■「慰霊の旅」のしめくくりは異例のかたちに
戦後80年の今年、天皇皇后両陛下におかれては「慰霊の旅」を続けてこられた。
最初に4月7日、先の大戦で激戦の地だった硫黄島を訪問された。次に6月4・5両日には、敬宮(としのみや)(愛子内親王)殿下も加わられ、ご一家おそろいで、地上戦で多くの犠牲者を出した沖縄を、訪れられた。さらに両陛下は6月19・20日に、原爆が投下された広島にお出ましになった。
海外では、モンゴルからの要請で7月6日から13日まで、歴代天皇として初めて同国を公式訪問された。この時に、敗戦後、旧ソ連によって抑留され、過酷な労働などのために現地で亡くなった日本人死亡者の慰霊碑に、ご供花になった(7月8日)。
8月15日の終戦記念日には毎年、東京・武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が開催されている。両陛下がこの式典にお出ましの上、黙禱を捧げられたことは、改めて言うまでもない。この時は例年通り、皇居・御所にて敬宮殿下も、正午に合わせて黙禱されている。
今年の「慰霊の旅」のしめくくりは、去る9月12日・13日のご一家による長崎ご訪問だった。この時は、いささか異例の形になった。
■ご一家おそろいでの長崎ご訪問
天皇皇后両陛下におかれては、毎年恒例のいわゆる“4大行幸啓”の1つとして、今年の9月14日に長崎県で開かれる「ながさきピース文化祭2025」(第40回国民文化祭および第25回全国障害者芸術・文化祭)へのご臨席が、求められていた。その時期に合わせて、両陛下の同県への「慰霊の旅」が行われることになった。
それに、これまで長崎を訪れられたことがなかった敬宮殿下もご一緒された、という組み合わせだった。
そのため、敬宮殿下は慰霊の旅を終えられた13日の午後に長崎空港を出発され、夜には皇居に戻られている。一方、両陛下は同日午後にも現地でご公務があり、翌14日のながさきピース文化祭2025開会式にご臨席になるなどされ、夜に東京に帰られた。
大きな節目となる「戦後80年」の慰霊の旅で、沖縄に引き続き、長崎でも敬宮殿下がご一緒された事実は、決してありふれた出来事ではない。
そこには、昭和天皇以来、皇室に受け継がれてきた「平和への願い」を、次代に託そうとする両陛下の強いお気持ちが込められている、と拝察できる。また、それを心深く受け継ごうとされる、敬宮殿下ご自身のご覚悟も見逃せない。
■「愛子にも、心を寄せていってもらいたい」
天皇陛下は今年のお誕生日に際しての記者会見で、次のように述べておられた。
「戦争の記憶が薄れようとしている今日(こんにち)、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や歴史が伝えられていくことが大切であると考えています」
「今年は戦後80年という節目を迎え、愛子にも、戦争によって亡くなられた方々や、苦難の道を歩まれた方々に心を寄せていってもらいたいと思っています」
敬宮殿下は、このような天皇陛下のお気持ちを受け止められて、両陛下とご一緒に沖縄に続いて長崎を訪れられた。
振り返ると、戦後50年にあたる平成7年(1995年)に、上皇上皇后両陛下は「慰霊の旅」として長崎(7月26日)、広島(7月27日)、沖縄(8月2日)、東京都慰霊堂(8月3日)をめぐられている。ご訪問先としてこれらの4カ所が選ばれた背景は、上皇陛下ご自身の「日本人が忘れてはならない4つの日」という考え方にもとづいていた。
■忘れてはならない「4つの日」
上皇陛下はまだ皇太子だった昭和時代に、次のようなお考えを述べておられた(昭和56年[1981年]8月7日)。
「(終戦記念日をひかえて)こういう戦争が二度とあってはいけないと強く感じます。そして、多くの犠牲者とその遺族のことを考えずにはいられません。日本では、どうしても記憶しなければならないことが4つあると思います。(終戦記念日と)昨日の広島の原爆、それから明後日の長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日、この日には黙とうを捧げて、今のようなことを考えています。そして平和のありがたさというものをかみしめ、また、平和を守っていきたいと思っています。
そしてこれは子供達にも、ぜひ伝えていかなくてはならないことだと思っています」
こうしたお考えによって、慰霊の旅のご訪問先の4カ所が選ばれた。
■硫黄島を訪れた上皇陛下
しかも戦後50年の前年、上皇上皇后両陛下には、壮烈な戦闘が行われた硫黄島にお出ましになっておられた(平成6年[1994年]2月12日)。歴史上、天皇が激戦のあった戦跡を訪れられたのは、これが初めてだった。
この時の上皇陛下のご感想は、以下の通りだった。
「硫黄島における戦いは大洋に浮かぶ孤島の戦いであり、加えて、地熱や水不足などの厳しい環境条件が加わり、筆舌に尽くしがたいものでありました。……祖国のために精魂こめて戦った人々のことを思い、また遺族のことを考え、深い悲しみを覚えます」
ここにある「祖国のために精魂こめて戦った」という表現は、この島であらゆる苦難に耐えながら、最後まで敢闘した戦死者に対する、ご褒賞のおことばだろう。
■「いまだ地下に眠りて」
硫黄島ご訪問のことは、和歌にも詠んでおられた。
精魂を 込め戦ひ(い)し 人いまだ
地下に眠りて 島は悲しき
戦死者の遺骨が現地にまだ多く残されている。そのことを、「いまだ地下に眠りて」と表現された。
私事ながら、私の恩師にあたる1人が、硫黄島からの生還者だった。両陛下の硫黄島へのお出ましを目の当たりにして、「亡くなった戦友たちがどれほど喜ぶだろう」と涙を流していた姿を、鮮明に思い出す。
天皇陛下はこのたびの慰霊の旅において、先の「4つの日」にちなむ4カ所だけでなく、硫黄島もご訪問先に加えておられる。
■愛子さまからのご質問
今回の慰霊の旅のしめくくりとなった長崎でも、沿道やお立ち寄りの場所などに多くの人たちが詰めかけて、ご一家を歓迎した。天皇皇后両陛下ならびに敬宮殿下は、お車の窓を開けられたり、立ち止まったりされながら、優しく手を振ってお応えになった。
最初に訪れられた長崎市・平和公園(爆心地公園)では、原爆落下中心地碑にトルコギキョウなどの白い花束を供えられた。ちなみに白いトルコギキョウの花言葉は「永遠の愛」「思いやり」。
ご一家で拝礼をされた時、敬宮殿下がひときわふかく頭を下げておられたお姿が、印象的だった。
この時、ご案内した鈴木史朗・長崎市長の話によると、敬宮殿下から「被爆した直後も、信者の皆さんは浦上天主堂で祈りを捧げられたのですか」という趣旨のご質問があり、「信者の皆さんは被爆直後も、自ら傷ついていても信仰の心を忘れず、ひたすら神に祈りを捧げたと聞いております」とお答えしたという。
その後、長崎原爆資料館をご視察の上、被爆した人たちなどと懇談された。ご懇談の際に、車イスに腰をかけて体験を語る高齢の被爆者と目を合わせるために、それぞれ腰をかがめて、ご一家がおそろいで熱心に耳を傾けておられるお姿は、それを映像によって拝見する者にも、胸に迫るものがあった。
このような場面を拝見すると、敬宮殿下こそが天皇陛下の後継者として最もふさわしい、とごく自然に感じる人が多いのではないだろうか。
■現地でも「ご執務」
なお、この日は閣議が開かれる金曜日にあたっていた。なので、閣議などを経た公文書(上奏書類)が内閣から長崎にいらっしゃる天皇陛下のもとに届けられ、それを決裁される「ご執務」にあたられた。
閣議は原則として毎週、火曜日と金曜日の午前にあり、天皇陛下が国内におられる限り、内閣官房の職員がお出まし先まで書類を運び、現地でご決裁いただくことになっている。海外にお出ましの時は、ご帰国まで国事行為の「臨時代行」として、皇位継承順位が第1位の皇族(今なら秋篠宮殿下)に委任される。
憲法上、行政権の行使について、内閣だけで完結せず、「天皇」の介在が不可欠となっている仕組みを、意外と多くの国民が気づいていないのかもしれない。
■提灯奉迎でかかった虹
初日の夜は、ご一家がお泊まりになるホテルの近くに多くの人たちが集まり、白い提灯を振って歓迎の気持ちを表した。提灯は5500個も用意されたという。
多くの人が集まったために、予定されていた集合場所から人があふれ、他の場所から提灯を振る人たちも大勢いた。
日が暮れる前に提灯奉迎のために集まった人々は、ちょうどその時刻に、お泊りのホテル近くの空に虹がかかるのを目撃した。その光景に神秘なものを感じたようだ。
翌日は「恵の丘長崎原爆ホーム」を訪れられた。ご一家から丁寧にお声をかけていただいた入所者の人たちは、「本当にうれしく思います。感動しました。涙が出ます」「本当に幸せです」「一生の宝物です。私にとっては」「元気が出ました」などと感想を述べていた。
慰霊の旅はここまでだったので、先に述べたように、敬宮殿下はこの後、東京に戻られている。
■敗戦後の昭和天皇の長崎訪問
昭和天皇は敗戦後、さまざまな不便や困難が山積みの中を、戦争に傷つき疲れた国民を励まし慰めるために、全国各地をめぐられた。その総行程は3万3000キロ、総日数165日、お出ましの場所は1411カ所にも達した。
この全国巡幸の一環として、原爆が投下されてからまだ間もない長崎を訪れておられる。昭和24年(1949年)5月24日午後から28日午前まで、現地に滞在された。
長崎への原爆投下では、何の罪もない7万4000人近くの人たちの命が、奪われた。広島・長崎への原爆投下に対しては、当時からアメリカ国内でも批判があった(グルー国務長官代理など)。
日本に対して「無条件降伏」などという定義困難な要求を掲げ続けるのは止めて、現在の皇室のもとでの立憲君主制の維持を約束していれば、もっと早く戦争が終結したはずで、原爆の使用などもともと必要なかった、と。
長崎の爆心地を昭和天皇が訪れられたのは5月27日。
そこには白い記念塔が建てられていた。近くにはアメのように曲がった鉄骨が赤さびて立っている。遠く浦上天主堂の被爆の跡も見える。
昭和天皇がお出ましになった浦上球場の奉迎場には、約5万人の大群衆が集まっていた。その大群衆による「君が代」の合唱の後、昭和天皇はマイクの前に立たれた。
■「やすらけき世」を
当時としては、広島市を訪れられた時(昭和22年[1947年]12月7日)に次ぐ異例として、天皇のおことばがあった。
「長崎市民諸君、本日は長崎市復興の状況を見聞し、また、市民の元気な姿に接することができてうれしく思います。長崎市民が受けた犠牲は同情にたえないが、われわれはこれを平和日本建設の礎として、世界の平和と文明のために努力しなくてはならぬと思います」
スピーカーからお声が会場のすみずみにまで響いた。おことばが終わると人々は万歳を繰り返し、涙を流して日の丸を振った。昭和天皇は、お帽子を何度も高く振られて、人々にお応えになったという。
昭和天皇は昭和63年(1988年)、ご生涯の最後に迎えられた終戦記念日に、次のような和歌を詠んでおられた。
やすらけき(安らけき) 世を祈りしも いまだならず(成らず)
くやしくも(悔しくも)あるか きざし(兆し)みゆれど(見ゆれど)
そのご生涯を貫いた「やすらけき世」つまり平和な世界への強い希求が、「くやしくもあるか」という激しすぎるほどの表現で、吐露されていた。
■平和への願い、受け継がれるべき方は
その昭和天皇の平和への願いを、上皇陛下から令和の現代へと受け継いでおられるのが、天皇陛下にほかならない。
さらにそれを揺るぎなく次代へと受け継がれるべき方は、どなたか。改めて述べるまでもなく、ご幼少時から長く両陛下のご薫陶を受けてこられた、敬宮殿下以外には考えられない。
そのことは、天皇陛下が今回の長崎ご訪問のご感想の中で、次のように述べておられたことからも、明らかだろう(9月12日に宮内庁が発表)。
「初めて3人そろって長崎県を訪れることができ、うれしく思います。80年前の原爆投下により犠牲となられた方々に哀悼の意を表するとともに、これまでの長崎の人々の苦難を思い、平和への思いを新たにしました。……
初めて長崎県を訪れた愛子も改めて原爆被害の実相を肌で感じるとともに、苦難を乗り越えてこられた長崎の人々の強い平和希求の思いを深く心に刻んでいます」
皇室における「世襲」の最も重要な意味とは何か。“大切な精神の受け継ぎ”こそが、その核心であるはずだ。
天皇皇后両陛下には敬宮殿下という、両陛下のお気持ちを誰よりもまっすぐに受け継いでおられるお子さまがいらっしゃる。にもかかわらず、今の皇室典範のルールでは「女性だから」という“だけ”の理由で、皇位継承のラインからあらかじめ除外される。およそ時代錯誤で理不尽なルールと言うしかない。
しかもこのルールは、側室不在の一夫一婦制で少子化なのに、明治以来の窮屈な「男系男子」限定を“うっかり”そのまま維持するという、致命的なミスマッチを抱えている。だから制度として、そもそも持続困難だ。
世襲の皇位を安定的に将来につなげるためには、男女の性別に関わりなく直系による継承を可能にするルールに、すみやかに変更すべきだろう。
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高森 明勅(たかもり・あきのり)
神道学者、皇室研究者
1957年、岡山県生まれ。国学院大学文学部卒、同大学院博士課程単位取得。皇位継承儀礼の研究から出発し、日本史全体に関心を持ち現代の問題にも発言。『皇室典範に関する有識者会議』のヒアリングに応じる。拓殖大学客員教授などを歴任。現在、日本文化総合研究所代表。神道宗教学会理事。国学院大学講師。著書に『「女性天皇」の成立』『天皇「生前退位」の真実』『日本の10大天皇』『歴代天皇辞典』など。ホームページ「明快! 高森型録」
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(神道学者、皇室研究者 高森 明勅)