仕事がうまくいかないとき、どこに原因があるのか。アドラー心理学の研究者として知られる岸見一郎さんは「結果が出なくても、劣等感に囚われてはいけない。
アドラーは劣等感には二種類あると考えた」という――。
※本稿は、岸見一郎『「普通」につけるくすり』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
■人生を失速させる本当の正体
自分が特別だと思ってきた人は、これまでの人生でいい成績を取り、仕事でも成功してきたことでしょう。なので、ブレーキをかけたことはないと思うかもしれません。
それでも、これからもいい結果を出せるだろうかと不安になったり、自分は特別ではないかもしれないと思うような経験をしたりすると、そう思うことが課題に取り組むときのブレーキになりかねません。
特別であろうとする人は過剰に努力をしますが、どこか劣等感があります。この劣等感は仕事に取り組むときのブレーキになります。努力をしながらも、劣等感を持つことは、アクセルとブレーキを同時に踏むようなものです。
人生においては避けることができない課題があります。その一つが仕事です。生徒や学生であれば勉強です。アドラーは次のように言っています。

「自分に価値があると思えるときにだけ、勇気を持てる」(Adler Speaks)
■「深淵の前に立つ恐怖」は評価への恐れ
勉強や仕事に取り組むのになぜ勇気が必要なのか。仕事をすれば結果が出て、評価されます。その結果に対して低い評価しかされなくても、自分には価値がある――仕事の場合は有能である――と思える人は課題に引き続き取り組むでしょう。
しかし、そのような評価が下されることを恐れ、仕事を前にして怯む人がいます。アドラーはそのような人について、先にも引いたように、次のように言っています。
「自分の力を試してみても、深淵の前に立っているように感じ、ショックの作用――自分に価値がないことがあらわになる恐れ――で退却し始める」(『生きる意味を求めて』)
どんな仕事もやすやすと達成できるわけではありません。大きな仕事をやり遂げるためには努力しなければなりませんが、取り組む仕事があまりに難しく到底やり遂げることができないと思って退却し始めるのではありません。深淵の前に立って「ショック」を感じる本当の理由は、「自分に価値がないことがあらわになる」ことを恐れるからです。
■「能力の無さ」は課題回避の言い訳にすぎない
自分は有能でないと思っている人や、有能だと思っていたけれどもそうではないかもしれないと自分の能力に自信を持てなくなった人は、結果が出て評価されることを恐れるので、仕事に取り組もうとしない、少なくとも積極的に取り組もうとしなくなります。
自分が有能であるという確信が揺らいでいるとはいえ、自分は有能で優秀なはずだと思いたい人には、仕事に全力で取り組まない「理由」が必要です。よい結果を出せないのではないか、自分は有能ではないのではないか。これが劣等感です。
このような劣等感があることは、少なくとも全力で仕事に取り組まない理由にできます。「課題に取り組まなければ、有能でないという現実を直視せずにすむ」という自己防衛の心理です。
実際に能力がないので仕事に取り組めないのではありません。能力がないことは劣等性(inferiority)ですが、劣等感(inferiority feeling)は劣っていると感じていることであり、実際に劣っているわけではありません。仕事に取り組めば結果が出ますが、取り組まなければ結果は出ません。しかし、取り組まないためには理由が必要です。そこで、その理由として劣等感が登場するのです。
■「勉強ができない子」というレッテルが全てを決める
子どもは、最初から勉強ができないと思うわけではありません。しかし、親や教師が成績の振るわない子どもに「勉強ができない」と言い続けると、自分が有能でないことを理由にして課題に取り組もうとしなくなります。
有能だと思っていたのに普通かもしれないと思った人も同じです。一度失敗したりしただけで、その後もできないと思って、挑戦するのをやめてしまうのです。これまで勉強ができないと他の人から言われたことはなかったので、自信が揺らぎ今や自分でブレーキをかけなければならなくなるのです。

アドラーは劣等感は弱さなので、隠そうとする人がいると言います。劣等感は一般に弱さの証拠、何か恥ずべきものと見なされているので、劣等感を隠そうとする傾向が強いというのです。しかし、劣等感についての考えを変えることで、自分の能力についての見方も変えることができます。
■都合のいい「ライバル像」を作り出して安住する
仕事で結果を出さないために劣等感を作り出す――これは自分の能力について不安があるからですが、結果を出すことを恐れて課題に取り組まない理由はこれだけではありません。
自分よりも有能な人がいて、その人には到底敵わないと思い込み、課題に取り組むことを避けてしまうことがあります。また、今はライバルがいなくても、そのような人が現れるかもしれないと思って不安を抱き、課題に対して消極的になることもあります。自分の能力に自信がないだけでなく、自分よりも有能に見える人を理由にして、課題に取り組まないことを正当化しているのです。
これまで自分は有能だと思っていた人でも、「自分は普通かもしれない、これまでのような成功を収められなくなるのでは」と思って不安になるとき、この不安がブレーキになります。ここで重要なのは、実際に自分よりも有能なライバルが現れるかどうかは関係ないということです。「有能な人がいる、だから到底敵わない」と思って課題に取り組まない決心ができればいいので、そのような人が実際にいる必要はないのです。
ライバルの存在が原因で不安になるのではありません。直面する課題をやり遂げるには努力するしかありませんが、その努力にブレーキをかけるために、自ら不安を作り出しているというのが本当です。

■かつての自分と比べることがブレーキに
不安になるきっかけは他にもあります。若い人には思いもよらないかもしれませんが、年齢を重ねると、もはや若いときのような記憶力や集中力がなくなったと感じることがあります。今は仕事ができるけれども、いつまで仕事ができるかわからないという不安に襲われ、若いときはもっと物覚えもよく、新しいことを学ぶことに抵抗もなかったのに、今は前ほど覚えられなくなったと感じるのです。
しかし、前のような結果が出せなくなったことの原因を記憶力、集中力、体力の低下に求める人でも、受験勉強をしていたときのように真剣に仕事に取り組めば、いい結果を出せないわけではありません。最初から取り組まないでおこうと決めているので、頑張ろうとしないだけです。
目立った能力の衰えを感じていない人でも、かつての自分と今の自分を比べ、仕事であれ、何かを学ぶのであれ、今は頑張っても前のようにはできないと思う人もいます。そのような人も意欲的に新しいことに取り組まず、仕事をしないでおこうと考え、ブレーキをかけてしまいます。そうすれば、不本意な結果を出さずにすむので、いつまでも有能だと思うことができるからです。
■過去の栄光にしがみつく人が残念な理由
実際に不本意な結果を出すことになるかはわかりませんが、課題に取り組まない決心をするために、先に見た劣等感やライバルの存在と同様、かつての自分と今の自分を比べ、前のようないい結果を出せないと思うことを理由にするのです。
若いときに仕事で成功した人がいつまでもそのときの成功に囚われてしまうこともあります。あのベストセラーになった本を編集したのは私だ、新商品を企画したのは私なのだと皆に吹聴したくなるのでしょうが、それはあくまでも過去の業績です。
次の仕事をするべきだと私は思うのですが、かつてのような努力をしてもそれを超える仕事ができないという現実に直面したくないので、能力の衰えを理由にして逃げているのです。

アドラーは誰でもある程度、劣等感を持っていると考えています。しかし、人生の課題に向き合うためには、劣等感をブレーキにしてはいけませんし、そもそも劣等感は必要ではありません。
アドラーは劣等感には二種類あると考えました。有用でない劣等感と、有用な劣等感です。まず、有用でない劣等感とは、他者と自分を比べたときに持つ劣等感です。アドラーは劣等感に並べて「優越性の追求」という言葉も使っています。優れようと努力するという意味です。
■競争の先に待つのは戦々恐々とした毎日である
他者との競争に勝ち、他の人からよく思われたい人の優越性の追求は、「野心」という形で表れます。アドラーはこのような他の人よりも優れようとする形で表れる優越性の追求を「個人的な優越性の追求」(individual striving towards superiority)と言います。仕事はただ自分のためにするのではないと考える人がいる一方で、自分が優秀であると認められることしか考えない人は、自分にしか関心を持っていません。
他者との競争に勝つという仕方で優越性を追求する人は、他者との競争に勝てば優越感を持てるでしょうが、競争に勝てたとしてもいつか負けるのではないかと戦々恐々としていなければならず、安閑としていられません。
個人的な優越性を追求する人は、自分の優位が脅かされることを恐れます。
優越感は優越していると感じることで、実際に優れていることではありません。他者との競争によってしか得られない優越感は劣等感の裏返しです。
今日、勉強でも仕事でも競争することは当然のことと思われていますが、競争に負けると、劣等感を持つことになり、勝ってもいつまでも勝ち続けることはできないと思うと、緊張した生き方となります。競争のどこに問題があるのか、競争に代わる関係のあり方がないかは、少し後で考えましょう。
■“いい劣等感”とはなにか
さて、劣等感のもう一つは、有用な劣等感です。アドラーは「劣等感から優越感へと流れる精神生活の流れの全体が無意識のうちに起こる」(『人はなぜ神経症になるのか』)という言い方をするのですが、劣等感を人生の課題から逃れる理由にするのではなく、「劣等感から優越感へと流れる」のであれば、劣等感は有用なものであるはずだと説きます。
アドラーは次のように言います。
「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で、努力と成長への正常な刺激である」(『人生の意味の心理学』)
劣等感を持っている人がそのことを病的だと感じることがあるとしても、優越性の追求を病気と見なす人はいないと思うのですが、本人がというより、あまりに優れようとしているのを見た他の人がそう感じるということでしょう。
ここでアドラーは、優越性の追求と劣等感について、努力し成長することへの刺激になる健康なものと、そうでないものに区別します。たとえ劣等感を持っていても、それを補償する努力をするのであれば、健康なものだと考えるのです。
■心筋梗塞のリハビリから学んだこと
私は五十歳のときに心筋梗塞で倒れ入院したことがあります。今は早期離床といって、病気の治療をする一方で、できる限り早くリハビリを始めます。心臓リハビリというプログラムに従って少しずつ歩く距離を増やしていくのですが、最初は病室の外には行かずに、ベッドから降りて立つところから始めました。思うように歩けませんでしたが、日増しに歩ける距離が長くなりました。歩けない状態から歩けるようになりたいと思い、リハビリに励むことは、アドラーが言う健康な優越性の追求です。
しかし、私は歩けないことに劣等感を持っていたわけではありませんし、劣等感を克服するためにリハビリに励んだのでもありません。たしかに長い距離を歩けませんでしたが、病気のために「ただ」歩けないだけだったのです。病気のために歩けなかった状態を脱して歩けるように努力をしました。しかし、アドラーが言うのとは違って、私は劣等感を克服するために優越性を追求したわけではありません。
病気になったら、治療を受けたりリハビリを受けたりして元の健康な状態に戻ろうとしますが、他の人と比較して自分が劣っていると感じる必要はありませんし、他の人よりも優れるためにリハビリの努力をするわけでもありません。
■求められるのは「優越」ではない
また、若くないことに劣等感を持つ人はいるでしょうが、歳を重ねることに誰もが必ず劣等感を持つわけではありません。いろいろなことができなくなるのは本当ですが、それをいうなら生まれたばかりの子どもは何もできません。しかし、何もできないからといって、乳児や幼児は劣等感を持ちません。もっとも子どもの場合、もう少し大きくなると、大人から子ども扱いされて劣等感を持つことはありますが。
さらに、知らないことに劣等感を持つ人もいますが、そんな必要はありません。知らないことは、歩けないことと同様、ただ知らないだけで劣っている状態ではないからです。幼い子どもが知らないことがたくさんあるからといって、その子どもが劣っているとは思わないでしょう。大人も何でも知っている人はいません。しかし、だからといって、その人が劣っているわけではありません。学べば知識は身につきます。
■アドラーはなぜ劣等感を語らなくなったか
私が伝えたいのは、「劣等感がなくても、健全な努力はできる」ということです。努力に、劣等感や他者より優れていたい優越性の追求は不要です。
知らないことがあれば学び、成績がよくなければ次回はいい成績を取れるように勉強することが有用な優越性の追求ですが、劣等感に結びつける必要はありません。知らないことがあるからといって劣等感を持つ必要はなく、知らないことがあれば知識を身につければいいだけのことです。
知らないことを知ろうとするのは、人間の根源的な欲求です。知識を身につけようとすることも、リハビリをして歩けるようになろうとすることも、劣っているから克服しなければならないと、劣等感を克服するために努力することではありません。
アドラーも、「劣等感があるから優越性を追求する」と言うと、劣等感が優越性の追求の原因と見ることになるので、後には劣等感についてあまり語らなくなりました。

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岸見 一郎(きしみ・いちろう)

哲学者

1956年京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。専門の西洋古代哲学、特にプラトン哲学と並行して、アドラー心理学を研究。本書執筆後は、国内外で多くの“青年”に対して精力的に講演・カウンセリング活動を行う。ミリオンセラー『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(以上、古賀史健氏との共著)をはじめ、『困った時のアドラー心理学』『人生を変える勇気』『アドラーをじっくり読む』など著書多数。

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(哲学者 岸見 一郎)
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