■戦前の教育あっての「戦後復興」
【保阪】日本の歴史を江戸時代約270年、明治元年から昭和20年の近代史77年、昭和20年からの現代史80年と大きな器で見ていくと、日本人は面白いくらい極端だなと感じます。
江戸時代は対外戦争を全くしなかった。それが近代史の中で明治27年に日清戦争を始めると、50年ほどの間に日露戦争、第1次世界大戦時の対独戦争、日中戦争、太平洋戦争と立て続けに対外戦争をやる。そして戦争に負けてガタガタに崩壊すると、戦後80年はすっかりシュンとなって、軍事に対する嫌悪感を強く持つようになるわけです。
【白井】確かにずいぶん極端です。逆に言うと、今度戦争を始めると、また戦争が常態化する可能性が出てきますよね。
【保阪】50年間の戦争の時代に生きていた人たちは、もちろん不幸でしょう。ただし、ある意味で充足感はあったと思います。
日本を一等国にするんだと、他国を侵略しようが何しようが構わず、とにかく一生懸命に戦争というものに取り組んだわけです。それはいわば命を懸けた陶酔、熱中です。
【白井】結局、そうした情熱が戦後の驚異的な復興と経済発展を生み出したのではないでしょうか。戦後、焦土を再建して、急成長して経済大国化していく時代の指導層は、みんな戦前の教育を受けた世代ですから。敗戦を受けて、今度こそは経済で勝つ、というモチベーションがあったわけですね。
【保阪】言ってみれば、一つの目標に向かってどーんとエネルギーを集中できるような教育ですよね。
【白井】保守派の方々がよく言う「戦後の教育は駄目だ」には、ある面では一理あると言えばあるわけです。
■「日本は悪い国」という呪い
【保阪】ぼくは昭和21年に小学校に入学した戦後教育の第1期生です。もちろん、戦争の時代よりもいい教育だったと思っています。ただし、何か生ぬるかった感じがあって、本当のことは教えられなかったという気がします。
特に女の先生が「戦争はいけません、日本はよその国に迷惑をかけました。日本は悪い国でした。
母親に「ぼくらは悪い国に生まれたの?」と聞いた記憶があります。要するに、ある種の敗戦の反動なのですが、戦後すぐの小学校の教育はそれほど単純だったわけです。
【白井】その時代に教育を受けた世代は、学校的な権威に対する根本的な不信を刻み込まれたという人が多いですよね。あいつらは嘘つきだ、と。
【保阪】昭和5年生まれの半藤一利さんや野坂昭如さんは、そういうことをよく言っていました。特に野坂さんは、大人は許せない、と言い続けた人でした。
昭和20年に中学生という世代だと、それまでの「日本は神の国だ、お前たちは天皇のために死ね」などという教育から、8月15日を境に「命は大事だよ」などという教育にガラリと変わる、いわば逆転を経験しています。ぼくらはその前を知らない、逆転を経験していない世代だからそれほどの不信感はないんですね。
■生徒を社会主義者にする教職者
【保阪】いずれにしろ戦後の日本の歴史教育はよくなかったと思います。単純に言い過ぎかもしれませんが、それは日教組型の歴史教育の失敗です。
ぼくは1960年代、70年代に日教組の教育研究全国集会などを何回か取材したことがあります。
戦後、「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」とのスローガンで日教組の運動は始まったわけですが、労働者の革命意識を高揚させるというのも日教組の目的の一つなんですね。
ぼくらの世代はどちらかというと左翼的な体験を持っていますから、いい教育しているなと思った時期もありますが、考えたら問題のある教育をしていたわけです。
【白井】今でも保守系の人たちに会うと「とにかく日教組がけしからんのだ」ということを言います。私は「今の日教組の組織率は20%を切っていますから、そんなに目くじらを立てる必要はありませんよ」と返していますが、年配の方々には強力なプロパガンダ組織であるというイメージが根強いんですね。
■歴史教育にあった「空白期間」
【保阪】日教組の加入率は60年代前半には70~80%、70年代前半でも50%を大きく超えていました。しかし、日教組もいい加減でしたが、文部省もいい加減でした。文部省には古いタイプの帝国大学の歴史観があって、つまり皇国史観の変形版みたいなものですが、そういう歴史観で教科書に関与していました。
これは言ってみれば、日教組と文部省の中で歴史教育が避けられていた状態です。だから日本史の授業の中で明治維新以降は取り上げない。江戸時代が終わったら、「お前たち、あとは教科書を読んでおけ」で終わりでした。
そういう歴史教育の中で、主に先輩や友だちからの影響で左傾化する学生たちがいて、それに反発する体育会系の学生たちは右傾化しました。
そして90年頃に社会主義体制が崩壊して、ある意味で日本社会はリセット、麻雀で言えばもう一度かき回しに入ります。それで歴史教育や歴史解釈におけるイデオロギー色が薄まるかと思いきや、相変わらず左右の対立があるわけです。
■事実よりも願望を優先する日本人
【保阪】ぼくは実証的であれ、そして帰納的に歴史を考えろという側にいます。しかし唯物史観で、あるいは皇国史観で、演繹的に歴史を見るほうが楽なんですね。そういう歴史学者たちが少なからずいて、だから歴史に関してはそういう教育をやっているし、メディアもそういう報じ方をしているし、社会の受け止め方もそうなっています。
とりわけ今の右の側は、歴史のとらえ方に関してあまりにもお粗末と感じます。ひと昔前は、神道家の葦津珍彦さんなど民族派の論客と話していても対話が可能だったし、学ぶところもあったのですが。
もちろん、左の側も「革命のための歴史学」などというものを脱しなければいけないでしょう。
結局、ファクトを抜きに歴史を解釈してしまうという問題なんですね。つまり、自分の主観的願望を客観的事実にすり替えるわけです。昭和の軍事指導者がその典型だったことを思うと、日本人はそもそもファクトをきちんと押さえることが下手なのでしょう。
我々は歴史の議論に限らず、解釈が先に行ってファクトからだんだん離れていくということをあらゆる場面で繰り返しているのかもしれません。
■入試制度改革が招いた「マネーゲーム」
【白井】歴史教育について付け加えると、ともかく知識量の低下が近年顕著であることを大学の現場で痛感しています。理由は大学入試制度が変わって、学力の比重が下がった。それと同時に、少子化の影響で18歳人口が減り続けましたから、競争圧力は自動的に下がった。
この二つが相俟って、きちっと記憶するまで学習しなくなりました。これが低下の端的な理由だと思います。そもそも基本的なファクトを押さえていないのが普通になってしまった。
私は、このことに関して、日教組や戦後教育学のイデオロギー的影響、その責任は大きいと思うのです。彼らは、学力偏重の教育を非人間的であると長年批判してきました。その批判に応えるかたちで入試制度が改革された。
確かに、子どもが多く、かつ大学進学希望者が増え続けた時代、わずか1点や2点の差で人生が決まってしまうみたいな入試の在り方はおかしいだろう、という批判に一理はあったわけです。大学側も、大して存在しない学力差を無理やり判定するために、誰にも正解がわからないような難問奇問を出題する、というような不健全な状況があった。
しかし、入試の競争の状況が根本的に変わったときに、学力競争を緩めたらどうなるか、今その結果を私たちは見ているわけです。
学力重視は相対的に平等なのですよ。参考書で勉強するのは、貧乏でもできます。学力の代わりに「経験の豊かさを総合的に評価する」なんて言い始めたら、親の資力の勝負になる。左派は平等な社会を目指していたのではなかったのですか、と私は言いたい。
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保阪 正康(ほさか・まさやす)
ノンフィクション作家
1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。
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白井 聡(しらい・さとし)
京都精華大学准教授
1977年東京都生まれ。思想史家、政治学者。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。著書に『永続敗戦論──戦後日本の核心』(講談社+α文庫、2014年に第35回石橋湛山賞受賞、第12回角川財団学芸賞を受賞)をはじめ、『未完のレーニン──〈力〉の思想を読む』(講談社学術文庫)など多数。
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(ノンフィクション作家 保阪 正康、京都精華大学准教授 白井 聡)