■「石垣上に高層の天守」はここからはじまった
城といえば、高い石垣上にそびえる高層の天守を思い描く人が多いと思う。だが、全国に3万以上あったという城の大半は、空堀を掘った土で土塁を築いた軍事施設であり、立派な建物とも無縁だった。そんな日本の城のあり方にコペルニクス的転回をもたらしたのが、織田信長が築いた安土城だった。
石垣を城全体にめぐらせ、山上には高層建築「天主」がそびえ立った(安土城と岐阜城のものは「天守」でなく「天主」と表記する)。多くの建物に瓦が葺かれた城も、それまでの常識からすると異例で、一部の瓦には金箔が貼られた。石垣もそれまでのように土留めではなく、その上に建造物が建った。毎日、何万という人を動員しながら3年も費やして築かれたこと自体、エポックメイキングだった。
信長は自身の天下統一のシンボルとして、戦闘目的の城とは発想が異なる「見せるための城」を出現させた。「石垣上にそびえる高層の天守」はここからはじまった。だが、完成からわずか3年後の天正10年(1582)6月2日、信長が本能寺で明智光秀に討たれると、中枢部分は同月14日から15日にかけて炎上し、灰燼に帰してしまった。
安土城天主はどんな姿をしていたのか。
■最上階は中も外もすべて金
「真中には、彼らが天守(ママ)と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている」
「外部では、これら(七層の)層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている」
「この天守は、他のすべての邸宅と同様に、われらがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦には金色の丸い取付け頭がある」(『完訳フロイス日本史』松田毅一、川崎桃太訳、中公文庫)
信長の旧臣、太田牛一の『信長公記』の記述で補うと、6階は八角堂で外柱は朱塗り、内柱はすべて金で装飾され、内部は釈門十大御弟子や釈尊成道御説法などの仏画で飾られ、縁には餓鬼や鬼が描かれていた。最上層の7階は、外側も内側もすべて金で、座敷内は三皇、五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢などの絵で覆われていた。一方、下層の障壁画は、花鳥や賢人が描かれていたという。
■「インドにはこのような城があるか」
その後、安土城をモデルに、各地の城にシンボルとして天守という高層建築が建てられるようになった。ただ、その後の天守と安土城の天主との間には、大きな差異がある。
日本には12の天守が現存するが、いずれも室内には装飾がほとんどない。
じつは、信長だけは天主に居住したと考えられ、内装は御殿のように飾られたのである。では、なぜ信長は、天主なる高層建築を建てようと思ったのか。昭和51年(1976)、建築史家の内藤昌氏が、加賀藩の作事奉行を務めた家から見つかった「天主指図」をもとに、天守の詳細な復元案を発表した。それによると内部は4階までが吹き抜けで、内藤氏はヨーロッパの影響を指摘していた。
実際、『日本史』によれば、信長は南蛮の文物に強い関心をもち、所有するのを好んだ。いつも宣教師らを質問攻めにし、永禄12年(1569)、フロイスらに岐阜城内を案内する前に、「貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかもしれないので、見せたものかどうか躊躇する」と発言したという。
フロイスらに岐阜城を案内した際の信長は、「インドにはこのような城があるか、と訊ね、私たちとの談話は二時間半、または三時間も続きました」とのこと。信長はフロイスらと対面するたびに、日本の建築などをヨーロッパのそれとくらべたがったようだ。
■ヨーロッパの建築に想像をめぐらせた可能性
信長は永禄12年(1569)にはじめて宣教師と会ってから、本能寺で命を絶つまでの13年間に、彼らと30回以上も面会している。そのたびに、自身の偉業と評判が諸外国にどう届くか、非常に気にしていたことが記録からわかる。
イエズス会『日本年報』には安土城について、「木造でありながら、内外共に石か煉瓦を使用したようで、ヨーロッパの最も壮麗な建物と遜色はない」と書かれている。
実際、安土城天主の外観は、下見板や窓には黒漆が塗られて艶やかに輝き、白木は見えなかった。八角堂の4層目(地上5階)は木部が朱塗り。最上層の5層目(同6階)は金と青に塗られ、破風などには黄金の飾り金具が施されていた。
また、内部は金碧障壁画のみならず、柱も板張りの床も黒漆が塗られ、天井は黒漆の格子に板絵がはめられ、黄金の飾り金具で縁どられた。最上層にいたっては床まで金箔が貼られていた。
信長にとっての「見せるための城」は、日本だけでなくヨーロッパも意識したものだったように思えてならない。
■初めて西洋に伝わった日本の建築物
信長はイエズス会のイタリア人巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを安土で歓待し、彼が安土を発つ際には、特別な好意を示した。狩野派の絵師に安土城の全景を描かせた屏風を贈ったのである。この屏風は天皇からも所望されたというが、あえて宣教師に贈ったことには意味があろう。
ヴァリニャーノはただの宣教師ではなく、ローマのイエズス会総会長から直接任命された、インドおよびアジア地区の布教を統括する責任者であった。すなわち、背後にはローマ教皇やスペイン、ポルトガルの王がおり、信長はそのことを意識していたと考えられる。
屏風は天正遣欧少年使節に託され、ローマ教皇グレゴリウス13世に献呈された。しばらくの間、ヴァティカン宮殿の地図の間に展示されていたことが記録されている。その後、行方不明になっているが、発見されれば、安土城の外観を復元するうえでの決定的な史料になると考えられている。
そして、この屏風のおかげで安土城の名と雄姿は、日本建築としてはじめて西洋に正確に伝えられた。信長は屏風を載せた船が長崎港を発った4カ月後、本能寺に斃れたが、ヨーロッパの城にも負けない絢爛豪華たる城とその評判を海外に伝えたい、という信長の願いは、叶ったともいえよう。
■「坂の上の城」の意味
天守だけではない。安土城は平成元年(1989)からの発掘調査の結果、南側の登城口、いわゆる大手道が山上に向かって180メートルにわたり、直線的に伸びていたことが確認された。
現在、整備されて往時の姿が再現されているが、城とは基本的に防御施設であり、バリアであるから、中心部に向かう真っすぐな道はあまりなかった。しかも、この直線の坂道の真っすぐ先に、豪奢な5重の天主がそびえていた。視線の先にランドマークを設定するヨーロッパの都市計画を「ヴィスタ」というが、安土城はまさにヴィスタである。
むろん、ヨーロッパの影響があったことを証拠づけることはできないが、信長の宣教師たちへの問いかけや関心の持ち方、為政者として世界に伍したいという自尊心や野望を考えるほど、彼がヨーロッパを意識したと考えるほうが自然だと思う。
いずれにしても、宣教師たちと積極的に交流した信長が、日本の城を大きく、決定的なまでに変えたことは間違いない。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)