秋篠宮家の長男、悠仁さまは9月6日、成年式に臨まれた。今後、皇位継承問題はどうなるのか。
皇室史に詳しい宗教学者の島田裕巳さんは「成年皇族として威厳に満ちた姿を国民に見せたが、今後も凜々しい姿を示せるかどうかが、皇位継承問題の決定的な鍵になる」という――。
■成年式が印象づけた皇位継承問題の深刻さ
9月6日、秋篠宮家の悠仁親王の成年式が執り行われた。成年式の中心となる「加冠の儀」についてはNHKで生中継されたが、それを見ていた私の脳裏には、「もしかして成年式はこれが最後になるのかもしれない」という思いが湧き上がってきた。
悠仁親王が成年式を迎えたことで、皇室からは成年に達していない皇族は一人もいなくなった。次に成年式が行われるとすれば、悠仁親王が結婚し、男子をもうけてからである。そこからも最低で18年の月日が必要である。
悠仁親王はまだ19歳で、大学の1年生である。大学生活は4年間続き、その後には、留学も予定されている。結婚は、どんなに早くてもその後だろう。そこまで、これから6年以上ある。
しかも、結婚は相当の難事業になることが予想される。はたして悠仁親王との結婚を考える女性は現れるだろうか。
たとえ、結婚がかなったとしても、その家庭に男子が生まれる保証はない。そうなれば、成年式が行われることはない。
今回の成年式は、皇位継承の問題が深刻な状態にあることを改めて印象づけた。実際、皇位継承の可能性があるのは、第1位の秋篠宮、第2位の悠仁親王、そして、上皇の弟にあたる第3位の常陸宮だけである。その常陸宮正仁親王は89歳の高齢であり、今回の成年式にも姿を見せなかった。
しかし、その一方で、成年式に臨んだ悠仁親王は、成年皇族として威厳に満ちた姿を見せた。進学した筑波大学では、同級生ともなじみ、楽しそうにキャンパスライフを送っていると伝えられている。ファミリーレストランや牛丼屋で食事をとり、カラオケにも興じており、庶民的なところを見せているが、成年式の佇(たたず)まいは、それとはまったくかけ離れたものだった。
■堂々とした姿に悠仁親王を見直した
成年式のような重要な儀式は、一つのドラマとしての性格を持っている。その場に集った人々の視線も、テレビでそれを見つめる一般国民の視線も、儀式の当事者に注がれる。成年式を挙げるにあたっては、悠仁親王も十分な準備を重ね、念入りにリハーサルもこなしてきたことだろう。
だがそれは、人生における一大事であり、しかも一生に一度のことである。
当人が緊張しないわけはない。それでも、悠仁親王は立派に主役を演じ、天皇夫妻に対して成年皇族としてのつとめを果たすと挨拶をしたところでは、そこに相当の覚悟が秘められていることを感じさせた。
「これなら将来において皇位を継承しても、十分にそのつとめを果たすに違いない」。そのように、悠仁親王のことを見直した国民も少なくなかったのではないだろうか。
成年に達していない段階では、皇族が国民の前に姿を現す機会はそれほど多くはない。まして言葉を発することもほとんどない。今年の3月3日には、前年の9月6日に18歳の成年を迎えたことを踏まえ、記者会見にも臨んでいる。
その際、本人として緊張していると答えてはいたものの、受け答えは堂々としたものだった。今回の成年式での挨拶も、そうした印象をさらに強めるものとなった。
■通過儀礼を果たした成長の証しとは
成年式を終えた悠仁親王は、8日には伊勢神宮を参拝し、神武(じんむ)天皇稜にも赴いている。成年式を終えたことを祖神と初代天皇に報告するためだ。10日には、昭和天皇が眠る武蔵野陵も参拝している。

現代においては、天皇や皇族が重要な節目に伊勢神宮に参拝することは恒例になっている。だが、明治時代以前には、そうしたことはなかった。伊勢神宮に参拝すること自体、天皇も皇族も行ってはいなかった。
唯一の例外が平安京遷都をなしとげた皇太子時代の桓武(かんむ)天皇である。なぜ、代々の天皇や皇族が、祖神が祀られている伊勢神宮に参拝しなかったのかは、皇室の歴史を考える上で一つの大きな謎だが、明治以降はむしろそれが慣例になっている。
悠仁親王は、2022年10月に私的に伊勢神宮を参拝していた。その際は、スーツ姿だったが、今回は、シルクハットを手に、モーニングの正装で参拝している。最初は外宮(げくう)、次に内宮(ないくう)に参拝したが、沿道では、日の丸を手にした市民に歓迎された。
神武天皇稜のある近鉄大和八木駅でも、市民からの歓迎を受けたが、それに対して悠仁親王は「ありがとう」と答えていた。19歳の青年がモーニングに身を包むことはあまりないことだが、一人それで参拝に訪れる姿は、成年式という重要な通過儀礼を果たしたことによる成長の証しとなっていた。
■成年式を与えられない愛子内親王
神武天皇が実在したかについてはそもそも議論があるところだが、御陵の位置は『古事記』では、「畝(うねび)火山の北の方の白檮(しらかし)の尾の上にあり」とされていた。『日本書紀』でも、畝火山の東北とされていた。

しかし、江戸時代の末期になるまで、その場所は特定されていなかった。候補地はあったが、そこはどこも荒廃したままになっていた。現在の地に定まったのは、明治天皇の父である孝明(こうめい)天皇が行幸することになってのことである。
男性皇族の場合には、成年式があり、その後に、その報告のため、伊勢神宮、神武天皇稜、武蔵野稜を参拝することが慣例になっているわけだが、成年式という機会を与えられない女性皇族の場合には、ではどうなるのだろうか。
実はそこに重要な違いが見られるのだが、その点について愛子内親王の場合と比較してみたい。
愛子内親王が単独で伊勢神宮などに参拝したのは、2024年3月下旬のことだった。それは、学習院大学を卒業したことと日本赤十字社に就職したことを報告するためであった。成年式ではなく、大学卒業が節目となったわけである。
伊勢神宮の翌日には神武天皇稜にも参拝しているが、実はその前に、同じ三重県の明和町にある「斎宮歴史博物館」と「いつきのみや歴史体験館」に立ち寄っている。いずれも、国の史跡に指定されている「斎宮跡」に設けられたものである。今回、悠仁親王はそこには立ち寄っていない。その違いは大きいのだ。

■愛子内親王が皇室を離れた場合の行く末
斎宮については、拙著『』(プレジデント社)の第五章「天皇家に生まれた女性の栄光と悲劇」でも詳しく触れたが、斎宮とは、伊勢神宮の祀り手となる斎王として仕える内親王や女王が生活した場所のことである。愛子内親王が訪れた博物館と体験館の展示からもわかるように、斎宮では、京の宮中と同様の雅(みや)びな暮らしが送れるようになっていた。
斎王の歴史は、室町時代に途切れるまで、650年以上の歴史を重ねていた。それに似た制度は京都の賀茂神社にもあり、そちらは斎院と呼ばれた。愛子内親王が大学の卒業論文で取り上げた式子(しょくし)内親王は、賀茂斎院となった経験を持っていた。
これは前述の拙著でも述べたが、戦後、伊勢神宮が国の手から離れ、民間の宗教法人「神宮」となった後、その祭主には、結婚して皇室を離れた元内親王が就任することが慣例になってきた。
ということは、愛子内親王が結婚し、皇室を離れるならば、伊勢神宮の祭主となる可能性が十分に考えられるわけである。現在の祭主は、天皇の妹である黒田清子(さやこ)氏である。はたして愛子内親王が斎宮跡を訪れたとき、その点について思いをめぐらしたかどうかはわからないが、博物館や体験館の展示が興味深いものに映ったことは間違いないであろう。
■注目される悠仁親王の参賀デビュー
将来において、悠仁親王が天皇に即位し、愛子内親王が結婚して伊勢神宮の祭主となったとしたら、祭主は、天皇に成り代わってその捧げ物である「懸税(かけちから)」の奉納を行うようになるはずである。
そこに、天皇に即位する可能性のある親王と、現在の皇室典範の規定ではその可能性のない内親王の立場の違いが示されていることになるが、今回の成年式以降、その違いがますます明確になっていく可能性が考えられる。
来年2026年の正月には皇居で一般参賀が行われるが、悠仁親王もそれに参列することになるであろう。
愛子内親王の場合は、2023年がデビューで、それは22歳のことだった。遅れたのはコロナ禍で参賀自体が行われなかったからである。悠仁親王の参賀デビューは、大いに注目されるであろう。
愛子内親王が皇族の一員として公務を精力的にこなすようになったのは、大学を卒業してからのことである。悠仁親王は、大学在学中からより積極的に公務にいそしむようになるのではないだろうか。皇室の存続には国民の支持が不可欠である。将来の天皇ということであれば、早い段階から国民と親しく接していく必要がある。
■「愛子天皇」待望論を超えられるか
その際の“難敵”は、一般の国民の間に広がっている「愛子天皇」待望論である。
天皇直系の愛子内親王より、傍系ではあっても悠仁親王のほうが天皇にふさわしい。そうした世論を形成することはかなり重要なことであるはずだ。
最近宮内庁はインスタグラムをはじめているが、そこには成年の装束である「縫腋袍(ほうえきのほう)」などを身にまとった悠仁親王の姿が掲載されていた。それに対して、ネット上では、「美しい」「高貴で凛々しい」「平安絵巻そのもの」といった、その姿を感嘆する声が相次いだと伝えられている(「まいどなニュース」9月8日)。
愛子天皇待望論が鎮静化するためには、これからも悠仁親王が凜々しい姿をいかに国民に示せるかが決定的な鍵になる。それが、本当の意味で、悠仁親王にとっての通過儀礼になるのではないだろうか。

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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)

宗教学者、作家

放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。

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(宗教学者、作家 島田 裕巳)
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