※本稿は、楊海英『未完の中国文化大革命』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
■国家主席の妻・王光美を党代表として派遣
1963年4月4日、河北省保定地区から報告書が首都北京の中南海に届いた。かつて清朝皇帝が暮らしていた宮殿である。
「農村幹部の腐敗がひどい。帳簿のごまかし、倉庫の消失、国家財産の横領、労働点数の改竄(かいざん)などが横行している」
毛沢東は「四清(しせい)」を指示した。帳簿・倉庫・財産・労働点数の整理である。労働点数(工分)とは、人民公社の社員が働いた分に対する評価で、それに応じて食糧が配分されていた。
その後、5月20日に杭州会議で「当面の農村工作の中の若干の問題に関する決定(草案)」、通称「前十条」が採択された。
そこでは「すでに打倒したはずの地主と富農どもがあらゆる方法で幹部たちを誘惑して腐敗させた。一部の権力はもはや彼らの手中にある」として階級闘争が強調された。
9月27日にはまた北京で「農村の社会主義教育運動の中の若干の具体的政策に関する規定(草案)」、通称「後十条」が採択された。
政府より共産党が上位である以上、国家主席の劉も従わざるを得ない。1963年11月、劉は夫人の王光美を党代表として、天津市に隣接する河北省へ派遣した。
王光美は偽名の「董撲(とうぼく)」を名乗り、マスク姿で現れた。目的地は、撫寧(ふねい)県盧王荘(ろおうそう)人民公社の桃園生産大隊だった。
■45日間もストーブであぶってから外に放り出す
王光美は民兵隊長の関景東を使って、別の大隊長・呉臣を「ルンペン的で腐敗した幹部」として打倒した。
呉臣に自白を強要し、45日間もストーブであぶってから外に放り出すなどのリンチ(熱烈邦助、冷静思考)を加えた。最終的に「桃園生産大隊は実質上、反動的な国民党の党支部だ」と断罪した。
副書記の趙樹椿は腕時計や自転車の転売で汚職犯として吊るし上げられ、暴力の後遺症で1966年に死亡した。一部住民を動員して他の住民に暴力を加えさせ、自白を強要する。
伝統的な農村秩序を破壊する土地改革時の手法が再現された。並行して帳簿・倉庫・財産・労働点ない都調査され、「国民党数滓(ざんし)が共産党を腐敗させた」という結論が導かれた。
■桃園経験の称賛と批判
王光美は1964年7月5日、河北省党委員会と毛に報告書を提出した。「ある生産大隊における社会主義教育運動の経験総括」、通称「桃園経験」である。
毛は直々に称賛した。
「よくやった」
9月1日、毛は「桃園経験」を全国に公文書として転送した。
しかし、後年「無産階級文化大革命学習資料」で、人民解放軍と『人民日報』が掌(てのひら)を返して、「桃園経験」の暴力を批判することになる。
毛はここで運動をバージョンアップした。単なる帳簿・倉庫・財産・労働点数の小さな問題ではなく、「政治・経済・思想・組織」の大問題だとして、四清は「大四清」へと拡大された。
社会主義教育運動として全国に推進され、「修正主義」の芽を摘むという名目が強化された。
劉少奇夫妻の経験によって、農村に残存していた「法網から漏れた搾取階級の地主や反動的な国民党員の一掃」が進んだ。毛の認識する「階級闘争」は、打倒対象たる劉少奇と夫人の手で着実に推進される構図になったのである。
■「劉少奇こそ中国のフルシチョフだ」
文化大革命の只中である1967年1月、清華大学井崗山(せいこうざん)兵団が3冊からなる『打倒劉少奇』『砲打劉少奇』を作成し、以後の全国的な劉批判の基本教材となった。党中央の機密档案を渉猟した年譜・罪状は非常に精密である。
この資料は政府が意図的に、学生に機密文書を漏らした結果である。学生が機密資料をもとに、罪状を編み出したのである。当時の中国で、部外者が公文書など見られるはずがない。現在でも見られない。
意図的なリークであることは明らかだった。公安部長の謝富治がリークし、清華大学という名門大学の学生を利用したのである。学生たちは、利用されていると気づいていなかった。
『打倒劉少奇』『砲打劉少奇』はこう断じている。
「劉少奇こそ中国のフルシチョフだ。最大の罪は土地改革中に中農の利益を害し、人を殺しすぎたこと。『桃園経験』ではルンペンを重用し、革命的幹部を迫害した」
1967年9月6日の『解放軍報』社説は糾弾した。
「『桃園経験』は嘘だ。
ここに文化大革命最大のターゲットが明確化した。
幹部たちが動かないから、毛は未熟な学生たちを動員した。紅衛兵である。日本の全共闘は自発的に日米安保反対を掲げ、岸信介らは学生を利用しようとは考えなかった。
ところが中国の場合とことん青年学生を利用する。若き学生たちも、事が済んだら「お前ら、農山村に行け」と下放(かほう)運動で捨てられる。膨大な数の学生が使い捨てにされたのである。
加害者は被害者に、被害者は加害者に。郷紳階級の粛清で伝統社会は破壊され、誰もが加害者であり、被害者になっていった。
■台湾は文化大革命の真相を知っていた
日本のメディアや知識人が実態を知らずに文化大革命を好意的に論じたのとは対照的に、台湾の人たちは当時から、文化大革命の真相についてよく知っていた。複数のルートで正確な情報が入っていたからである。
実際、台湾のスパイが中国の奥地まで入っていた。沿岸地に船に乗って入ってくるし、金門島から潜ってくるし、香港からも入国してきた。共産党軍が大陸を占領した直後で、まだ台湾人が入ってきてもばれなかった。
国民党の敗残兵が来るルートも分かっていた。残っていたスパイたちが打電していたのである。1970年代まで続いた。
さらに中国のラジオ放送をキチして記録し、『人民日報』も入手していた。自分たちの諜報活動と公的情報を合わせて分析していたのである。
台湾の国防研究所が出した文化大革命に関する同時代の報告書は、きわめて正確である。
台湾の家族と連絡を取れば、反革命分子と見破られて処罰される。反革命分子鎮圧運動でも見つからなかったことは、台湾国防省の報告書『匪情月報』や『匪情研究』などを読めば分かる。
■不発だった上からの文化革命
1969年1月1日深夜、中国本土中央部の河南省・開封市南東部の火葬場に軍用ジープが乗りつけた。乱暴に降ろされたのは、靴下を履いていない裸足の遺体だった。軍人たちは書類に「劉衛黄」と書き、すぐ荼毘(だび)に付した。
当時、毛沢東の名から「東社会主義」となり、子どもに「衛東」のような名前をつけることが流行った。革命は赤だから「衛紅」も多かった。しかし、わざわざ「劉衛黄」と黄色をもちだすのは明らかに侮辱である。
中国語で「黄色」はポルノの意味だ。日本でピンクがポルノを意味するのと同じだ。つまり「衛黄」は「ポルノを衛(まも)る」という字を当てて貶めたのである。
遺体の主は70歳の国家主席・劉少奇だった。1月1日朝6時4分、開封市北土街1号で死去した。虐待・病気・治療拒否の末の死だった。
北京で訃報に接した毛は言った。
「自ら罪を犯した人間は生きる必要がない」
林彪副主席は言った。
「骨が朽ちるまで罵られるべきやつだ。燃やしてしまえ」
周恩来総理も言った。
「火で焼け」
劉は秋の1月1日に北京から追放され、担架に乗せられて軍用機で移送された。2日後に、古都開封市内の「追放先で死んだ」ことにされた。
■劉少奇の関係者2万2000人が逮捕・粛清
時期を前後して、劉少奇の6番目の夫人・王光美は1967年9月1日に逮捕され、北京市郊外の秦城監獄で1年の獄中生活を送ることになった。
前の妻との子である長男・劉允斌(いんひん)は、1967年に内モンゴル自治区西部の軍事工業都市・包頭市近郊で、列車に轢(ひ)かれて自殺した。長女・劉愛琴(あいきん)は内モンゴル自治区政府計画委員会によって「牛小屋」という監禁部屋に監禁された。次男・劉允若(いんじゃく)も逮捕され、8年後に死去した。
王光美の4人の子は未成年だったため、中南海の家から追い出された。18歳の娘「平平」、1歳の息子・源源も逮捕された。源源はのちに河南省副省長となるが、習近平と競合視され早期引退した。さらに、劉少奇の関係者2万2000人が逮捕・粛清された。
■五・一六通知――文化革命発動の号砲
毛沢東と並ぶ国家主席が、なぜこのような結末に至ったのか。
1966年5月4日から2日にかけて、北京で中共中央政治局拡大会議が開かれた。主催は劉少奇である。
5月16日に「五・一六通知」が出て、文化革命が発動した。
「破壊こそ革命、破壊こそ批判精神だ。反革命修正主義分子は我々の身辺に眠っている」
こうした過激な文言が入っていたが、この時点では「身辺のフルシチョフ」が誰かは分からなかった。会議主催者が劉自身だったからである。
毛沢東は、少なくとも1962年から劉少奇をソ連の指導者フルシチョフのような人物だと(人民公社)見なしていたと思われる。毛は理想論でコミーンを実現したいが、幹部は腐敗し、農民は無学である。毛は階級闘争の視点で世界を見ている。
劉少奇からすると、すでに自身が進めた地主階級の問題は土地改革で終わった、国民党は台湾へ移ったから、もういない。しかし、毛からすると、動かない劉はフルシチョフであり、自分の死後には「スターリン批判」のように否定される恐れがあった。
劉は親ソ派でもあるが、当時「フルシチョフみたいな奴がいるぞ」といわれても、大半の人が分からなかった。
他方で劉少奇は、革命を共産党の伝統通りの「上からの文化革命」と理解した。5月1日から大量の工作組を大学・高校・政府機関へ矢継ぎ早に派遣した。6月には北京市の各機関に約1万人の幹部を送り込み、文化革命をリードさせた。
共産党員が劉少奇の指示で来たと誰もが理解した。毛沢東も態度を明確にしなかったが、劉少奇とその側近には黙認していたように見えた。
しかし、1957年の反右派闘争で、毛が「引蛇出洞(蛇を穴から引き出す、陽謀作戦)」策を用いた前例の記憶が生々しかった。各級の政府幹部も学校側も「またやられる」と慎重・消極的に対応した。
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楊 海英(よう・かいえい)
静岡大学教授/文化人類学者
1964年、南モンゴル(中国・内モンゴル自治区)出身。北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。1989年に来日。国立民族学博物館、総合研究大学院大学で文学博士。2000年に帰化し、2006年から現職。司馬遼太郎賞や正論新風賞などを受賞。著書に『逆転の大中国史』『独裁の中国現代史』など。
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(静岡大学教授/文化人類学者 楊 海英)

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