※本稿は、川上徹也『二人の蔦屋 蔦屋重三郎と増田宗昭』(太田出版)の一部を再編集したものです。
■「この店ぜんぜん陳腐化してないやろ?」
「10年以上たってんのにこの店ぜんぜん陳腐化してないやろ?」
増田宗昭は初対面の私にいきなりそう言った。
まるで少年がお気に入りのおもちゃを誰かに見せて自慢する時のような目で。
おもちゃとは「代官山 蔦屋書店」のことだ。初めての取材は代官山 蔦屋書店のラウンジ会議室でおこなわれた。
増田宗昭(以下増田)は、全国にTSUTAYAや蔦屋書店を展開し、Vポイント事業なども手掛けるカルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社(以降、CCC)を一代で築き上げた稀代の経営者だ。
1985年のCCC創業以来、代表取締役社長として様々な作品をプロデュースしてきた。「代官山 蔦屋書店」は、増田の代表作と言っていいだろう。
23年に社長を髙橋誉則に譲り、24年4月からは代表権のない会長になっている。
代官山 蔦屋書店が開業したのは11年12月だ。実はオープン前は、業界内でいい噂はほとんど聞かなかった。繁華街にある大型書店でさえも経営が大変な時代に、代官山の外れに約4000坪の敷地を取得し、巨大な書店を作っても人が来るはずがないと、書店や出版関係者は口をそろえて言っていたのだ。
外部だけでなく、社内でも懐疑的な意見がほとんどだったという。「代官山 蔦屋書店」の出店計画を役員会議に出すと、増田以外全員が反対した。それでも増田はその思いを貫き通し、株主に説明できないからと上場を廃止してまで、出店計画を遂行した。
■「みんなが賛成するものはろくでもない」
「工事が始まって建物の鉄骨が組みあがっていくと、これがバカでかいわけよ。
こんな場所に、こんなん建ててほんまにええの? 大丈夫? CCC危ないちゃうか? とフランチャイズの加盟店さんも陰で噂してたらしいわ」
増田自身に不安はなかったのだろうか?
「実は本当に大丈夫やろかと、一番心配してたのは何を隠そうこの俺なんや」
え? やっぱり。本当に?
「いや嘘や、嘘。絶対成功する確信があった。頭の中には完璧にイメージができてた。そやけどそれはいくら説明してもみんなにはわかれへん。完成品を見ないとわからん人間がほとんどや。ま、みんながすぐわかって賛成するようなもんはろくでもないしな」
実際、11年のオープン直後に代官山 蔦屋書店を初めて訪れた時、私は驚嘆した。今まで日本で体験したどの書店よりも美しくかっこよく居心地がいい空間だったからだ。
そして私と同じように思った人は多数いた。
「人が来るはずがない」という業界人の予想は大きく覆されたのだ。
代官山 蔦屋書店は当初、60歳以上のプレミアエイジをターゲットにしていたが、若い世代からも圧倒的な支持を得た。
それまで私の中ではTSUTAYAはあくまでローマ字のTSUTAYAであり「書店」という認識は低かった。TSUTAYAは、若い頃からよく利用していた。しかし、DVDやCDのレンタルが中心で本はついでに買うという感じだった。
■1号店を蔦屋書店と名付けた「べらぼう」な理由
後述するように創業時の屋号は「蔦屋書店」だったが、いつの間にかローマ字表記の「TSUTAYA」が主流になっていた。その頃、創業時のままの蔦屋書店という屋号で営業していたのは、熊本市の下通り三年坂にある蔦屋書店(ニューコ・ワンのFC)と新潟や長野などでみかける蔦屋書店(トップカルチャーのFC)くらいだったと記憶している。少なくとも、東京や大阪などでは見かけなかった。
代官山 蔦屋書店を体験してそのような認識が一変した。こんな書店空間を作ったのは誰だろうと調べると増田に行きついた。それから私は、増田に興味を持ち、全著作を購入して読み込んだ。
そして同時に、増田と蔦屋重三郎(以下蔦重)との不思議な関係性にも興味を抱いた。
増田は自身の著書や取材で、何度か蔦重について言及している。まとめると以下の通りである。
「1号店に蔦屋書店と名付けた時は、蔦屋重三郎のことはまったく知らなかった。小さい頃、祖父が枚方宿の桜新地という色町で置屋をやってて、その屋号が『蔦屋』だった。だから『蔦屋』という屋号には愛着があった。もちろん置屋の蔦屋はとっくに廃業してたけど、書店につけるええ名前がないかなと考えた時に、ふと『蔦屋』が思い浮かんだ。『蔦屋書店』って何か老舗っぽいしええ名前やと思った」
ところが京阪電車枚方市駅前に蔦屋書店第1号店を開業した時、友だちから「こいつのこと知ってて蔦屋と名付けたんか?」と一通のFAXが来た。それは広辞苑の「蔦屋重三郎」の項目のコピーだった。
「これはいただきと思った。『祖父の置屋の屋号が由来で』というより『江戸の出版人・蔦屋重三郎にあやかりました』って言ったほうが、カッコええし箔がつくかなと直感的に思った。
■実は祖父の置屋の名前が由来
ここから、CCCでは店名の由来を「江戸の出版人『蔦屋重三郎』にあやかった」というのが公式見解となった。しかし当の本人が著書やインタビューなどで「実は祖父の置屋の名前が由来」と正直に語ってしまうところが、いかにも増田らしい。
その後私は、名前くらいしか知らなかった蔦重のことを詳しく調べるようになる。調べれば調べるほど、蔦重にも興味を持つようになった。
蔦屋重三郎。江戸時代を代表する版元(出版社&書店)。吉原遊郭で生まれ、貸本屋から始まり、『吉原細見』というガイドブックに編集で携わることから頭角を現した。喜多川歌麿を育て、山東京伝を世に出し、ヒット作を連発。寛政の改革で処分されるが復活。
謎の絵師・東洲斎写楽をわずか10カ月で時代の記憶に焼きつけた名プロデューサー。
不思議なことに、蔦重本人に関する資料は驚くほど少ない。しかし、彼がプロデュースした作品群は数多く残っている。
そして増田が蔦重のことを知らずに蔦屋書店と名付けたとは信じられないくらい、両者の間には「出生」「創業した業種」「ビジネスモデル」「顧客ファーストの姿勢」などにシンクロニシティがあることがわかった。まさに「平成の蔦屋重三郎」だと言ってもいいくらいだ。増田自身も自著で「最近は蔦重のことを他人とは思えなくなってきた」と語っている。
■NHK大河で蔦屋重三郎が主人公に
2020年、私は江戸時代に斬新なビジネスモデルを開発した起業家を紹介した著書『江戸式マーケ』(文藝春秋)で蔦屋重三郎を取り上げ、コラムではTSUTAYAとの関係も論じた。かと言ってその頃は、二人の関係を一冊の本にしたいとまで思っていた訳ではない。その頃の「蔦屋重三郎」は一般的な知名度が低すぎたし、増田も最近はほとんど取材を受けないという噂だったので、一冊の本の企画になるとは思っていなかったのだ。
23年4月、NHKから驚きの発表があった。25年の大河ドラマが『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』というタイトルで、蔦屋重三郎が主人公になるというニュースだった。
まさか蔦重が大河ドラマの主人公になるとは!
そしてそのネットニュースを見た瞬間、『二人の蔦屋』という本書のタイトルが思い浮かんだ。増田と蔦重、時代を超えた二人の蔦屋の偶然では説明できないシンクロニシティに迫る本。
大河ドラマのオンエアが近づくと「蔦屋重三郎」という名前に多くの人が触れる。出版、文化、編集というテーマに関心のある人なら、必ず蔦屋に反応してTSUTAYAとの関連に注目するだろう。だとすれば、他の誰かが企画をする前に、まず自分が手をあげなければならない。そう思ったのだ。
そのニュースをスマホで見たのは、本書の編集者と別の企画の打ち合わせをしていて、ちょうど彼がトイレに立った時だった。戻ってきた彼にそのニュースを伝え、30秒前に思いついた『二人の蔦屋』という企画を話した。
「それはまさに川上さんが書くべき企画だし、うちで出させていただけるなら光栄です。企画は必ず通します」と即座に返ってきた。
この本の構想が現実のものとして動き出した瞬間だった。
CCC広報部に本書の企画をプレゼンして、増田への取材を申し込んだ。承諾の返事をもらうまで半年以上の時間がかかったが、ようやく冒頭で紹介した増田のインタビューが実現した。さらに増田のことをよく知る人物たちに取材を重ねていくことができた。
実際に取材を進めていく中で、最初はぼんやりとした私の予感が、次第に揺るぎない確信へと変わっていった。
■稀代の人たらしにして企画マン
増田宗昭という人物は、一般的な大企業の経営者とは、どこか根本的に違う。理屈や効率だけでは説明しきれない「色気」のようなものがある。そしてその佇まいは、想像していた以上に蔦屋重三郎の姿と重なっていった。
これから綴る章(『二人の蔦屋 蔦屋重三郎と増田宗昭』)では、増田宗昭という人物の歩みや、彼が世に送り出してきた「作品」をたどりながら、その背後でふっと立ち上る蔦屋重三郎の面影に、折に触れて耳を澄ませていくことになる。
最初に断っておくが、本書は、増田宗昭の人生や作品を網羅するような評伝ではないし、CCCの歩みを体系的に記録したものでもない。もちろん、彼の人物像を立ち上げるうえで必要な出来事や背景には触れていくが、すべてを拾い上げることが私の役割だとは思っていない。蔦屋重三郎についても同様だ。残された資料が限られている以上、その生涯を細かくたどることはむずかしい。
私が注目したのは、増田と蔦重という「二人の蔦屋」が、時代を超えて静かにシンクロしている部分である。
彼らが残したもの――すなわち作品や仕組み、空間や思想といった「文化の手触り」にこそ、光を当てていきたい。
蔦重にとっての企画作品は、黄表紙・洒落本・浮世絵といった出版物であり、それに関わった作家や絵師たちであり、そして吉原という街そのものだった。
増田にとっての企画作品は、蔦屋書店1号店、全国に広がるTSUTAYA フランチャイズ店、SHIBUYA TSUTAYA、代官山 蔦屋書店、武雄市図書館などと言えるだろう。
奇しくも、どちらの「蔦屋」も色町に生まれ育ち、「コンテンツを貸す」というビジネスからキャリアをスタートさせている。そこから「プロデューサー」として文化や空間をかたちづくっていく歩みも、よく似ている。
そして、何よりの共通点は、二人とも当代きっての「企画マン」であり、「人たらし」であり、「商売人」だったことだ。
■心血を注いだ「文化を届ける」という大仕事
二人の蔦屋は、「文化」という曖昧でつかみどころのないものを、街に、仕組みに、空間に翻訳しようとしていた。しかしロマンだけを追いかけていたわけではない。商売人としてしっかり儲ける算盤勘定も、同じくらい大切にしていた。
そして、常に主語は「顧客」だった。
自分のつくりたいものを押しつけるのではなく、大衆の欲望に真摯に耳を傾け、それを形にする。その姿勢こそが、二人の蔦屋をヒットメーカーにし、時代の寵児へと押し上げ、財を築かせた。
とはいえ、二人の歩みが常に順風満帆だったわけではない。
蔦重は、寛政の改革によって出版の自由を奪われ、身上半減の処分を受けた。ともに戦ってきた仲間の多くは筆を折り、深い挫折を味わった。起死回生をかけて挑んだ「写楽プロジェクト」も、ビジネスとしては失敗に終わっている。
増田もまた、数々の失敗を経験している。その中でも象徴的なのが、衛星放送ディレクTVへの巨額投資だった。自ら経営に参画したものの、事業は思うようにいかず、最終的には社長を解任され、多額の借金を背負うことになった。増田はこれまで築いてきたすべてを失うかもしれないという恐怖に襲われ、世界から立体感が消え、目の前の風景がただの平面のようにしか見えなくなった。
本書では、そうした「失敗」や「負の側面」にも正面から向き合いたい。
というのも、彼らの魅力は、成功の物語だけに宿っているわけではないからだ。
傷や欠落を抱えながらも、なお創造への執念を失わず、「誰も見たことのない企画」に挑み続ける。その姿勢こそが、二人をもっとも強く結びつけているものだと私は感じている。
また彼らは、決して聖人君子ではない。
毀誉褒貶はつきまとい、同業者や世間からの批判も少なくなかった。
それでも、自らが信じる「表現」や「文化の届け方」に対しては、何度つまずいても立ち上がるだけのエネルギーを持っていた。
二人の蔦屋の仕事に耳を澄ませることは、時代を超えて「文化を届けるとはどういうことか」という本質的な問いに、私たち自身が近づいていくことでもある。
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川上 徹也(かわかみ・てつや)
コピーライター、湘南ストーリーブランディング研究所代表
大手広告代理店を経て独立。『物を売るバカ』(角川新書)『あの日、小林書店で。』(PHP文庫)など著書多数。海外6カ国にも20冊以上が翻訳されている。
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(コピーライター、湘南ストーリーブランディング研究所代表 川上 徹也)