■クラゲを国民的惣菜にした男の戦略
日本は海に囲まれた島国で、古くから水産加工業が栄えていました。かまぼこ、佃煮、イカの塩辛、練ウニ、魚の干物など、多種多様な水産加工食品が存在していました。
しかし、これらの市場はすでに老舗がひしめき合い、競争が激しく、新参者が入り込む余地はほとんどありませんでした。
それでも私は、道を切り拓く方法がほかにあるのではないか、と考えました。そこで目をつけたのが、「ニッチ市場の開拓」です。大手企業や老舗が目を向けない食材に着目し、新しい価値を見出すことで勝負する。いわば、「オンリーワン」の発想です。
ナンバーワンを目指さず、オンリーワンを目指す――。のちに私の信念となるこの経営手法は、「すき間」でもがき、必死になって勝負した経験から確立したものです。大手と同じ土俵で戦っても勝ち目はない。でも誰も手をつけていない領域で独自の価値を提供すれば、当面は無競争な市場で独り勝ちすることができます。
時は高度成長期、庶民の所得も増えていきました。ちょっと高価な食品でも買っていただけるだろうと当て込み、私は勝負に出ました。
この考えの原点にあったのは、私が常に学んできた「歴史」でした。
歴史には、時代の変化のなかで新しい価値をつくり出した人物が数多くいます。
たとえば、織田信長もその一人でしょう。彼は戦国時代に、それまでの戦術を一変させる「鉄砲」を導入し、独自の戦略で天下を勝ち取りました。
前例がないなかで新たな技術を取り入れ、唯一無二の存在として歴史上にその名を刻んだ人物です。
このように、歴史から得た発想は、現代のビジネスにも十分に応用できるのです。
■「捨てられる食材」を惣菜に
私の場合は、「捨てられた食材」や「誰も見向きもしなかった食材」に価値を見出しました。のちほど詳しく触れたいと思いますが、まさに「クラゲ」がそうでした。
日本では当時、クラゲは一般的な食材ではありませんでしたが、中国では医食同源の考えのもと、高級食材として古くから重宝されていました。
私は、「クラゲを惣菜として普及させることができないか」と考え、商品開発に取り組みました。
また、ホタテのヒモも同様です。北海道の漁師たちは、貝柱だけを出荷し、ヒモの部分は廃棄していました。私は「このヒモも価値を見出せるのではないか」と考え、商品化して市場に投入しました。
こうした未活用の食材を商品化する手法は、大栄フーズの「オンリーワン」戦略を支える大きな柱となっていったのです。
「中華くらげ」は、今ではすっかりおなじみのシーフーズ惣菜となっています。おそらく、本書をお読みの皆さんのなかにも、食べたことがある人は多いでしょう。
しかし、かつてはクラゲを食用とする文化は日本にはほとんどなく、「中華くらげ」のような商品は市場に存在していませんでした。
この「中華くらげ」こそが、私の「オンリーワン発想」から生まれた大栄フーズの代表的なヒット商品の一つです。
ここでは、その誕生秘話をお話ししたいと思います。
■魚×肉で追い求めた「新しい味」
「クラゲは食べられるものなのか?」とすら思われていた当時、私は横浜中華街で中華料理の一品としてクラゲが提供されているのを目にしました。
「横浜中華街の味」として売り出せば、日本でもクラゲを普及させることができるのではないか……⁉ そうひらめいた私は、クラゲを惣菜として商品化してみることにしました。
それまでの水産加工品といえば、酢漬け、塩漬け、味噌漬け、粕漬け、醤油漬けといった、日本伝統の味付けが主流でした。
試行錯誤の末、クラゲの味付けの決め手となったのは、肉エキスとごま油でした。
当時、日本の水産加工業界では、魚の味付けに肉のエキスを使うという発想がなかったため、このアイデアはかなり画期的だったと思います。しかし、これをかたちにするまでの道のりが険しかった……。
とにかく日本人の舌になじみやすく、なおかつ惣菜として飽きのこない味に仕上げなければなりません。最初はメンマと和えた試作品を作ってみましたが、冷凍後に解凍すると水分が出てしまい、失敗。失敗を重ねるたびに、原因を探りながら何度も改良を重ねました。
何にせよ、当時の水産加工品でこれまでになかった「新しい味」をつくろうという挑戦です。
■「舌頼み」の試行錯誤
私は横浜中華街のレストランに何度も足を運び、お店の味を勉強しました。そこで食べた料理を思い出しながら、自分の舌を頼りに、その味を再現する。納得のいく味に仕上がるまで、いろいろな調味料の配合を試す日々が続きました。
ようやく「味の決め手は肉エキスとごま油だ」と手がかりを得ても、そこからが本当の勝負でした。
そうかといって、ごま油を少し多めにしてみると、今度は香りが強く主張しすぎる。その絶妙なバランスを探るために、わずかな配合の違いを試す細かな作業を何度も繰り返しました。
私は、昼夜を問わず時間ができればキッチンに立ち、仕事の合間をぬって何十回と試作を続けました。そしてようやく「これならいける!」と、確信できる自信作にたどり着くことができたのです。その瞬間は、苦労した分だけ、格別な手応えがありました。
■横浜中華街のイチャモン
結果として、開発時の苦労が報われ、「中華くらげ」は大ヒットしました。しかし話はここで終わりません。その裏には、こんな思わぬエピソードもあります。
ある日、横浜中華街の関係者からクレームの電話が入りました。
「おたくは横浜中華街の店ではないのに、『中華街の味』として売るのはおかしい」と言われたのです。
私はこう答えました。
「確かに、中華街ではクラゲは高級な一品として提供されています。しかし、もっと多くの人に中華くらげを知ってもらい、日本全国で親しまれるようにすることも大切ではありませんか? 私どもの会社は横浜と隣接する相模原市にあり、あなた方とは“隣組”のような関係です。ご近所同士なのだから、うちの商品が全国で売れれば、横浜中華街にもっと多くのお客さんが訪れるようになりますよ」。
すると、相手は納得したのか、それ以上何も言わなくなりました。
商品力の要であったオリジナルの味付けは、発売後しばらくは企業秘密にしていました。ところが7~8年もすると、コピー商品が次々と出回るようになり、また別の課題が持ち上がるようになりました。
結果として、「中華くらげ」は全国的な定番商品になりましたが、その分、価格競争もどんどん激化していきました。
それでも、「中華くらげ」が日本の食卓に定着したことには、大きな誇りを感じています。
かつては誰も見向きもしなかった食材を、一つの新しい「惣菜」として普及させることができたのですから。
■デパ地下で人気に火が付く
どんなに良い商品をつくっても、世の中に広く知ってもらえなければ、消費者に買ってもらうことはできません。それは今も昔も同じでしょう。
現在であればSNSなどのデジタルマーケティングが活用できますが、当時はインターネットの口コミサイトも存在せず、広告手法はかなり限られていました。
最初に取り組んだのは、東京や地方のスーパーをくまなく回り、「中華くらげ」の食べ方を説明しながら営業することでした。
しかし、どこへ行ってもなじみのない食品に対するお客様の反応はいまひとつ。東北地方のスーパーに持ち込んだ際には、「これは切り干し大根じゃないの?」と間違えられたほどです。
試行錯誤が続くなか、販路拡大の突破口となったのが「デパートの催事コーナー」でした。
最初に採用されたのは、東京・三越日本橋本店の催事コーナーでした。そこで試食販売を行うと、奥様方が競って買い求めるほどの大ヒットとなりました。なんと、1日で300キログラムもの販売実績を記録したのです。これが全国展開への足がかりとなりました。
デパートの催事コーナーには、全国のバイヤーや催事業者が情報収集のために訪れています。三越での成功が口コミで広がり、全国の催事業者から「うちでも取り扱いたい」と次々に声がかかるようになりました。
■「珍味」ではなく「惣菜」として愛される意味
デパートの催事コーナーの全国ネットワークで販売されるようになると、今度はスーパーからも声がかかるように。こうしてデパートの催事場をきっかけに、「中華くらげ」は一気に全国規模のヒット商品へと成長したのです。
ひっきりなしに舞い込む注文に応えるため、皆、夜中まで働きました。じつにうれしい悲鳴です。
この販売戦略には、明確な狙いがありました。
当時、中内㓛氏が創業したダイエーをはじめとする総合小売業が勢いを増すにつれ、市場ではどんどん低価格競争が激化していました。商品が「安さ」で評価される時代の到来です。
一方、デパートの催事コーナーには、質の良い商品や変わったものを求める購買力の高い顧客が集まっていました。そういう方々は「新しくておいしいもの」に対して積極的にお金を払う層でした。
スーパーで普通に売られている食品ではなく、特別な商品として認知してもらう。この差別化こそが、オリジナルのブランドを築く一つの要因になったのではないかと思います。
もちろん、今の時代のやり方とは異なりますが、時代の流れに合わせながら、いかに差別化を図り、ブランド力を高めていくか。それは現在のビジネスにも通じるものです。
結果的に、「中華くらげ」はスーパーにも広がり、全国的な定番商品となりました。しかし、そのきっかけをつくったのは、デパートの催事コーナーでの販売戦略でした。
安く売るのではなく、価値を伝えることに注力した結果、「中華くらげ」は単なる珍味ではなく、多くの人に愛される「惣菜」となったのです。
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岡 康人(おか・やすと)
大栄フーズ株式会社 代表取締役会長
1941年広島県生まれ。高校時代より経営者を志す。地元の県立高校を卒業後、航海士を目指し水産講習所(現・水産大学校)へ進学。卒業後は横浜の海運会社に就職し、石油タンカーなどの不定期船を保有する船会社と商社・港などの仲介業務を担当するも、独立への思いが高まり退職。創業に向けて、仕事のノウハウを学ぶため水産加工会社に転職する。水産加工会社では原材料調達に携わった後、希望して営業職へ転属し、8カ月でトップセールスとなる。28歳で座間市相模台に大栄フーズを創業。斬新な発想と「すぐやる、今やる、できるまでやる」の信念で、「中華くらげ」「とびっ子」など数々のヒット商品を生み出し、同社を業界のパイオニアへと成長させる。2023年5月に同社の代表取締役会長に就任。
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(大栄フーズ株式会社 代表取締役会長 岡 康人)