連結で約7万5000人の社員を抱える「自称中小企業」のスズキ。この会社の宴会のビールが、ある日からすべてアサヒ「スーパードライ」になった。
長く自動車業界とビール業界を取材してきたジャーナリストの永井隆さんがその知られざる内幕を明かす。
■「屈まなくても済む。これは軽自動車なのか…」
スズキ「ワゴンR」が発売されたのは1993年9月。その数年後、アサヒビール社長だった瀬戸雄三は浜松のスズキ本社を訪ね、鈴木修と接見した。もちろん、目的はビールの売り込みである。
ビール業界3位で経営危機に直面していたアサヒが、「スーパードライ」を乾坤一擲とばかりに発売したのは1987年3月。「スーパードライ」は大ヒットし、ビール戦争が勃発する。瀬戸が鈴木修を訪ねた時は、アサヒはキリンビールなど3社と激しいシェア競争を演じている最中だった。
瀬戸は1930年2月25日生まれなので、同年1月30日生まれの鈴木修と同学年。しかも、瀬戸は53年に慶応大法学部を卒業してアサヒに入社したが、鈴木修も同年に中央大法学部を卒業していて大学の卒業年も一緒だった。
浜松駅に降り立った瀬戸は、アサヒ浜松支店長から言われた。
「今日は、ちょっと変わった車に乗っていただきます」 
支店の前に、若手営業マンが運転する“ちょっと変わった車”が横付けされる。

「社長、このクルマはおじぎをせずに、乗車できるのです」

「ほんとだ、屈まなくても済む。これは軽自動車なのか……」
瀬戸を乗せた“ちょっと変わった車”は、スズキ本社の正門をくぐり構内の駐車場に止まる。係員に教えられ、瀬戸らは正門の正面にある三階建ての茶色いビルに入る。
一階はシーンと静まり返り、誰もいない。受付の女性すらいないのだ。インドをはじめ各国で事業展開する世界企業の本社受付とは、想像できぬほどの簡素さである。コスト削減を徹底させている証でもあった。
受付の女性の代わりに、カウンターに小さな電話機が一つ置いてあり、支店長が内線を回して来訪を伝える。
「三階に上がって欲しいとのことです」
■「本日は、ワゴンRでまいりました」
通された小学校の教室ほどの部屋で待っていると、やがて勢いよく扉が開き、
「オウ、イラッシャイ」
と、作業服と一緒に白いワイシャツのソデをまくった、まゆ毛の長い男が突然一人で現れた。鈴木修である。
腕白少年がいきなり入ってきた風情だった。
瀬戸は立ち上がり、深々と頭を下げ、名刺を交換すると、にこやかな表情ですかさず言った。

「本日は、ワゴンRでまいりました」、と。
すると、鈴木修は、「ホーウ、そうですか」と、よく通る声で笑顔を返す。
だが、このとき鈴木修は内心思っていた。
「天下のアサヒビールの社長が、ワゴンRには乗らんだろう。どうせ、ベンツかクラウンで来たのに違いない。調子のいいことを言いやがって、この社長はとんだ“タヌキ”だ」
鈴木修は、自身もタヌキであることを、平然と棚上げする。というより、自身がタヌキであるという意識そのものがない。
二人は談笑を続け、瀬戸は「スズキさんの宴会施設やゴルフ場でも、ぜひ当社のスーパードライをご愛飲いただけるよう、宜しくお願いいたします」と再び深々と頭を下げた。アサヒ浜松支店長、運転手とカバン持ちを務める若手営業マンも瀬戸に続き、深く低頭する。
すると鈴木修は、
「イヤー、ハハハ」と、大声を出しながら照れたような表情を作ると、体をのけ反ってみせながら、瀬戸の依頼をいなしていく。
瀬戸はアサヒが低迷していた時代からどぶ板を回って酒販店や飲食店にビールを売りまくり、営業の総大将から社長に登りつめた人物である。
■瀬戸はアサヒの21年ぶりのプロパー社長
1971年からアサヒビールに旧住友銀行(現・三井住友銀行)から社長が派遣されていた。
本来は、アサヒとサッポロビールとの合併を目指しての派遣だった。しかし、合併構想は流れてしまう。もともとアサヒとサッポロは大日本ビールという同じ会社だったが、GHQ(連合国軍総司令部)により1949年に分割される。これを、元の大日本ビールに戻そうとしたのだが、不調に終わった。
以来、4代にわたり住銀出身者がアサヒの社長を務めたが、ビールを知らない銀行出身者が経営を担ったため、「ナイヤガラの滝」と呼ばれる凋落をアサヒは示した。
ようやく、4人目の樋口廣太郎(元住銀副頭取)の時代に「スーパードライ」が発売される。樋口は、「ヒット商品が生まれたアサヒが発展するためには、銀行出身者でなくプロパーが社長になるべき」と住銀に対し主張。92年9月に21年ぶりのプロパー社長に、樋口から指名されたのが瀬戸だった。
鈴木修は第3代社長が病気で倒れたため、1978年に緊急登板する形で第4代社長に就いた。48歳の若さでだった。社長就任以前から、スズキの国内販売を支える業販店網を構築していった。販売現場をとことん回り、ハート・ツー・ハートで販売店主たちとの関係性を軸に、軽自動車を全国に売り歩いた。
全国にディーラー網をもつトヨタや日産を向こうに回してである。
バブルが崩壊していった90年代半ば、「ワゴンR」は「カローラ」を販売台数で上回る車種別ナンバーワンブランド。鈴木修は自動車業界を代表する営業マンだった。
超一級の営業マン二人によるやり取りが演じられたが、和やかな雰囲気のまま時間は過ぎる。トップセールスという場において、和やかさとは最低限のマナーなのかもしれない。
談笑が終わり、普段なら来客を一階のエントランスまで見送る鈴木修だが、エレベーターの前で瀬戸を送る。
■スズキの行事のすべてが「スーパードライ」に
鈴木修はすぐに社長室に戻り、カーテンを少しだけ開き、「アサヒの社長はどんな車に乗っているのだろう」と、こっそりと観察したのだ。
するとどうだろう、一台の「ワゴンR」が駐車場からゆっくりと走り出し、正門の前で一時停止すると、守衛所でサインをするために降りてきたのは、さっきまで同席していたアサヒ浜松支店の若い営業マンだった。瀬戸は本当に「ワゴンR」に乗ってきたのである。軽自動車は正門を出るとすぐに左折して、市内方面へと走り去っていった。
「ワゴンR」に瀬戸が乗っているという事実に、鈴木修は完全に一本をとられた。
デスクの引き出しをあけて便せんとペンを引っ張り出すと、すぐに手紙を認める。
手紙は「守衛が『瀬戸社長はワゴンRに乗ってました』と私に注進してくれまして」と、一部“作文”したが、来訪のお礼と、「ワゴンR」を利用してくれている感謝の念を存分に滲ませた。
が、それだけではない。
この一件以降、鈴木修は「スーパードライ」以外のビールを飲むのをやめ、スズキの施設で出すビールもアサヒに替えた。さらに販売店大会などの行事で供するビールをすべて「スーパードライ」に統一したのだ。ホテルがアサヒを扱っていなければ、特別に「スーパードライ」を取り寄せた。見返りを何一つ求めずにだ。ここまでやる理由は、すごくシンプルだった。
鈴木修は言った。
「日本のビール4社は、みな大手企業ばかり。でも、浜松のスズキまで足を運んでくれたのは瀬戸さんだけだから」
アサヒ社内では、この一件以降「守衛さんまで我々を見ている。営業は客先を出るまで細心の注意を払わなければならない」という教訓になっている。この考え方自体は正しい。
だが、売り込みが成功した本当の理由は違う。
一つは、瀬戸が鈴木修のいる浜松まで営業に赴いたということ。そして何より、アサヒ浜松支店、すなわち営業現場が瀬戸を「ワゴンR」に乗せるという基本的な行動をした点だった。
■年齢も一緒の「軍国少年」
終戦を鈴木修は姫路の特攻隊基地で迎えたが、瀬戸は同じ兵庫県の神戸市長田区にある神戸三中(現在の県立長田高校)で迎える。
瀬戸は神戸三中の4年生。授業はなく、毎日を高射砲に搭載する照準装置品を教室内で製作する勤労動員に励んでいた。神戸は何度も空襲に遭い、本来の勤労先である三菱電機の工場は焼失。設備を教室に移設しての精密品の製作だったが、焼夷弾が投下された三中も校舎の一部が焼け落ちていた。
1945年8月15日正午、玉音放送を聴き、クラスの全員が男泣きをする。しかし、誰かが訴えた。「今回は負けたが、次の米英との戦争に備えよう」と。すると全員が賛同。半製品を筵(むしろ)に包み、校庭の隅に大きな穴を掘って埋めたそうだ。
「埋め終わったとき、昭和20年8月15日の夕焼けがすごく美しかったのを覚えています」と瀬戸はしみじみと話してくれた。鈴木修のような兵士にはならなかったが、瀬戸も戦っていたのだ。
年齢が一緒の上、軍国少年だった点でも二人は共通していた。そのせいか、互いにウマが合い、瀬戸が鈴木修を隅田川花火大会見物に招待するなど、交流は続いた。
アサヒは発泡酒を含まないビールだけの市場で、98年にキリンを逆転する。翌99年1月、68歳だった瀬戸は社長を退き会長になる。サラリーマン社長である瀬戸の社長在任期間は6年5カ月。
01年、発泡酒を含めたビール系飲料総市場でアサヒは実に48年ぶりにキリンを逆転して首位に立つ。すると、翌02年1月瀬戸は相談役に退いた。
■瀬戸雄三が「もう後進に譲れ」と言っていると
鈴木修は「瀬戸君は早く辞めすぎた。若いのにもったいない。経営者は経験を積むほどに、勘は磨かれていく」と筆者に話したことがある。
一方の瀬戸はあるとき、75歳を過ぎても事実上の経営トップを務め続ける鈴木修に対して、「一体、いつまであいつは(経営トップを)やるつもりなんだ。自分の年齢を考えるべき。何より、後継者が育たない。瀬戸雄三が『もう後進に譲れ』と言っていると、鈴木修に伝えなさい」と、筆者に言った。伝言はしなかった。本当に伝えたなら、鈴木修はきっと怒るだろうと判断したからだ。
業界は違えど、いずれも激しい企業間競争で指揮を執った男だったが、オーナー経営者とサラリーマン経営者の任期、さらには経営そのものに対する考え方の違いを感じた。
■「連結売上の約1.5倍の借金があった」
プロパーの瀬戸がアサヒ社長に92年に就く前、当時“住銀の天皇”と呼ばれて絶対的な権力を有していた磯田一郎会長(当時)に対しても、樋口は言った。「これからも銀行(住銀)から人を受け入れます。しかし、社長にはしません」、と。出身母体の天下り先の確保よりも、アサヒの将来を優先させる判断だった。
それでも、樋口と瀬戸はやがて反目していく。樋口が始めたゴルフの冠大会、オペラ公演、パリのレストラン事業、さらに海外事業を、瀬戸は次々とやめていったのだ。バブルが崩壊し、樋口がつくった“負の遺産”に、アサヒは苦しめられていく。92年当時、「連結売上の約1.5倍の借金があった」と瀬戸は生前に話してくれた。しかも、連結での開示義務がなかった時代だったため、この事実を社内で知るのは瀬戸をはじめ一握りの幹部だけだった。なので、生き残るためには、アサヒは売り上げを伸ばしてキリンに勝つしかなかったのだ。
一方、78年に社長に就いた鈴木修の社長会長歴は43年間に及ぶ。超長期政権を維持し続けた。社内に対立する存在は、皆無となっていく。ワンマン経営でスズキをけん引するその姿と生き様は、「中小企業のおやじ」そのものだった。

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永井 隆(ながい・たかし)

ジャーナリスト

1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)
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