トヨタ自動車の豊田章男会長は、社長在任中より「MORIZO」という選手名で積極的にカーレースに出場している。なぜトップ自ら危険なレースに飛び込むのか。
スーパー耐久の最終戦(富士スピードウェイ)を取材したノンフィクション作家・野地秩嘉さんが書く――。
■ママチャリでも走れる異色のサーキット場
富士スピードウェイが開設されたのは1966年だ。日産のサニー、トヨタのカローラ、スバル(当時 富士重工)のスバル1000、マツダ(当時 東洋工業)のルーチェが出た年でもある。日本のモータリゼーションが本格化した1966年に富士スピードウェイは完成し、以後、モータースポーツの殿堂としてさまざまなレースの会場となった。日本グランプリ、F1世界選手権から始まり、スーパーGT、スーパーフォーミュラ、スーパー耐久などが行われる。
また、自転車競技、マラソンにも使用され、なかでも人気なのが毎年、1月に開かれる「スーパーママチャリグランプリ」だ。グランプリコースをママたち、カップルが疾駆する壮絶なグランプリレースである。
今年の11月16日、富士スピードウェイではスーパー耐久の最終戦が行われていた。スーパー耐久とは自動車レースのカテゴリーのひとつで、市販の車に改造を施したマシンを用いて行う。最終戦では4時間の間にサーキットを周回して競争する形式となっている。
■トヨタが「アメリカ車」として出走
同レースでトヨタはST-Qという先端技術を使うクラスに4台の車両を出走させた。うち1台のドライバーはMORIZO選手(トヨタ自動車会長の豊田章男)だ。
ベースにした車はGRカローラ。液体水素を燃料とした水素エンジン車に改造してある。カーボンニュートラルの実現に向けて、これまでトヨタは水素エンジンを開発してきた。開発を続けながら、車両をレースに出走させて、車を鍛えたのである。この水素エンジンについては後述する。
スーパー耐久の最終戦と同じ日に行われたイベントが、アメリカから来たNASCARマシンのデモランだった。NASCARとはかつては四輪の市販車(ストックカー)をベースにした車で行われたオーバル(楕円形)コースを周回するレースのこと。現在の車両は市販車に似せたレーシングカーで、参戦しているメーカーはGM、フォード、トヨタの3社だけだ。アメリカ製の車だけが出走できるレースなのである。トヨタが参戦できているのはアメリカにおいてトヨタの車は「自国車」として認知されているからだ。
■爆音で車体をぶつけ合う「走る格闘技」
わたしはNASCARをカリフォルニアで見た。日本で開催されているレースとはまったく違う種類のスポーツ・エンターテインメントだと感じた。
サーキットはオーバル(楕円形)だ。観客は見下ろすように座る。レースの間、エンジンの爆音とアメリカのロックやカントリーミュージックが流れる。お祭りのような雰囲気のなか、40台の車が最高時速250km超で周回する。
先頭を走る車から最後尾の車までのタイム差は一瞬だ。つまり、全車がダンゴ状態になって競い合う。当然、車同士は接触し、コースアウトする。先頭に出るためには競走相手の車にぶつけることもいとわない。NASCARは走りを追求する一方で、車と車がぶつかり合うレースだ。走る格闘技とも表現できる。
今回、行われたデモランにはアメリカから6台の車両が運ばれてきた。乗り込んだのはジミー・ジョンソン、ジョン・ネメチェク、小林可夢偉、古賀琢麻、小高一斗、大湯都史樹の6人のドライバーである。

デモランに出走したNASCARドライバーのうち、4人はレースの魅力をこう語っている。
● ジミー・ジョンソン選手

「NASCARはアメリカのモータースポーツで、非常に激しい競争が見られるレースです。強力な馬力の車を使って、止まる、加速する、曲がるレースなんです。車間距離も本当にゼロに近い形で、ギリギリのところで争う。その音やフィーリングや、あるいは雰囲気、そういったものを今回デモ走行で楽しんでいただければ幸いです」

■メカニックマンがスターになれる場所
● ジョン・ネメチェク選手

「NASCARはアメリカ文化の代表だと思います。それを楽しんでいただきたい。また、レースに勝った選手には作法があります。ゴールした後、タイヤから煙が出るくらいまで、ドリフトさせて車を回す。タイヤがパンクするまで白煙を出す。そこも含めてNASCARです」
● 小林可夢偉選手

「私は2回、NASCARのカップレースに出ました。2回とも同じ選手に当てられて、車をスピンさせられました。次に出る時は今度は自分から当てに行きます。
でもそれがルールなんです。誰もNGとは言われない。これこそがNASCARなんです。僕が車をわざと当てに行くって言っても、周りの選手は『OKだ』って言いますよ。NASCARって格闘技なんです」 ● 古賀琢麻選手

「僕からNASCARについて強調したいのはアメリカ国民が支持しているレースだということ。みんなが大好きなレースで、トランプ大統領もファンです。NASCARの選手はものすごい人気があります。そして、選手だけでなくメカニックもフィーチャーされています。例えばタイヤを交換するタイヤマンだったり、ガスを入れるガスマンだったり、ジャッキで上げるジャッキマンもスターなんです。ドライバーだけでなくクルーチーム全員がスターであるというモータースポーツがNASCARです」
■トランプTシャツ、MAGAキャップという徹底ぶり
NASCARのデモランには自らが大ファンだというジョージ・グラス駐日アメリカ大使が夫妻でやってきた。イベントを主催した日本自動車会議所の会長、豊田章男は自らフォードF-150を運転して、駐日大使夫妻をコースまで先導した。その際、豊田章男が着ていたのはトランプ大統領とバンス副大統領の顔写真が入った真っ赤なTシャツだ。
加えて“Make America Great Again”と書かれた真っ赤なキャップをかぶっていた。
豊田章男は最高の歓迎を行うために、自ら衣装を選び、自らドライバーを買って出た。細部にまでわたるもてなしはスタッフのアイデアではなく、彼自身が考えて実行に移したのだろう。
「心から人をもてなす」とはホストが自らやることをいう。
NASCARの魅力について、自動車会議所会長の豊田章男はこう語っている。
「モータースポーツのエンターテインメントです。モータースポーツのプロレスと言ってしまうと誤解されるかもしれませんが、このレースには主役と悪役がいます。ダメなのは存在感のない役(ドライバー)です。主役と悪役を作ることで物語が生まれてエンターテインメントになっていくんです。僕自身は随分前にもNASCARの車に乗ったことがあります。今回の車はあの頃に比べてシートの安全性能などが格段に上がっている。その分、乗りづらくなったのですが、安全に関しては非常に進化していますね」
■話題は車、カーレース、ビーフステーキ…
デモランが始まる直前、駐日大使と豊田章男はふたりで会場に展示されていた車を見て回った。
「タンドラ」「ハイランダー」「カムリ」といったトヨタがアメリカで売っている車である。また、同じ場所ではアメリカンビーフのステーキを売るキッチンカーも出ていた。ふたりはアメリカ製の車と牛肉の前で話し込んでいた。車、カーレース、ビーフステーキの話題でふたりは楽しそうに笑っていた。日米友好とは好きなものの話をしながら笑うことなのだろう。
さて、グラス大使と豊田会議所会長はサーキットに降り立った。そして、ふたりで声を合わせて“Start your engines!”と叫ぶ。そして、NASCARのデモランが始まった。6台の車両がエンジン全開で約4.5kmのコースを6周、走った。エンジン音はすさまじいものだった。観衆は車が近づいてきたら、指で耳をふさいだ。グラス大使やアメリカ人観客は片方の耳だけ指でふさぎ、反対側の腕を突き上げて「Go! Go! Go!」と怒鳴っていた。爆音に慣れているのだろう。
しかし、爆音と油のにおいがカーレースだ。爆音こそがNASCARの命だ。デモランの後、わたしは旧知の名ドライバー古賀琢麻にエンジン音について質問した。
■ドライバーはなぜ爆音が平気なのか?
彼は親切に教えてくれた。
「車両はアメリカで走っている時のままです。エンジンはV8(8気筒)のOHV。日本の車だと静音の装置があるかもしれないけれど、昔のアメ車はV8だから、どの車もあんな音がするんです」
わたしはひとつだけ追加で聞いた。
「ドライバーは車のなかにいてうるさくはないのですか?」
「僕らはみんな耳栓を付けて走ってます。それは音を小さくするためというより、スポッターからの指示を聞くためです。NASCARの車って、サイドミラーが付いていません。なぜかと言われれば、ぶつかるのが当たり前だから、サイドミラーなんかすぐにもげて飛んでいってしまう。だから、最初からサイドミラーをつけていない。その代わりに外からスポッターが『アウトサイドへ行け、インサイドが空いてる』って指示をします。耳栓のなかにイヤホンが入っていて、スポッターの声が聞こえてくる。車のなかにいればうるさくはないです。
今回は6台だから、音も大したことはない。本番では40台が連なって走るのだから、もっともっと大きな音になります」
■「MORIZO選手」として走る、走る
次は水素の話だ。トヨタはカーボンニュートラルを実現するために、EVや燃料電池だけでなく、水素を燃料とするエンジンを開発してきた。開発した車両はレースに出走させた。テストコースで走らせるだけでなく、耐久レースに出すことが車を鍛えることにつながる。レースは着順やタイムを争うだけのものではなく、車の性能を向上させるために走らせる。創業者の豊田喜一郎も「単なる興味本位のレースではなく、日本の自動車製造業の発達に、必要欠くべからずものである」といっている。
今回、トヨタは新技術を実装した車両をお披露目した。それが超伝導技術だ。-253℃の液体水素が入る燃料タンクのなかに超電導モーターを設置したのである。-253℃の低温度環境下では電気抵抗がゼロになるため、モーターの出力をロスなく使うことができる。また、従来は燃料タンクの外にあったモーターとポンプユニットをタンク内に入れた。外のスペースが空いたためにタンク容量を大きくすることができた。
液体水素の低温を利用して超伝導技術を使うことができた。加えて、タンク容量が増えたために航続距離を伸ばすことができた。一石二鳥とはこのことではないか。
開発の都合で、決勝ではひとつ前のバージョンの水素エンジンのGRカローラが走行した。グラス大使を歓迎した豊田章男はレーシングスーツに着替え、MORIZO選手となって決勝に参加していた。その日は日曜日だ。だが、彼に休みはない。大使の歓迎から、液体水素エンジンの開発まで、働いて、働いて、働いていた。
■なぜ会長自らレースを走るのか
ふつうの会社なら、社長や会長が危険なレースに参加すると言い出したら止めるだろう。なぜトヨタ会長・豊田章男はMORIZO選手としてレースを走るのか。その答えは、富士スピードウェイの隣にあるウェルカムセンターに隣接する、ルーキーレーシングのガレージにある。
ルーキーレーシングは豊田章男のプライベートチームであり、MORIZO選手はこのチームのオーナーでもある。ガレージはレーシングカーを整備、調整する場所だ。本物のレーシングカーが置いてあるほかに、レーシングスーツ、シューズなどの展示もある。
車の整備をする場所だが、あえて公開している。ここの見どころはタイヤ交換の練習だ。常時、やっているわけではないが、「いかに早く、いかに正確にタイヤ交換できるか」はレースの勝敗を左右する。ルーキーレーシングのタイヤ交換は勘と経験に頼ったそれではない。トヨタ生産方式に則り、作業分析をして、動作のムダを省いたものだ。一見の価値があるタイヤ交換なのである。
ガレージの担当者はこう言った。
「ガレージは機密情報が詰まった施設です。しかし、公開しているのはMORIZO選手のアイデアです。MORIZO選手は『子どもたちに見てもらいたい。レースに関わる仕事を未来の職業の選択肢にしてほしい』と考えています。
それはMORIZO選手の幼い頃の思い出にあります。10歳の時、お父さん(豊田章一郎)に連れられて、富士スピードウェイにレースを見に来たそうです。その時、レースカーと車を整備する大人を見たことが記憶に残ったとのこと。同じ体験を子どもたちにも感じてほしいそうです」
■見て、感じて動く。だから共感する
彼はグラス駐日アメリカ大使を歓迎するセレモニーを行った際、報道陣に向けたインタビューでモータースポーツと子どもたちについて触れている。
「(報道陣へ)みなさん、モータースポーツの紹介であれば、子どもたちを共感させてください。モータースポーツは頭で理解するのではなく、見て、感じて動くものだと思います。感じて動くから感動し、共感するわけです。
(大使に微笑みかけながら)来年、アメリカは建国250周年を迎えます。先日アメリカ大使館に行った際、日本とアメリカの産業界のみならず、文化面やスポーツ面などさまざまな交流を考えているという話をしました。その時、『モータースポーツもありますよね』と提案させていただきました。
大使とはレースの話ですごく盛り上がりました。今回はトライアルとして2カ月の準備期間でNASCARのデモランを実現することができました。やってみると色々なことがわかってきました。(略)
現在、大谷翔平選手をはじめ、日本のスポーツ選手がアメリカで活躍しています。モータースポーツも他のスポーツに負けないくらい、期待が持てるものになっていけばいいなと思っています」
■富士スピードウェイはMORIZOのテーマパークである
富士スピードウェイはモータースポーツだけでなくママチャリの大会までも行うスポーツ・エンターテインメント施設だ。そして、富士スピードウェイを含む富士モータースポーツフォレストにはさまざまな施設がある。レストラン、カフェ、ミュージアム、ホテル、キャンプ施設、レーシングチームのガレージ、そしてウェルカムセンターだ。
そのうちの一つである富士スピードウェイホテルは、サーキットを見下ろす形で建っている。運営はハイアット ホテルズ アンド リゾーツ社で、ホテルのパンフレットには「モータースポーツとホスピタリティーの融合をコンセプトにしています」とある。部屋からサーキットを眺めることができるホテルは日本ではめずらしい。立地はMORIZO選手こと豊田章男のアイデアが元になっている。レーサーの意見が採り入れられたホテルなのである。
来年にはこれらに加えて温浴施設もできるという。車好き、レースファンだけでなく、家族連れがやってくるテーマパークだ。そして、テーマパークであればキャラクターが必要だ。
豊田章男は富士スピードウェイのメイン・キャラクターだ。自動車会議所の会長として駐日アメリカ大使をフォードF-150に乗せて歓待した。トヨタの会長としてアメリカ製のトヨタ車を展示した。次の瞬間にはMORIZO選手となって水素エンジンカローラを駆って、S耐の決勝レースを走った。それぞれの合間にはメイン・キャラクターとして子どもたちとハイタッチをした。
ミッキーマウスのいないディズニーランドは想像できない。同じように、MORIZOがいない富士スピードウェイも想像することができない。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)

ノンフィクション作家

1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。ビジネスインサイダーにて「一生に一度は見たい東京美術案内」を連載中。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)
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