※本稿は、大城道則『古代人の教訓 視野が広くなる、世界最古の格言』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
■ルッキズムの逆を行く「妻選びの助言」
【格言】明るい性格の人は喜びをもたらしてくれる
あなたは町でみんなに知られている気立てのいい、明るい性格の女を妻としなさい。そして年月を経てもこれらふたつの性格を失わないようであれば、決して彼女と離婚してはなりません。彼女の腹を満たすのです。明るい性格の妻はあなたに喜びをもたらしてくれるでしょう。(「宰相プタハホテプの教訓」より)
古代エジプト社会では、婚礼の儀式の証拠がほとんど残っていない。そのため当時の婚姻の実態がどのようなものであったのかわからないのであるが、この格言はそのヒントを与えてくれている。
結婚相手が「町でみんなに知られている」ような女性ということは、かなり身近な近所さんと結婚するということだ。また「気立てのいい、明るい性格の」女性が相応しいという。見た目を重視するルッキズムの逆を行く考え方である。外見や身体的特徴で人を差別しない賢者プタハホテプの見解は、現代世界にも通じる。
■女性の社会的地位はけっこう高かった
古代エジプト社会では、一夫多妻は違法ではなかったようだが、一夫一婦制が基本であった。
また驚くべきことに古代エジプトでは、女性が結婚の際に持参した財産の所有権は法によって保障され、通常は共同財産の3分の1が女性に保障されてもいた。プトレマイオス朝時代にもなると、互いの財産権を明確にするために婚姻契約書が作成されることもあった。他の古代文明・文化と比較すると女性の社会的地位は高かったようだ。
「決して彼女と離婚してはなりません」とあることからもわかるように離婚は可能であった。幾つになっても「気立てのいい、明るい性格の」女性は、男性にとっては得難い宝であり、離婚してはならず、喜びをもたらすものというわけだ。
■娘の結婚相手は知性や賢さを重視せよ
個人的にもこの見解には賛同する。自宅に帰り、妻の笑い声を聞くとホッとする。もちろん夫として「彼女の腹を満たす」必要があるが……。次の格言からは、夫が妻になすべき行為について、もう少し具体的な例が挙げられている。
「自宅では妻を相応しいやり方で愛しなさい。彼女の空腹を満たし、衣服を与えなさい。軟膏は彼女の身体の薬となる。命ある限り彼女の心を喜ばせるのです。夫にとって妻とは実り豊かな畑なのです」(「宰相プタハホテプの教訓」より)
どうやら「相応しいやり方で愛しなさい」とは、妻の空腹を満たして、衣服を与えるということらしい。衣食住は安定した生活の基本だ。身体をいたわってやり、「命ある限り」妻を喜ばせるのだそうだ。
一方的で夫としては少し不満なのであるが、最後に「夫にとって妻とは実り豊かな畑なのです」と言われると、お手上げでなすすべも、反論もない。子孫繁栄のために女性が果たす役割は極めて大きいのだ。ただし次のような格言には手を叩きたい。
「あなたの娘の結婚相手には賢い男を選びなさい。決して金持ちの男を選ぶな」(「アンクシェションクイの教訓」より)
財産よりも知性や賢さを尊び、そのような人物を自分の娘の結婚相手に選ぶべきだという考え方からは、古代エジプト社会が倫理的に健全に機能していたことを示していると思われる。
■借金してでもやるべき「3つのこと」
また、結婚することの重要性を説くという意味では、次の格言は興味深い。
「利子付きで借金してでも土地を耕すのです。利子付きで借金してでも妻をめとるのです。利子付きで借金してでも誕生日を祝うのです。しかし、快楽のために利子付きで借金はしてはいけません」(「アンクシェションクイの教訓」より)
「利子付きで借金してでも妻をめとるのです」という言葉からは、社会において結婚することの重要性が示されている。しかも「借金してでも」妻をめとるべきであり、その上「利子付きで」もそうすべきだと賢者アンクシェションクイは説くのである。
土地と並列で妻が挙げられていることは、今日のコンプライアンス的に問題が指摘されるのかもしれないが、そもそも価値観の違いが時代と地域にある点を考慮すれば、純粋に「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ」という感覚に近いだけなのかもしれない。
また「利子付きで借金してでも誕生日を祝うのです」というのも興味深い。現代と同じように、古代エジプトでも誕生日を祝う習慣があったということだからだ。暦が機能していた古代エジプト社会に相応しい。
■「愚かな女」からお金を借りてはいけない
【格言】外見だけで判断してはならない
賢い女には銀貨を100枚与えなさい。しかし、愚かな女からは銀貨200枚を受け取ってはならない。
女性に対する男性の選り好みの話ではない。たとえて言えば信頼できる人物にはお金を貸しても問題ないが、信用ならない人物からは無利子でもお金を借りてはいけないということか。あるいは甘い話に騙されるなということか。要は人の内面を見てさまざまなことを判断せよという意味であろう。賢者アンクシェションクイは次のようにも言っている。
「相手をよく知らないのならば、外見だけで判断してはいけない」(「アンクシェションクイの教訓」より)
だからここで対比される「賢い女」と「愚かな女」という言い回しにアンクシェションクイの悪意はない。女性蔑視でもなく、ここの文言が「賢い男」と「愚かな男」でも意味は同じだ。基本的に古代世界は男性優位な社会であったことから、この格言に女性が出てきただけである。
また古代エジプトの考古学的、文学的、そして美術的証拠は、識字能力のある男性エリートの好みで多分に見方が偏っているので、社会における女性たちの役割と地位について確かめることは困難である。しかし、古代エジプト社会において、女性は男性と同じように相続権や財産所有権、裁判権が認められていた。
■母から娘への教育が必要不可欠だった
王家の谷を造営した人々の職人村デイル・エル=メディナからは、織物業に従事していたと思われる人々が使用した道具が出土している。それは、女性たちが経済活動に従事して家計を補ったことを示している。
古代エジプトの法律では、女性は財産を引き継ぐことができるし、彼女らの夫に対して不利な証言をすることもできた。男女平等が正式だったと記されている。ただそれが実際に有効に機能していたかどうかは意見の分かれるところである。
このような権利を持っていたにもかかわらず、古代エジプトにおける女性たちは、ハーレムに暮らすような女性たちは別として、社会のあらゆる層で政治権力を握っていた男性たちよりも身分が低かったようだ。
ただし幼い頃から母親によって家事の方法や情操教育が施されていたことも知られている。上流階級の少女たちは歌や舞踊を学び、なかには読み書きができる者もいたようだ。古代エジプト社会において子供が正義・秩序・道徳に従い、正しく育ち生きていくためには、母親の力が必要不可欠なものだと認識されていたことは明白である。
■「愚者の仲間は愚者」「賢者の仲間は患者」
しかしながら、古代エジプトの一般庶民の間では、女性の役割はほとんどが家庭の活動(家事・育児)に限定されていたようだ。それゆえ古代エジプトの男性目線からの理想的な女性とは家庭に留まる者であった。しかし理想は時代とともに変化する。
アンクシェションクイは愚者について以下のように述べている。
「愚者の仲間は愚者であり、賢者の仲間は賢者なのだ。
富を蓄えるかどうかは別の問題だが(なかなか貯蓄は増えないし……)、少なくとも自分は賢者の仲間でありたいと思う。
■見た目や社会的地位で判断してはいけない
【格言】見た目で人を判断するな
素晴らしき会話はエメラルド以上に隠れているものである。石臼のそばにいる召使い女とともに見つかることもあるのだ。(「宰相プタハホテプの教訓」より)
エメラルドとは希少性が高い最高の宝石という意味である。エメラルドについての逸話としては、古代ローマ皇帝ネロが剣闘士の試合をエメラルドでできたレンズを通して観戦したと伝わっている。現在で最も高価な宝石であるダイヤモンドは、まだこの時期にはカット技術が発達していなかったことから、輝きはそれほどでもなく、エメラルドよりも価値は低かった。古代世界では、エメラルドこそが宝石の代名詞であったのだ。
後1世紀のローマの博物学者プリニウスは、自著『博物誌』において他の宝石類を紹介するなかで、エメラルドについて「エメラルドは最も素晴らしい色をしているとして高く評価された」と記している。
つまりこの格言で、「手にするのが難しい宝石であるエメラルド以上に素晴らしい『会話』が召使いの女性との間で交わされることもあるのだ」と、プタハホテプは述べている。人を見た目や社会的地位で判断してはいけないという意味だ。
「石臼のそば」とは、家の主人が立ち入ることのない台所のような場所ということであろう。単純に薄暗い場所とか召使いのいる場所という意味かもしれないが、私には「石臼のそばにいる召使い女」と「竈(かまど)のそばの灰被り」とがどうしても重なる。つまりシンデレラである。
■「叩き上げのエリート」が実現可能な社会
台所という女性にまつわる空間は、男性優位の古代社会では完全に異空間であった。それゆえに「石臼のそばにいる召使い女」との会話とは、とのコンタクトという意味すらある。プタハホテプの視線の先にいる「石臼のそばにいる召使い女」は、神の化身であるのかもしれない。そのような対象にも目を配ることができる人物が成功を手にすることができるのだという意味なのかもしれない。
台所という女性にまつわる空間は、男性優位の古代社会では完全に異空間であった。それゆえに「石臼のそばにいる召使い女」との会話とは、異人(まれびと)とのコンタクトという意味すらある。プタハホテプの視線の先にいる「石臼のそばにいる召使い女」は、神の化身であるのかもしれない。そのような対象にも目を配ることができる人物が成功を手にすることができるのだという意味なのかもしれない。
女性ではなく男性を対象とした同じような意味を持つ格言もある。格差社会であった古代エジプトの様相が垣間見られる内容であるが、そのなかでも他人をリスペクトする言葉には心に響くものがある。
「その男が名声ある人物の側にいるなら、たとえあなたがその男の昔の卑しい身分を知っていたとしても、その過去ゆえに軽蔑することのないようにしなさい。その男が得たものに相応しい尊敬の念を抱くべきです。富は勝手に向こうからやって来るものではないのです」(「宰相プタハホテプの教訓」より)
こちらの方は対象とした人物の具体的な描写が並んでいる。そこから判断すると、低い身分からの叩き上げで、要人の側近となった人物なのであろう。その人物に対する「その男の昔の卑しい身分を知っていたとしても」や「過去ゆえに軽蔑することのないように」という文言からは、古代エジプト社会がチャンスに溢れ、努力次第で自分の人生を切り開くことが可能な場であったことを我々に教えてくれているのだ。
そのことは、続く「その男が得たものに相応しい尊敬の念を抱くべきです」からも十分に伝わってくる。
■現代にも通じる「成功をつかむ人物像」
最後の一文「富は勝手に向こうからやって来るものではないのです」からは、この男の個人の資質について語るというよりも人生に成功するための真理が述べられていると言えよう。いつの時代もチャンスは自らつかみ取りに行くものなのである。
以下のアンクシェションクイの格言も先述のプタハホテプのものと同じような意味を持っている。自信過剰になるべきではなく、周りを見渡して自分の現在位置を落ち着いて冷静に判断すべきだというのだ。そのようにできれば、自分にはやるべきことがまだあるのだと気づくものである。
「『私は賢い』などと言うべきではない。まずはあなた自身が学ぶべきことがあるはずだと思うのです。下調べをしていないことはすべきではありません。調べることがあなたの仕事だからです」(「アンクシェションクイの教訓」より)
生まれついての賢者など存在しない。たとえ出自が卑しい者であっても、男性でも女性でも、絶え間ない努力とチャンスをつかむために、常に広い視野を持ち、石臼の側にさえ目を配り、やるべきことをやる人物が成功をつかむのである。
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大城 道則(おおしろ・みちのり)
考古学者、駒澤大学文学部歴史学科教授
1968年兵庫県生まれ。駒澤大学文学部歴史学科教授。博士(文学)。関西大学大学院博士課程修了。バーミンガム大学大学院エジプト学専攻修了。ラジオ番組で菊池桃子さんが「エジプトが好き!」と言ったのでエジプト学者を目指す。古代エジプト研究を主軸に、シリアのパルミラ遺跡とイタリアのポンペイ遺跡の発掘調査にも参加。著書に『神々と人間のエジプト神話─魔法・冒険・復讐の物語』(吉川弘文館)、『異民族ファラオたちの古代エジプト─第三中間期と末期王朝時代』(ミネルヴァ書房)、『古代エジプト人は何を描いたのか─サハラ砂漠の原始絵画と文明の記憶』(教育評論社)など多数。
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(考古学者、駒澤大学文学部歴史学科教授 大城 道則)