。
「やなせさん」は女性を「同僚」として見る。頭で「同僚だよね」と確認するのでなく、普通に同僚と認識する。つまりやなせさんにとって「女性重役」は突飛なことではなく、そういう日がくると思ったから描いたのだろう。
「非やなせさん」はそうはいかない。
みつ子さんを見て、「アンパンマン」の人気の秘密がわかった気がした。子どももおらず、働いてばかりだったので「アンパンマン」をほとんど知らなかったのだが、「みつ子さん」が教えてくれた。
■「おんな」も「子ども」もない
やなせさんは、「子ども」を下に見ていない。「おんな子ども」という表現があるように、女性も子どもも世間からは低く見られる存在だ。でもやなせさんにとっては、どちらも低くない。一緒に働く相手に男性も女性もないし、読者に大人も子どももない。えっへんと描いたものでないから、「アンパンマン」は子どもの心にすっと入っていく。
そしてもう1人、「おんな子ども」を下に見ない「やなせさん」が、やなせさんの近くにいた。サンリオ創業者で現名誉会長の辻信太郎さんだ。
「あんぱん」で辻さんは、八木信之助(妻夫木聡)という嵩の人生に大きな影響を与える人物として描かれている。それに合わせ辻さんの人生もいろいろと紹介され、語り部役を担っている1人がノンフィクション作家の梯久美子さんだ。
梯さんは北海道大学を卒業してサンリオに入社、やなせさん「責任・編集」の雑誌「詩とメルヘン」編集部で働いた。辻さんもやなせさんも知る立場で、書き語っている。私は梯さんを通して、辻さんが「やなせさん」だと知った。
■誰にでも“さん付け”だった
辻さんとやなせさんの関係を整理すると、その縁はキャンディーから始まっている。「かわいい」をキーワードにしたビジネスを始めていた辻さんは、不二家に納入するキャンディーの容器をデザインするようやなせさんに依頼する。文学青年だった辻さんはやなせさんが自費出版した詩集を見て、銀行や社員の反対を押し切り、会社に出版部を作ってしまう。出版第一号がやなせさんの『愛する歌』だったことは「あんぱん」でも描かれた。1966年のことだ。
「詩とメルヘン」の創刊は1973年。
梯さんは入社1年目に辻社長の秘書をし、2年目に「詩とメルヘン」編集部に異動した。『NHKドラマ・ガイド あんぱん Part2』(NHK出版)のインタビューでは、辻さんから「梯さんは『詩とメルヘン』がやりたくて津軽海峡を越えてきたじゃんね!」と甲府弁で言われたと語っている。そして、やなせさんのことは〈誰に対しても名字に“さん付け”で呼びかけ、フラットに接する方でした〉と言っていた。
■辻社長もやなせたかしも“稀な男性”
辻さんからも、やなせさんからも「梯さん」と呼ばれていた梯さん。とても幸せだったと思う。なぜなら昭和という時代、職場で女性はかなりの確率で下の名前で呼ばれていた。梯さんなら「久美子」または「久美ちゃん」あたり。男性が下の名前で呼ばれることはほとんどないわけで、「舐めんなよ」という話だが、それが昭和だったのだ。この「さん付け」エピソードだけで、辻さんもやなせさんも職場では得難い存在の男性だったことがよくわかる。
辻さんは1975年4月に「いちご新聞」を創刊、サンリオショップなどで販売する。私はサンリオキャラクターの大ファンというわけではなかったが、その新聞の名前は知っていた。地元で子どもの頃から優秀で知られていた3つ年上のお姉さんが、東京の有名大学を出てそこに就職したと聞いたのだ。お姉さんの優秀伝説は、それでますます高まった。
辻さんは「いちご新聞」第1号から、「いちごの王さまからのメッセージ」をずっと書いている。2025年8月8日発売の9月号は創刊50年特集で、前年末に97歳になった王さまはこう書いていた。
今年はいちご新聞50周年の記念の年なので、いちご新聞編集局のお姉さんたちは張り切って特集を組んだり、取材をしたりしています。王さまは、その様子を見て、「いちご新聞の創刊当時は大変だったなぁ。いちご新聞の草創期を支えたいちご新聞のお姉さんたちもきっと、50周年を喜んでくれていることだろう」と昔のいちご新聞編集局のことを懐かしく思い出していました
■画期的だった「現代女性詩人叢書」
私の近所にいたリアルお姉さんは、草創期を支えた「お姉さんたち」の1人だった。梯さんや私よりもっと前に就職活動をした女性にとって、サンリオは遠くにともる灯台みたいなものだったに違いない。しみじみとした気持ちが心に広がった。
梯さんは「あんぱん」のスタートに合わせ、『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文藝春秋)を出版した。
辻さんが「やなせさん」だったことを表すエピソードだと思った。辻さんは「女性詩人の叢書を作って、詩壇と出版界に一石を投じよう」ではなく、「男性も女性も詩人じゃんね!」な気持ちだったと思う。そして梯さんも、私と同じ目で辻さんを見ていたはず――と、どちらも勝手な見立てだ。
■「みんなが仲良くなるにはどうしたらいいだろう」
辻さんは毎年、いちご新聞8月号に戦争のことを書く。
王さまは、このあまりにも悲しくてつらい記憶をずっと自分の胸に潜めて生きてきましたが、体験者として「戦争は二度と起こしてはならない」ということをいちごメイトのみなさんには伝えておかなくてはと思い、数年前からこの8月号のいちごの王さまからのメッセージに戦争体験を書くようになりました(24年8月号)。
桐生工業専門学校(今の群馬大学)の1年だった辻さんは1945年7月6日、帰省していた甲府市の実家で大空襲に遭う。妹をおぶって逃げながら見た光景、1127人が亡くなったこと、そして「どうして何も悪いことをしていないのに、爆弾を落とされて殺されるのか」という疑問を大人にぶつけても「戦争だから仕方がない」としか返ってこなかったこと。繰り返し書いている。
25年8月号には、戦争の話からサンリオの企業理念を書いた。
王さまは戦争を体験してから、「あんな悲惨でつらいことはもう二度と繰り返してはいけない。みんなが仲良くなるにはどうしたらいいだろう?」ということばかり考えてきました。(略)そんな考えで、キャラクターを考えたり、商品を企画したり、グリーティングカードを作ったり、ピューロランド、ハーモニーランドを作ったりしました
戦争を経て、「みんなが仲良くなる」ことを考え続け、サンリオを経営した辻さん。「ひっくり返らない正義」を考え続け、「アンパンマン」を描いたやなせさん。人生をかけて問い続ける2人には、男も女もないのだと思う。
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矢部 万紀子(やべ・まきこ)
コラムニスト
1961年生まれ。83年、朝日新聞社に入社。宇都宮支局、学芸部を経て、週刊誌「アエラ」の創刊メンバーに。その後、経済部、「週刊朝日」などで記者をし、「週刊朝日」副編集長、「アエラ」編集長代理、書籍編集部長などをつとめる。「週刊朝日」時代に担当したコラムが松本人志著『遺書』『松本』となり、ミリオンセラーになる。2011年4月、いきいき株式会社(現「株式会社ハルメク」)に入社、同年6月から2017年7月まで、50代からの女性のための月刊生活情報誌「いきいき」(現「ハルメク」)編集長。著書に『笑顔の雅子さま 生きづらさを超えて』『美智子さまという奇跡』『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』がある。
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(コラムニスト 矢部 万紀子)