吉原で屈指の人気を誇った遊女、誰袖(たがそで)とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「吉原の中でもトップクラスの花魁だった彼女は、旗本の土山宗次郎に身請けされる。
しかし、2人の生活は3年程度しか続かなかった」という――。
■NHK大河ドラマに突如現れた「誰袖」とは
瀬川(小芝風花)がいなくなって、花が失われたようだったNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」だが、あたらしい花=花魁が登場した。蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が、仲の町に並べられて咲き誇る桜に見惚れていると、肩越しにひとりの娘が飛びついて「蔦重兄さん!」と甘えてみせた。
蔦重は「かをり」と呼ぶが、彼女が蔦重の口に自分の口を近づけて息を吹きつけると、蔦重は「やめろ、誰袖(たがそで)花魁」と言い直した。かをり改め誰袖(福原遥)である。
誰袖は「聞きんしたよ、往来物、ずいぶんと上手くいったようで」と言ったあと、歩を進める蔦重の後を追いかけて手をとり、「ところで兄さん、わっちの身請けはいつごろで? このまま商いが上手くいけば、兄さんなら身請けもできんしょ」と問いかけた。
蔦重は「あのなあ、腐るほど言われてっと思うけど、吉原の男と女郎は」と返したが(吉原の男と女郎の恋愛は厳禁だった)、誰袖は構わず「なにを気弱なことを。次々にあたらしいことを成し遂げてきた兄さんでありんす。そんなしきたりも書き替えてしまいんしょ、2人の愛の力で」と言って、蔦重にしなだれかかる。
■五代目瀬川とはまったく違う性格
そこに、彼女が所属する大文字屋の遣り手の志げ(山村紅葉)が現れて邪魔に入るが、誰袖は軽くいなして、別れ際にも蔦重に「兄さん、身請け、待っておりんすよ!」と言葉を投げかけた。
この飄々とした軽さも、世渡りの上手そうな天然のしなやかさも、男への自然な媚びの売り方も、瀬川にはなかった。むろん、「べらぼう」に登場したほかの女郎にもなかった。
あたらしいタイプの花魁が登場だが、じつは、かをりはすでに「べらぼう」に登場していた。振袖新造と呼ばれる女郎の見習い時代を、稲垣来泉が演じていた。
それが成長して、女郎に、それも花魁になったのが誰袖だった。では、誰袖とはどんな花魁だったのだろうか。「わっちの身請けはいつごろで?」というセリフが、彼女の近未来を暗示している。
誰袖が所属する大文字屋は、伊勢(三重県東部)出身の村田市兵衛が開いた妓楼(遊女屋)である。市兵衛は最初、吉原のなかでも下級の店が並ぶ、西側の河岸と呼ばれるエリアで妓楼を営んでいたが、京町一丁目に見世を移して大文字屋を名乗ると、短時日に吉原有数の大きな妓楼に発展した。
その婿養子が初代と同じ名を名乗った二代目、大文字屋市兵衛(伊藤淳史)である。
■当時の絵に残された姿
天明3年(1783)の正月に刊行された蔦重版(耕書堂版)の『吉原細見』には、「大もんじや市兵衛」管轄の女郎として「たがそで」の名が見え、その右上には「よび出し」と書かれている。
天明のころの吉原では、女郎の序列は上から呼出、昼三、座敷持、部屋持などに分かれていた。このなかでも呼出と昼三は、妓楼で顔見世をして客をとる張見世(はりみせ)をせず、とくに引手茶屋で客に指名されると、つまり呼び出されると、花魁道中をして出向いていくのが呼出だった。
一般に、上級の女郎である呼出と昼三が花魁で(座敷持までふくめる場合もある)、そのなかでも最高位だったのが呼出だ。
すなわち誰袖は最高位の女郎で、大文字屋の看板の花魁だったことになる。
10歳未満で吉原に売られてきた女児は、禿(かむろ)と呼ばれて、雑用をこなしながら、女郎になるための作法を学んだ。13~16歳になると女郎の見習いである振袖新造になり、17歳でいっぱしの女郎になるのが一般的だった。誰袖も禿時代から吉原におり、振袖新造を経て呼出になったようだ。
「べらぼう」にはすでに浮世絵師の北尾政演(古川雄大)が登場している。これは戯作者の山東京伝と同一人物で、その代表作のひとつに吉原の風俗が描かれた『吉原傾城新美人合自筆鏡』がある。もちろん、版元は蔦重の耕書堂で、その「大もんし屋」の女郎たちが描かれた錦絵のなかに「たか袖」、つまり誰袖の姿も描かれている。
■狂歌を詠む才女だった
また、誰袖は教養を身につけていて、狂歌を詠んだことでも知られる。狂歌とは和歌の定型に滑稽な内容や皮肉、社会風刺などを込めて詠んだもので、とりわけ天明年間の江戸で大流行した。
たとえば、天明3年(1783)に『千載和歌集』を文字って刊行された『万歳狂歌集』には、誰袖が詠んだ「わすれんと/かねて祈りし/紙入れの/などさらさらに/人の恋しき」という狂歌が収録されている。「忘れたいと思っているのに、あの人からもらった紙入れを見ると、ますます恋しく思えてくる」という恋の歌である。
誰袖が狂歌に親しんでいたのは、楼主である大文字屋市兵衛の影響があったのかもしれない。
市兵衛は天明時代における代表的な狂歌師でもあり、「加保茶元成(かぼちゃ の もとなり)」という狂名(狂歌を詠む際のペンネーム)を持っていた。蔦重らと吉原連を結成して主宰し、自分の別宅でたびたび狂歌会を開いていたほどで、誰袖が影響を受けても不思議ではない。
ところが、この誰袖の名が、前述した『吉原細見』から1年後に刊行されたもの、すなわち天明4年(1784)正月の版からは消えているのである。いったい、なにがあったのだろうか。
■なぜ旗本は大金を用意できたのか
誰袖は身請けされたのである。彼女の身を引き取ったのは旗本の土山宗次郎。1200両(1億2000万円程度)が投じられたといわれる。瀬川を身請けするために鳥山検校が支払った1400両(1億4000万円程度)に匹敵する金額である。
ただ、身請けする際には、楼主の言い値で身請け金を支払うだけでは済まなかった。引祝いという祝儀のほか、関係各所や仲間の女郎たちに赤飯ほかさまざまなものを振舞う必要があり、総額は身請け金の2倍程度になることもしばしばだったという。
土山宗次郎が支払った1200両はそういった総額だというから、鳥山検校よりはスケールが小さい。とはいえ、ふつうは到底支払えない巨額であることには変わりがない。
当時、幕府の直臣である旗本の多くが生活に窮していたなか、宗次郎はどうしてそんな額が支払えたのか。
宗次郎は田沼意次の施政下で、安永5年(1776)から勘定組頭を務めていた。現在の財務大臣に当たる当時の勘定奉行のもとで、勘定所の役人を統括し、指揮する役職が勘定組頭だった。しかも、宗次郎は意次の施政下における重要な仕事を担っていた。
■「夫」の逐電、そして…
意次は蝦夷地(北海道とその周辺)の開発やロシアとの交易に目をつけ、その実現の可能性を探って調査をはじめていた。そこに大きく関与していたのが土山宗次郎だった。天明3年(1783)、工藤平助がロシア研究書『赤蝦夷風説考』を記すと、意次の腹心であった勘定奉行の松本秀持は、この本とともに蝦夷地の開発と防衛について、意次に進言した。
その結果、実地調査も行われるようになるが、この提言に関わり、実地調査を指揮したのが宗次郎だった。
一方、諸大名が幕府に頼みごとをする場合、窓口になるのは勘定組頭で、したがって、まず勘定組頭に贈り物をするのが一般的だった。新規事業を次々と進めた意次のもとで、宗次郎への「贈り物」が増していったことは想像に難くない。
天明初期、宗次郎は戯作者で本職は幕府の御家人だった太田南畝(なんぽ)と、吉原で頻繁に豪遊していた。身請けの資金も、南畝の分もふくむ吉原での豪遊費用も、こうした不正な金だったと考えられている。
その結果、天明6年(1786)に意次が失脚したのち、公金横領の嫌疑がかけられ、500両の横領があったとして斬首される。
捕縛される前、天明7年(1787)に宗次郎は逐電し、一時、宗次郎のもとで蝦夷地の調査も行った平秩東作(へづつ とうさく)に匿われていた。このとき宗次郎は誰袖を連れていた。だから、彼女は身請けされてから3年程度は、宗次郎に愛されていたと思われる。だが、その後の行方は知れない。
なんの記録もないということは、不幸に見舞われたのだろうか。ただ、自身が詠んだ狂歌を遺したという点では瀬川以上に、いや、吉原の花魁としては傑出して、歴史に名を刻んだということもできるだろう。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。
関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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