■オジサンから現在のアンパンマンになるまで
嵩(北村匠海)「でも、『アンパンマン』は本当に人気がないね(笑)」
のぶ(今田美桜)「ううん、私はいつかアンパンマンは高い空を飛ぶと思うちゅう。高い空をどこまでも……。そのときがきたら、世界中の人が認めてくれると思う。私、あきらめんきに」
NHK連続テレビ小説「あんぱん」第24週118話より
国民的キャラクターのアンパンマンは、やなせたかしが世に出した当初、愛らしい3等身のアンパンの顔をもつヒーローではなかった。ちょっとメタボで、そのおなかからアンパンを取り出して配る人間のオジサンだった。
やなせ夫妻をモデルにした朝ドラ「あんぱん」でも、その初期「アンパンマン」からTVアニメや映画『それいけ!アンパンマン』でおなじみの姿になるまでの過程を描いている。嵩(北村匠海)が大人向けの雑誌に「アンパンマン」を発表したものの、特に評判にはならず、妻のぶ(今田美桜)はその後、3年間、根気強く子どもたちへの読み聞かせをして地道に普及を図っていた。作者の嵩だけでなく、のぶの「アンパンマン」への思い入れの深さが描かれた。
■アニメ化で大ヒットしたのは69歳のとき
最初の発表から20年を経て1989年、「アンパンマン」がアニメ化され大ブレイクするまでのいきさつは、やなせたかしが自伝などに綴っている。「あんぱん」で描かれたとおり、「手のひらを太陽に」の作詞、長編アニメ映画『千夜一夜物語』のキャラクターデザイン、監督した短編アニメ映画『やさしいライオン』などで成功を収めるも、本業の漫画家としては代表作が出せないまま50代まできて、ようやく出せた絵本だった。
TVアニメが始まると、原作絵本も飛ぶように売れ、やなせは71歳で日本漫画家協会大賞を受賞。元東京都知事で小説家、「いじわるばあさん」の演者でもある青島幸男から「やなせさん、遅すぎたね」と言われたという。
「あんぱん」は、やなせたかしとその妻・暢(のぶ)をモデルに、嵩・のぶ夫婦が支えあう姿を描いてきたが、ドラマはフィクションだと断り書きしているとおり、すべての展開が史実に即しているわけではない。
2013年まで生き、94歳の天寿をまっとうしたやなせはいくつかの自伝、エッセイを遺しているが、その中でも遺言のつもりで書いたという『アンパンマンの遺書』(1995年、岩波現代文庫)が、最もストレートに人生の喜怒哀楽について語っている。戦前から平成までの時代を駆け抜けた数々のエピソードは、「あんぱん」では描かれなかったことも多い。
■「あんぱん」では描かれなかった熱愛時代
特に「あんぱん」では、嵩とのぶが故郷の高知県で出会った幼なじみという設定なので、実際には大人になってから高知新聞社の同僚として知り合った、やなせとその妻となる小松暢との恋愛とは、かなりちがう。同じ雑誌の編集部にいたり、東京出張に行った際にやなせが食あたりになってのぶに看病されたりしたというエピソードはドラマにも反映されていたが、実際には、2人が付き合うかどうかという段階では暢のほうが積極的だった。
『アンパンマンの遺書』で最も印象的な場面は、やなせとふたりで取材帰りに夜の街を歩いているとき、暢が「やなせさんの赤ちゃんが産みたい」と言ったところ。暢の性格がよくわかる情熱的な告白で、ぜひここもドラマで再現してほしかったと思う。
やなせは暢の告白を「殺し文句」「必殺のひと言」と書き、そこで恋情が燃え上がって彼女にキスをしたという。戦争で召集され無事に戻ってきたやなせと、戦争で最初の夫を亡くした暢。暗い時代を生き抜いた男女が激しい恋に落ちたとしても、なんの不思議もない。2人は結婚を決意し、やなせも「ぼくは結婚してからが青春のような気がする」と書いている。
■妻は「赤ちゃんが産みたい」と言ったが…
ただ、「やなせさんの赤ちゃんが産みたい」と言った暢だが、2人の間に子どもは誕生しなかったようだ。
「あんぱん」第105話では、のぶが自分の半生を振り返り「うちは何者にもなれんかった。(中略)何ひっとつやり遂げれんかった。嵩さんの……赤ちゃんを産むこともできなかった。嵩さんは子どもが欲しかったやろうに」と涙ながらに語るシーンがあった。このシーンからは、夫妻があえて子どものいない人生を選んだのではなく、妊娠・出産を望んではいたけれど果たせなかった設定だということが分かる。しかし、そんなのぶの手を握って「僕たち夫婦はこれでいいんだよ。(中略)のぶちゃんはそのままで最高だよ」と言った嵩はパーフェクトな夫である。
■「妻以外の女性を愛さなかったと言えば…」
夫婦の間に子どもがいないという事情は、最もプライベートな領域であり、これだけ少子化が進んだ今でも、簡単にその理由を聞いてはいけないことでもある。ドラマも前出ののぶのセリフ以上には突っ込まず、モデルであるやなせ夫婦のプライバシーを尊重しているようだ。
やなせ自身もその理由を明かしてはいない。妻亡き後、「妻以外の女性を愛さなかったといえば嘘になる」(『アンパンマンの遺書』)とまで書いているのに、子どもがいなかった理由は書かなかった。
やなせは「アンパンマン」のアニメがヒットした後のインタビューで、アンパンマンは自分の子どものようだとたびたび語っている。最初は中年期の自分の投影のようにオジサンだったアンパンマンを、幼児向けに3頭身にアレンジし、アニメでは戸田恵子が少年のような声で演じた結果、純真な息子のような気持ちがしてきたのかもしれない。
■なぜひらがなの「あんぱんまん」にしたのか
「あんぱん」で描かれるように、やなせはアンパンマンを人気が出なくても書き続けた。1973年にひらがなタイトルの絵本「あんぱんまん」を出すと、「大悪評」で、出版社からは「これ一冊で、もう描かないでください」と言われ、幼稚園の先生からも「顔を食べさせるなんて残酷」とクレームがきたという(『人生なんて夢だけど』フレーベル館)。
ぼくだけはいつまでも熱烈な君のファンだよ。誰もよろこばなくても、編集者が反対しても、ぼくは君の物語をかきつづけるよ。
(『熱血メルヘン 怪傑アンパンマン』1977年、フレーベル館)
ひらがなタイトルにしたのは幼児向けだからという出版社の判断で、やなせの本意ではなく、子どもの頃に見たパン屋の看板はカタカナのパンでそのイメージが強かったため、すぐカタカナに改題した。
やなせの自伝に、妻の暢もアンパンマンにこだわっていたという記述はないが、「あんぱん」では、のぶの実家が「朝田パン」というパン屋を開いており、のぶや嵩はアンパンが大好物だったという設定になっている。そんな幸福な子供時代の記憶にアンパンが結びついたという展開は、ドラマならではだ。
そして、ドラマで描かれているとおり、やなせは戦争中と戦後で価値観がひっくり返るような経験をしたからこそ、「おなかがすいている人を救う」アンパンマンに正義を見いだした。
■いずみたくのミュージカル化で気づいたこと
その後、アンパンマンの絵本は幼児の間でジワジワと人気が広がり、やなせが「手のひらを太陽に」で組んだ作曲家いずみたく(「あんぱん」では大森元貴が演じる、いせたくや)がミュージカル化(この舞台は大人向けだった)。
ぼくは「そうか、アレが欠けているんだ」と気づきました。悪役が普通の人間で、アンパンマンの相手役としてはパンチが不足していたのです。
さて、悪役をどうする?
(『人生なんて夢だけど』フレーベル館)
その後の展開は、アニメのアンパンマンを見たことがある人なら知っているとおりだ。つまり、そうして初期バージョンからブラッシュアップを繰り返し、アンパンマンは現在の形になり、国民的キャラクターにまで成長した。後年、「人気がでるまでに20年もかかるというのがいかにもぼくらしいところ」とやなせも振り返っている(『やなせ・たかしの世界』サンリオ)。
■「アンパンマンがぼくらの子供」という思い
実際には、妻の暢がドラマのようにアンパンマンにこだわって、ブレイクのため貢献したという記述はない。ただ、やなせは妻の死について、こう綴っている。
ぼくら夫婦には子供がなかった。妻は病床にアンパンマンのタオルを積みあげて、看護婦さんや見舞客に配っていた。アンパンマンがぼくらの子供だ。
『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)
シンプルな言葉から、45年間、苦楽を共にした妻に先立たれたやなせの痛切な思いが伝わってくる。
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村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。
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(ライター 村瀬 まりも)