※本稿は、東島威史『不夜脳 脳がほしがる本当の休息』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
■「長い睡眠」は本当に必要か
外来で、僕は患者さんとよくこんな会話をする。
「夜眠れなくて……強い睡眠薬をください」
「寝つきが悪いんですか? それとも夜中に起きちゃいますか?」
「両方です。あまり眠くならず、やっとうとうとしても目が覚めてしまうんです」
「昼間、お仕事やご予定に差し支えるほど眠気が出ていますか?」
「仕事はもう、引退しています。それに日中もそんなに眠くならないんです。たまに眠くなるときは、お昼寝しちゃいます」
「では、何がお困りですか?」
「睡眠時間が短いことです」
文字にしてみると、なんだか出来がいまいちのジョークみたいなやりとりだが、本当に多くの方が、「睡眠の苦しみ」を訴えてくる。
僕はこうした患者さんには、「眠れないこと」以外の問題点が見つからない限りは、まず「気にしすぎ病」であることを説明する。
もちろん「気のせいですよ!」と切り捨てる意図はない。脳にも体にもトラブルがなく、生活にも支障がないなら、睡眠不足の治療は必要ないのだと、ご理解いただくようにお話しするということだ(その上で「だけど先生……」と強く希望されるのであれば、薬を処方することもある。基本的には押しには弱いタイプだ)。
■睡眠不足は「悪ではない」
睡眠時間が短く、それでいて特に眠くもないなんて、慢性睡眠不足で眠気と闘う日々を送る僕からしたら、うらやましい限りだ。
こうした悩みは、自然界にはおそらく存在しない。動物も、そして昔の人間も、「眠くないのに薬まで飲んで寝ようとする」なんて、発想すらないはずだ。
断っておくと、睡眠薬はとても良いもので、僕も生活リズムが乱れて、「ものすごく眠いけど眠れない」といった際にはためらわずに内服している。
しかし、クスリはリスクであることは確かだ。睡眠薬に全くリスクがないなら、僕もこんな問答は最初からせずにあっさりと出している。
ものによっては日中も眠気が残り、1日フラフラしたり、筋弛緩作用で転倒したり、長期連日服用では認知症のリスクになったり、身体依存になったりする。
最近では脳の老廃物を洗い流す作用を弱める、というリスクも報告されており、「睡眠薬を飲んだために眠りの質が落ちる」なんてこともある。実際に、「必要がないのに夜中に睡眠薬を飲んで、日中ずっと眠い状態で過ごす」という患者さんも存在する。
「眠れない」という人は、「眠くない」ということは、脳と体が「寝なくても大丈夫」といっているということだと受け止めてほしい。
■「睡眠時間は7時間がいい」を検証する
また、ビジネスパーソンの中には、「忙しすぎて睡眠時間が確保できない。なんとかしたい」という人も多いと思う。
「そんなことを言われても」と戸惑う多くの人たちのために、改めて「睡眠時間は7時間」という説を考えてみたい。
「睡眠時間は長ければいいわけではない」と、聞いたことがあるだろう。これは巷でよく言われているし、さまざまな研究も発表されている。
たとえば、アメリカ心臓協会(Journal of the American Heart Association)に「睡眠時間と死因や心血管疾患リスクの関係」を調べた論文がある。
短すぎる睡眠時間(7時間未満)と長すぎる睡眠時間(7時間超)の人たちの集団を長期間にわたって観察したところ、どちらも死亡や心血管疾患のリスクを高めることがわかった。
つまり、「寝不足」も「寝すぎ」も健康リスクになる可能性があるということだ。
睡眠時間が「1時間短くなると、6%」、反対に「1時間長くなると、12%」、死亡や心血管疾患リスクが高まる。同様の研究は複数あるから、ここから「7時間睡眠が健康にいい」という共通理解が広がったと思われる。
だが、これが誰にとっても、あるいは日本人に当てはまるのだろうか?
■日本人は世界一睡眠時間が短い「短眠族」
ブリティッシュ・コロンビア大学の研究チームは、睡眠と健康について、国別の研究をしている。
研究チームは続いて、世界20カ国5000人を対象に、オンラインで「自分の睡眠時間・理想の睡眠時間・健康状態」などを調査した。
このデータは自己申告なので限界もある。想像するに、「いつもたっぷり寝てるよ~」とアバウトに答える国と、「昨日は寝つきが悪くて6時間10分ほどだと思います」などときっちり申告する国という、国民性の差もあるだろう。とはいえ、各国の平均睡眠時間は、過去の客観的な測定と大まかなところでは一致している。
■「健康的な睡眠時間」の正体
まず、「あなたは前の夜、何時間眠りましたか?」という調査結果を見ると、日本は自己申告の睡眠時間がインドネシア(6時間12分)に次いで最も短く平均6時間18分。最長国のフランスは7時間52分だから結構な差ではある。
次に、「理想の睡眠時間は何時間だと思いますか?」という設問には、ぐっすり大国フランスの人たちは「8時間30分は寝たい」と答えており、ヨーロッパのほとんどの国の人たちも「8時間以上」を理想としている。では、睡眠不足大国・日本はどうかといえば「7時間50分が理想です」と、8時間を切っていた。
この話が面白いのはここからだ。
ギャップが少ない第1位もフランスで、理想と現実は38分の差。ヨーロッパはおおむね、ギャップが小さめだ。ところが、日本の場合は睡眠の理想(7時間50分)と現実(6時間18分)のギャップは1時間32分と、20カ国中、最も大きい。
この研究は、こう結論づけている。
「文化や社会の中で『これくらい寝るのが普通』とされている睡眠時間に近いと、人はより自分を健康だと感じるという傾向がある」
つまり、日本人の僕たちは「これくらい寝るのが普通」という理想が現実よりも高すぎて、自ら「健康ではない」と心配している可能性が高いということだ。
■「遺伝子の変化」で短眠族になった可能性も
「人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊(き)かれたら。わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう」
これは、ナチスドイツのユダヤ人収容所で、過酷な体験を強いられた精神科医、ヴィクトール・E・フランクルが、自身の体験をまとめた名著『夜と霧』(新版/池田香代子訳/みすず書房)の中で語っていた言葉である。
人類史上類をみないほど過酷な環境、アウシュビッツですら「慣れた」と語れるのはさすがに彼くらい飛び抜けた精神力が必要かもしれないが、それでも人間は「かなり慣れる」というのはある程度真実をはらんでいる。
医学的に「慣れる」とはどういうことか。
それは、「遺伝子が適応する」ということだ。
ただの気持ちの問題なんかではない。
■「遺伝子が適応する」ということ
たとえば、マーブルクレイフィッシュというザリガニがいる。このザリガニが非常に変わっているのは、すべてがオスであり、自分のクローンをつくって繁殖する点だ。
遺伝子はすべて同じであり、わかりやすく言えばすべてのマーブルクレイフィッシュが一卵性の双子のようなものだ。だが、このザリガニの個体は飼育されたものと野生のものを比べると、野生の個体は体重が半分ほどで体が小さく、甲羅もトゲだらけになる。一卵性の双子どころか、知らないと同じ種族とすらまるで思えない。
このような変化は、種族全体どころか、自然界では一個体でも当たり前のように起こる。ある種の魚や甲殻類では、オスが少なくなると、突然あるメスがオスに変化することも珍しくない。
これが、「遺伝子が適応する」ということだ。
同じ遺伝子を持っていても、部分的にオフにする部分と、オンになる部分があり、環境によりそのスイッチが切り替わって、別の生物のように変化する。
このようなエピジェネティクスは、ザリガニの例を出すまでもなく、我々の体を見れば実は一目瞭然だ。
人の体もたくさんの器官で構成されている。骨があり、そこに筋肉がつき、内臓があり、脂肪を皮膚が覆い、それらには複雑な神経網が張り巡っている。形も機能も全然違う細胞が集まって、それぞれの器官を作っている。
しかし、それらの細胞は、すべて同じ遺伝子を持っている。
たった一つの細胞が細胞分裂を繰り返し、ある時点で突然あるスイッチをオンにして、別のスイッチをオフにすることで、それぞれの器官に変化していく。
消化液を出す遺伝子をオフにして、自発的に電気を出すスイッチをオンにしたものが神経細胞ということになる。そして、器官が形成された後も、体はさまざまな刺激に適応して、それに合った遺伝子のスイッチを入れたり切ったりする。
■日本人が「短眠族」になった理由
今のところ、断眠を繰り返してショートスリーパーの遺伝子が発現した、という報告は僕の知る限りない。ただ、たとえば飢餓状態では、脳由来神経栄養因子(BDNF)などの神経細胞保護因子の遺伝子が増加し、脳を保護したりする。さらにこの「飢餓状態」に「温熱ストレス」を加えると、脳を保護しようとする遺伝子はさらに増加する。
ストレスや刺激が、「脳を守ろうとする遺伝子」のスイッチをたくさん入れてくれるのだ。
それを考えると、ここからはまだ未知の分野で僕のストーリーになるのだが、北国で暮らす人が遺伝子は変わらなくても環境に適応して寒さに強くなるように、日本人の遺伝子は変わらなくても「慢性的な短時間睡眠」という環境に適応して「短眠族」になっているのではないか?そんなことも考えられる。
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東島 威史(ひがしじま・たけふみ)
脳神経外科医
医学博士。専門は機能脳神経外科(脳神経外科専門医・指導医、てんかん専門医)。トゥレット症候群やイップスなどの希少疾患をはじめ、パーキンソン病やてんかんに対する脳手術を多数経験。実際に脳に触れ、切除し、電気刺激をする経験から脳機能を学ぶ。臨床の傍ら研究費を取得し、大学の研究員として脳機能研究も精力的に行う。2019年から横浜市立大学附属市民総合医療センター助教、2025年より横須賀市立総合医療センターに「ふるえ治療センター」を設立、センター長を務める。また、プロ麻雀士の顔ももち、脳の機能と活性化について臨床研究にいそしむ。2020年から子ども麻雀教室で行った研究で「子どもが麻雀をすると知能指数が上昇する」ことを示し、心理学のジャーナルに論文を発表した。著書に『頭がよくなる!子ども麻雀』(世界文化社)がある。
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(脳神経外科医 東島 威史)