群馬県藤岡市にある冨士製作所は、即席ラーメンの麺をつくる機械(製麺プラント)で世界シェア1位に立つ。社員83人の町工場は、なぜ「世界企業」になれたのか。
その背景には、創業時から受け継がれてきた「技術屋」の精神があった。櫻澤誠社長にフリージャーナリストの前屋毅さんが聞いた――。(後編)
■町工場から世界シェア1位に成長
即席ラーメンを生産するための製麺プラントで国内・国外ともに50%というトップシェアを誇る冨士製作所には、黙っていても仕事が舞い込んでくる。
2025年度の売上高が約50億円と、前年度の30億円台から1.5倍以上の伸びを記録した。利益も前年の6倍近くに膨らんでいる。社員83人で世界シェア50%、売上急伸、利益率改善と好調だが、こうした実績の背景には業界において常に先頭を走ってきた技術力がある。
同社の前身は、現在の櫻澤誠社長の祖父が群馬県高崎市で1946年に創業した櫻澤製作所である。当時から製麺プラントを手掛けていたわけではなく、近くにあった工場の設備修理や機械部品などをつくっていた。
「私も小さかったのではっきりとは覚えていませんが、工作機械のようなものがある作業場があって、そこに住居もありました。そして、工場をまわって御用聞きしながら、注文に応じて修理や製作をしていたらしいです」と、櫻澤社長。
地域密着型サービスの、いわば町工場だったらしい。そこから製麺プラントに乗り出して国内外でトップシェアを誇る企業に成長してきたわけだが、きっかけは1958年に日清食品からチキンラーメンが発売されたことだった。
これが大ヒットしてブームとなり、即席ラーメンを手掛けるメーカーが雨後の筍のごとくあらわれた。
「群馬県にも即席ラーメンのメーカーがたくさんできて、そこからもいろんな注文を受けていたようです。そうしたなかで、麺を揚げるためのフライヤーの相談があったわけです」
当時は即席ラーメンのメーカーも乱立状態だったが、そこの設備関連の注文を受ける工場も乱立していたという。フライヤーの相談が持ち掛けれて櫻澤製作所が「できない」ということになれば、ほかの工場に話は流れていたかもしれない。そうなると、現在の冨士製作所もなかった。
■「サッポロ一番」の製造ラインを作った
乱立状態だったために競争は激しく、フライヤーの相談をもちかけてきたメーカーも現在では即席ラーメンからは手を引いているという。古くからのつきあいが続いているところもあり、代表的なところでは群馬県にルーツをもつサンヨー食品で、ヒット商品「サッポロ一番」の製造ラインは製麺から袋詰めの工程まで、すべて冨士製作所が作ったものだ。
いまでは即席ラーメン関連の仕事を引き受けていた多くの工場が消えた。そうしたなかで、冨士製作所は生き残り、成長を続けてきている。その大きな理由が、フライヤー開発と改良、それと技術者の熱量にある。
1963年に世界初となる即席麺ライン用コンベア式フライヤーの開発に成功し、即席ラーメン関連事業に事業の主軸を移していくなかで、1964年には冨士製作所に社名を変更する。そして、次々と即席麺プラント関連の新製品を生みだしていく。

「事業の拡大については、2代目、つまり私の父親が大きく貢献しています。工業高校を卒業して父親(創業者)の仕事を手伝うようになりますが、技術者というより“技術屋”と呼んだほうがふさわしい人です」
■乾燥時間「1時間→2分」を実現
カップヌードルを日清食品の安藤百福が世界で初めて商品化したのは、1971年のことだった。しかし、袋麺が25円の時代に100円のカップヌードルは、高価すぎて売れ行きが芳しくなかった。転機は1972年に起きた連合赤軍が山荘に立て籠もって機動隊とぶつかった浅間山荘事件で、寒いなか機動隊員がカップヌードルを食べる姿がテレビニュースで流れて一気に火が付いた。
カップヌードルをはじめ、各社の手掛けるカップ麺の販売量が急激に伸びていく。当然ながら生産のためのプラントの需要も高まり、冨士製作所のカップ麺充填ラインの納入が増えていく。1993年ごろになると中国でカップ麺需要が急増し、冨士製作所は工場をフル稼働させて注文に応じていくことになる。
その後、健康志向の強まりから「ノンフライ麺」の需要が高まる。このトレンドに冨士製作所はいち早く対応した。1999年にはノンフライ麺を従来よりも圧倒的に早く乾燥させる高速乾燥機を開発する。
即席ラーメンは、もともと油で揚げることで保存性を高めたものだった。その油で揚げる工程の代わりに、熱風で麺を乾燥させたものがノンフライ麺で、1970年代になって登場してきた。
冨士製作所も1977年にノンフライ即席そば製造装置を開発したが、業界的なインパクトが大きかったのが高速乾燥機だった。
この製品は、より強い風を、より速く、より高温で麺に吹きつける。ただそれだけのことで、乾燥時間を劇的に短縮してしまったのである。櫻澤社長が説明する。
「10分くらいで乾燥させたい、という顧客の要望に応えるために開発した技術です。麺の太さや製品の特徴によって違ってきますが、いちばん早くやろうとすれば、2分か3分で乾燥させることもできます」
■新技術が「新食感」を生み出した
しかし、この技術がもつ本当の価値は、時短ではなかった。乾燥のスピードを劇的に上げると、出来上がる麺の食感そのものが変わったのである。
「麺の食感が変わるんですよ。油で揚げた麺やノンフライ麺とも違う、まったく新しい食感の麺が生まれるんです」と櫻澤社長。麺の歯切れ、コシ、のどごし――熱風の温度と風速を細かく調整することで、これまでの即席麺にはなかった食感に仕上がったという。
これは、即席麺メーカーにとっては大きなニュースだった。日本の即席麺市場は、すでに各社が無数の商品を投入する超激戦区である。
袋麺かカップ麺か、しょうゆかみそか、太麺か細麺か――どこかで他社と差別化しなければ、新商品は埋もれてしまう。そこに、これまで存在しなかった食感のバリエーションを生む技術が登場した。
「我々がそれまでにない食感の麺を作れるという技術があれば、メーカーさんはそれを使った新商品を開発しやすくなる。実際にそういう新製品開発の話につながったケースもある」と社長は語る。
具体的にどの即席麺メーカーのどの商品にこの技術が活かされているのかは、契約上の事情で公にできないという。しかし、普段食べているノンフライ即席麺には、冨士製作所の技術が隠されているかもしれない。
■「タテ型製麺機」で注目を集める
この高速乾燥機を開発する前年の1998年には、「タテ型製麺機」で「日食優秀食品機械資材賞」を受賞している。このタテ型製麺機がすごい技術で、水平に流していくのが普通だった製麺ラインを、縦に流すことを可能にしてしまった。これはいままでの製麺機ではあり得ないことだった。
縦にすることで何が良いかといえば、なんといっても省スペース化である。機械が横に広がれば、それを納める部屋も大きくなければならない。しかし縦型なら、高さは必要でも広さは必要ない。
そうなると、確保に高額の費用が必要になるスペースを節約できる。一定の敷地に多くの住戸を入れるために、高層化するのと同じ理屈である。
このタテ型製麺機を中心に、バスケット式多段蒸器、多段フライヤーなどで構成される省力・省スペース型の即席麺ラインを、冨士製作所は1996年の国際食品工業展(FOOMA)に出展している。展覧会は展示品を見学する場ではなく、新しい情報を仕入れて商談に結びつける場でもある。
タテ型製麺機は、こうした展覧会をきっかけに多くの即席麺メーカーに注目されている。
■「断らないでトライ」の精神
業界の常識を変えた高速乾燥機とタテ型製麺機だが、よくよく考えてみるとやっていることは非常にシンプルだ。高速乾燥機は「より強い風を、より速く、より高温で麺に吹きつける」といういかにも乾燥が早くなりそうな手法であり、タテ型製麺機も横に流していたものを縦に流しただけとも言える。言ってしまえば、当たり前のことをやっているだけだ。
素朴な疑問として、なぜ他社がこの“当たり前”に手を出さなかったかについて櫻澤社長に聞いてみた。
「他社さんのことはわかりませんが、我々はメーカーさんが喜んでくれるんだったら、こっちから新しい機能を提案してもっと便利な物を作りたい、という気持ちがあるんです。メーカーさんから依頼されたものだけを作る、という発想では新しい技術は生まれません」
顧客の要求を超えて提案型の開発をつづけ、しかもシンプルすぎて誰も見向きもしなかったところに踏み込んでしまう。こうした企業風土の原点には、創業者と2代目が定着させた「断らないでトライする精神」がある。

「創業者も2代目も、お客さんから難しい話をいただいても断らないで、とにかくトライするんです。自宅でも机の前で、ああでもない、こうでもないと、考えをめぐらしていました。うちが小さな町工場から製麺関連の企業になったのも、創業者が即席麺のフライヤーの製造を断らなかったからです」
この精神は、2代目の姿勢は社員にも伝播(でんぱ)し、冨士製作所の企業文化として根づいていった。「うちは他社と比べると、新しいもの、小さなものでも、どんどん手がけていくカルチャーがあるんです」と櫻澤社長。こうした企業体質こそが、社員83人の小さな会社を世界シェア1位に押し上げてきた原動力である。
■“技術屋”の精神を継承していきたい
2代目から託された“技術屋魂”の伝統を、3代目である櫻澤社長はどう引き継いでいくのか。じつは社長自身は、「技術屋」ではない。大学は商学部で、1986年に冨士製作所に入社してからは一貫して営業畑を歩いてきた。
「2代目のような技術屋の素質は、弟にも私にも、あまりないんですよ」と櫻澤社長は率直に語る。周囲の友達を見ても、床屋の息子は床屋に、会社員の息子は会社員になっている。3代目として会社を継ぐことに、子どものころから疑問をもつことはなかったという。
技術屋の血を自らは引かないと自覚しているからこそ、櫻澤社長は「仕組み」で技術屋魂を残そうとしている。具体的な手段が、特許取得の強化である。
「ここ2、3年で特許の取得数を増やしていこうとしています。先代のころは、とにかく特許申請をひんぱんにしていて、取得数も多かった。それが最近ではぐっと減ってきていて、特許申請をする発想自体が乏しくなっている気がします。ここを立て直すのが、私の役目だと思っています」
業界の常識を覆しつづけてきた2代目の“技術屋魂”と、その伝統を仕組みで守ろうとする3代目の“経営者魂”。群馬の製麺企業が世界の即席麺工場を支える挑戦は、まだ道半ばである。

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前屋 毅(まえや・つよし)

フリージャーナリスト

1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。立花隆氏、田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。著書に『学校が合わない子どもたち』(青春新書)、『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社)、『教育現場の7大問題』(KKベストセラーズ)、『ほんとうの教育をとりもどす』(共栄書房)、『日本の小さな大企業』(青春新書インテリジェンス)などがある

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(フリージャーナリスト 前屋 毅)
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