大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)に登場する天才的な浮世絵師・喜多川歌麿(染谷将太)。作家の濱田浩一郎さんは「歌麿は蔦屋重三郎(横浜流星)と組み、浮世絵師として大成功するが、後に投獄され、54歳で悲劇的な死を迎えた」という――。

■染谷将太演じる天才絵師・歌麿がようやく大河に登場
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)で横浜流星さん演じる“蔦重”こと蔦屋重三郎(江戸時代中・後期の出版業者。1750~1797年)。彼が江戸のメディア王となっていく過程で組み、美人画など優れた浮世絵を描き、流行の発信者となったのが有名な浮世絵師・喜多川歌麿です。「べらぼう」においては染谷将太さんが演じます。
蔦重と歌麿、2人はどのような関係にあったのでしょうか。蔦重は黄表紙や狂歌本などの文芸書を出版してきたのですが、彼の出版領域はそれのみにとどまらず浮世絵の分野にも展開していくのです。蔦重と組んで浮世絵を世に送り出したのは歌麿だけではありません。北尾重政(橋本淳)や北尾政演(山東京伝(さんとうきょうでん)の画号、演・古川雄大)、東洲斎写楽もそうでした。蔦重と歌麿はどのように関係を築き、作品を世に送り出していったかを見る前に、歌麿の前半生についても見ていきましょう。
■歌麿と版元の蔦屋重三郎はどんな関係だったのか
歌麿の生年・出身地については諸説あり確かなことは分かっていません。そうした意味で、写楽のように彼も「謎の絵師」と言えるかもしれません。ただ歌麿は文化3年(1806)に54歳で亡くなったということで、生年を宝暦3年(1753)とする説が有力です。
同説を採るとすると歌麿は蔦重の3歳年下ということになります。歌麿の出生地にしても江戸や川越、京都などの各説がありますが、江戸説が有力となっています。
さて喜多川歌麿は本名ではなく、画姓・画号です。歌麿の本姓は北川(喜多川)氏、俗名は市太郎(勇助)といいました(煩雑となるので本稿では歌麿で通します)。歌麿は幼い頃より絵を描くことに興味があったようで、幼少の頃から画家・鳥山石燕(とりやませきえん)(1712~1788)を師として画技を学んだようです。石燕は狩野派の町絵師であり、「百鬼夜行」など妖怪画を多く描いたことで知られています。「べらぼう」においては、画家でもある片岡鶴太郎さんが演じます。
■歌麿を生み出した鳥山石燕と北尾重政という2人の師匠
石燕の門からは歌麿だけでなく戯作者・浮世絵師の恋川春町(こいかわはるまち)(演・岡山天音)もおりました。恋川春町は黄表紙(きびょうし)(喜劇小説)『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』の作者として有名ですが、この作品で松平定信の文武奨励政策を風刺したとして、春町は幕府から出頭を命じられます。歌麿は石燕の「弟子」だったわけですが、歌麿にはもう1人の師匠がいたとされます。それが浮世絵師の北尾重政(1739~1820)でした。
『古画備考』(江戸時代後期の画家・朝岡興禎による画人伝)の重政の項目には「石燕の弟子、喜多川歌麿ハ、弟子同前(同然)也」とあります。
石燕は浮世絵ではなく、絵本や絵入俳諧本が活動の中心だったこともあり、浮世絵師・歌麿により大きな影響を与えたのは、浮世絵師の北尾重政だったのではとも言われているのです。重政は江戸小伝馬町の書肆(しょし)・須原屋(すわらや)三郎兵衛の長男として生まれますが、独学で絵を学び、浮世絵師として美人画・風景画を残しました。
歌麿が浮世絵師としてデビューしたのは安永4年(1775)のことであり、役者絵を手がけます。当時は「北川豊章」の名でした。その後、歌麿は安永7年(1778)には黄表紙の挿絵を描きます。その後も歌麿は黄表紙の挿絵を描いていくことになるのですが、その中には西村屋与八(演・西村まさ彦)が版元になっているものがありました。西村屋は日本橋に店を構える有力書肆。有力版元からの仕事に歌麿は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したかもしれませんが、西村屋が目をかけていたのは歌麿だけではありません。
■アーティストとして強烈なプライドを持っていたか
歌麿の1つ年上の鳥居清長(1752~1815)という絵師も西村屋から多くの仕事を任されていました。例えば安永9年(1780)、西村屋は清長に10種の黄表紙の挿絵を担当させています。一方、同年に歌麿が描いた西村屋版の黄表紙は4種でした。清長は歌麿と比べて現代における一般の知名度は低いですが、浮世絵界の名門・鳥居派に属し役者絵や美人画をよく描いた浮世絵師です。
西村屋は清長に担当させた挿絵数からも分かるように、歌麿よりも清長の方により目を掛けていました。
芸術家というものは一般的に自尊心が強いものです。歌麿の心中に「なぜ自分ではなく、清長なのか」という不満がくすぶっていたとしても不思議ではありません。歌麿が次に組むことになるのが、蔦屋重三郎です。蔦重と歌麿がどのようにして出会ったのかに関しては諸説あります。吉原生まれの蔦重は年少の頃に両親が離婚し、喜多川氏の養子となります。歌麿の姓も蔦重の養家と同じ喜多川氏。このことから歌麿は蔦重の養家の人間、もしくは養家の親戚ではないかとの推測もあるのです。
■いまだに謎である歌麿と蔦重の本当の関係
天明4年(1784)、蔦重は『いたみ諸白(もろはく)』(吉原大門口脇の酒屋の息子・大門際成の追善狂歌集。法要の配布物として制作されたか)を刊行しますが、その制作には歌麿も関与していました。このことから歌麿は吉原の人物とも関係を持っていたこと、更には歌麿自身が吉原の人間ではなかったかという推測も存在します。
蔦重と歌麿の出会いや関係性の強化に影響を及ぼしたと考えられるのが、先に登場した北尾重政です。
戯作者・朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)(演・尾美としのり)と共に蔦重を支えた「両輪」とも称されるのが重政ですが、彼は蔦屋版の黄表紙に絵を描いていました。前述したように重政にとって歌麿は「弟子同前」の人間。重政が蔦重と歌麿の出会いの橋渡しをしたとしても違和感はそれほどないでしょう。
蔦重と歌麿、両者の初めての仕事は天明元年(1781)、蔦重刊行の黄表紙『身貌大通神略縁起(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)』(以下『身貌縁起』と略記)でした。この黄表紙に歌麿は挿絵を描くのです。同書の作者は歌麿と同じ鳥山石燕門下で戯作者の志水燕十(しみずえんじゅう)でした。『身貌縁起』は歌麿が初めて「歌麿」号を使用した作品です(それまでは豊章)。改号は新たな環境で精進しようという歌麿の気分の表れかもしれません。
■蔦重と組んで成功、その蜜月関係を壊した絵師の名前
その翌年(1782)の秋、歌麿は上野の忍が岡で宴席を設けます。その宴席には戯作者や浮世絵師が招かれたのですが、四方赤良(よものあから)(大田南畝(なんぽ)の別名、演・桐谷健太)・恋川春町・朋誠堂喜三二・北尾重政・鳥居清長などが参会しました。この宴席は歌麿が主催したのですが、歌麿は名目上の主催者。その裏に真の主催者がいたとされます。
そしてその真の主催者こそ蔦重だったと言われます。
歌麿は数年前に浮世絵界入りしたばかり。そんな歌麿にこのような宴席を設定するのは困難だというのです。では蔦重はなぜこのような宴席を設けたのでしょう。おそらく蔦重は、歌麿と特に戯作者を会わせて親交させようとしたと思われます。そこには戯作者の戯作(小説)と歌麿の絵を組み合わせて出版せんとする蔦重の思惑が絡んでいたはずです。宴の参会者と歌麿は後に合作することになりますが、そうしたことを考えれば宴は功を奏したと言えるでしょう。蔦重のもとで歌麿は錦絵や狂歌絵本(『画本虫撰(えほんむしえらみ)』1788年刊、『潮干(しおひ)のつと』1789年刊)を手がけることになります。
蔦屋と専属に近い関係にあった歌麿ですが、蔦屋以外の版元からも作品を発表しています。寛政6年(1794)頃からその傾向は強まるとされますが、その大きな要因が東洲斎写楽という浮世絵師の登場にあったと言われています。
■蔦重の死後、歌麿は投獄され、54歳で亡くなった
その後、有名な「ポッピンを吹く娘」など、寛政2~3年(1790~91)から蔦重と組んで描き始めた「婦女人相十品」「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で人気を博し、彼が描いた女性の着物や髪型が市中で流行するなど、今でいうインフルエンサーになった歌麿。
蔦重と蜜月にあった歌麿でしたが、寛政6年(もしくは寛政5年)頃から関係が冷え込んだと言われているのです。
蔦重が東洲斎写楽に入れ込んだことにより、歌麿が気分を害して蔦屋から離れていったという説。他の版元から勧誘された歌麿が蔦屋を離れていき、それが要因で蔦重は写楽に重点を移していったという説があります。どちらが正しいかは判然としませんが、前者とするならば、かつて歌麿が西村屋から離れていったのと同じ現象が起きたことになるでしょう。
歌麿は「自意識と自信を体一杯にたぎらせた強烈な存在感をもった人間」と評されることがありますが、そうした人間ならば自分の才能を認めてくれなくなった人のもとを去ったとしてもおかしくはありません。蔦重は寛政9年(1797)に亡くなりますが、歌麿は蔦重の死後も絵を描き続けています。
ところが文化元年(1804)、『太閤記』(豊臣秀吉の伝記)に取材した錦絵が徳川幕府によりとがめられ、歌麿は入牢・手鎖の刑を受けることになります。その2年後、歌麿は失意のうちに亡くなったとされます。美人画の第一人者とされた歌麿の最期は不遇でした。

参考文献

・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)

・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)

作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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